義理を通せば首がない(16 面)
夕日の差すアパートの共用廊下で土下座している人間に遭遇し、そいつが居座っているのが自分の部屋だと理解し、更に出かけたときに閉めていたはずの玄関ドアが全開になっていると気づいたときには泣くか逃げるかどちらにしようかと真剣に悩んでしまった。
「どの面下げて会いに来たんだ、お前」
「すんません先輩、でもこれには事情が──」
「お前の事情なんか知らねえよ。今更どうこう言われたところで何にもできねえんだ、俺には」
いつでも逃げ出せるように構えた体勢で、距離を保ったまま聞き耳を立てる。
状況も内容も細かいことは何も分からないが、聞こえる声の一方には覚えがあった。
それならば警察沙汰にする前にできることがあるかもしれないと俺は自室の前まで走った。
「兄さん」
玄関にまっすぐ置かれた兄と青年が同時にこちらを向いた。
青年が起き抜けに二三発ぶん殴られたような呆然とした表情をしているのとは裏腹に、兄が夕日の色も照明の光も塗り潰した煤けて昏い目をこちらに向けたのがあまりに予想外だった。
「あの、今大学から帰ってきて──その、こちらは」
「先輩、この人は」
「俺の弟だよ」
玄関先で座り込んでいる青年──スカジャンの背中にはぎらぎらとした配色の龍と桜が描かれている──はしばらくぎょっとしたような顔で俺を見てから、また兄の方へと視線を戻した。
兄は俺からも青年からも視線を逸らしたまま、
「帰れ。俺のとこには二度と面出すな。どうしてもったらカキザキのとこ行きな」
「先輩、でも」
「近所迷惑だ。帰れ」
そこで這いつくばられてたら俺の弟が家に入れねえだろと兄が吐いた一言に、のそりと青年は立ち上がった。
デカい。
立ち上がって分かったことだが、俺より頭一つ分は優に大きい。やや赤みを帯びた髪は共用通路の蛍光灯に透けて金属じみた光りかたをしている。肩幅も広い。兄の首ぐらいなら掴んで放り投げても充分な飛距離を出せそうな体躯だ。
どちらかと言えば土下座をさせる方であって、させられる方ではないだろう。どんな理由と関係があったら生首相手にあそこまで手本のような頭の下げ方をすることになるのだろう。
そんなことを思いながら、俺は青年を見上げる。
青年は見事な三白眼でしばらく俺のことをじっと見つめてから、深々と頭を下げた。
「先輩のこと、よろしくお願いします」
そのままこちらを振り返ることもなく、背中の龍は角を曲がって見えなくなった。
何だったんだ。
開け放したままの玄関扉と青白い照明の下でしばらく呆然としてから、玄関に陣取っている兄を見る。
「あー……早かったな」
もうちょっと遅くなると思ったけどな、といつもより僅かにぎこちない笑顔を作って、
先程の荒い口調や青年のことなど、そんなことは一切なかったとでもいうような、見慣れた声と表情だった。
五体満足の、普通の人間らしき青年がどうして生首の兄に土下座をしていたのか。どうして兄を先輩と呼んでいたのか。どうして俺を見てあんなに驚いたのか。
どうして俺に先輩を──兄のことを頼んだのか。
俺は何を頼まれたのか。
疑問はいくらでも湧いてくる。だが、それを尋ねる権限が俺にあるのかどうかが分からなかった。
兄の交友関係に口を出す権利が俺にあるとも思えない。兄の顔をもう一度覗き込めば、照明のせいかひどく青ざめて見えた。
誰だって人に知られたくない一面や関係ぐらいあるだろう。血が繋がっている親兄弟でも、互いに見せずに隠しておくことで平穏が保たれる事象なんてものはいくらでもある。生首だって同じだ。兄を名乗っていようが首だけだろうが、意思を持つ存在である以上は尊重されるべきだ。
兄という個人の背景に、許可もなく土足で踏み込むような真似をするのは、なんだかとてもむごいことのような気がした。
「あのさ、兄さん」
「なんだ」
「……警察は、いいよね」
「いいよ。そういうんじゃないから」
ならばいい。身の安全が保障されているのなら、とりあえずは目を瞑ろう。
分かりやすいくらい大袈裟に天井を仰ぐ。深呼吸はあからさまが過ぎるだろうか。
蛍光灯の側にかかった蜘蛛の巣には、胴体だけやけに太った蜘蛛が大儀そうに揺れていた。
蛍光灯に目が十分に眩んでから、兄の方へと視線を戻す。
兄はばちばちと音の出そうな瞬きを繰り返して、それでも俺を正面から見ようとしていた。
「──じゃあ、兄さん」
「おう」
「ただいま」
兄は一瞬右目だけを大きく瞠ってから、
「おかえり」
そう言ってくるりと後頭部を向けて、弾むようにして部屋へと戻っていった。
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