夜を鳴らして■が来る(10 来る)
胸の上にひどく重たい物が飛び乗ってきたので俺は悲鳴になるべき空気を吐き出してしまった。
「いつまで呑気に寝てるんだ。もう夜だぞ」
胸の上には生首の兄がいる。みぞおちのあたりに堂々と陣取ったまま、何やら険しい顔でこちらを詰っている。成人男性の首がひとつ乗っただけでも意外と重く、うっすら息苦しくなることを初めて知った。
首を両手で抱えて、枕元に置く。兄はぐらぐらと左右に揺れて、ベランダの方を向いた。
空は既に濃い紫に染まっていた。日は沈んでしまったのだろう、ベランダにも真っ黒な夜の気配が満ち始めている。
「帰ってくるなり寝たろお前。寝る子は育つとはいうけどな、こんな時間まで寝るな」
「育つかなこの歳で……今日あんまり寝れなかったんだよ。ちゃんと講義出て帰ってきたんだから寝ててもいいだろ」
部屋の照明を点けるが、眠気は一向に消えない。夕飯なら最悪米を炊きさえすればカロリーは取れるのだから、三十分あればなんとかなる。ことに明日は土曜日なのだから、雑な昼寝のせいで睡眠時間がずれたとしても問題はない。長い夜を兄と話して過ごすのも悪くないだろう。
もう一度ベッドに横になろうとした途端、背中を思い切りどつかれて息が止まった。反動で床に落ちたらしい兄が短く呻いた。
「暴力──暴力に訴えたのか、兄さん」
「だってお前寝ようとするから。起きろよ」
「もっかい言うけど俺寝れてないんだよ。眠いんだよ」
「お前が大学行って疲れてんのは分かってる。だからぎりぎりまで起こさなかったけどな、もうだめだ。危ないんだよ」
危ない、という言葉に塞がろうとする目がどうにか開く。ただの小言ではなく警告なのかと兄の顔を覗き込む。
兄は床に転がったままベランダの方を睨んで、
「来るぞ」
いいからカーテンを閉めろと吠えるような悲鳴のような声での命令に、俺は慌てて窓際に駆け寄る。窓の端まで引き開けられた布を掴んで、そのまま勢いをつけて閉める。レールが猫の威嚇のような音を立てた。
カーテンが閉め切られた瞬間、僅かに床が揺れた。
地鳴りのような低い唸りが近づいて、すぐに轟音に化けた。カーテンを掴んだままの手に振動が伝わる。学生の頃に始めて連れて行かれたライブハウスの揺れで酔ったことを思い出した。それくらいの密度のある揺れと音だ。
窓ガラスのすぐ向こうを何かが凄まじい勢いで過ぎていった。
カーテンの端を握りしめたままの手を開けない。
何が来たんだ。
「兄さん、あの」
「言ったろ、来るって。危なかったな」
いつの間にか自力で机の上に移動したらしい。兄はティッシュボックスの横で一度溜息を吐いた。
何がどう危ないのか、どうして来ると知っていたのか、なぜカーテンを閉めるように言ったのか。
疑問が重なり過ぎると出力が追いつかないということを実感して、俺はどうにか一つ問いを絞り出す。
「兄さんは、その、助けてくれたの」
「そうだな。もう通り過ぎたからな、大丈夫だ」
お前が無事で良かったよ。
そう言って兄は黒々とした右目だけを細めて笑った。
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