まだ朝はこない(6 眠り)
夜明け際の微かな光が吹き溜まる床の上で、兄を名乗る首は横向けに転がっている。
いつもなら益体もないことをべらべらと喋る口は縫われたように閉ざされ、やけに黒々とした目も瞑られている。
喋りも動きもしない。眠っているから当たり前だ。生首という存在にどこまで生き物としての常識が適用されるのかは分からないが、少なくとも兄は昼間は勝手に出歩いているらしいし煙草も吸うので、胴体がない以外はあまり俺──標準的で一般的な人間──とすることが変わらない。ならば睡眠ぐらいは取るだろう、と消極的に納得するしかない。
眠っている生首は本当に死体のようだった。
動きも喋りもしないだけでここまで物体に近くなるのだなと、高校の頃に美術部の連中が展示していたを静物画を思い出す。眠っている生首を描いた絵は静物画のカテゴリに分類してもらえるのかと考えて、どういう答えが出ても何となく嫌だと思った。
部屋の中はまだ薄暗い。枕元で充電中のスマホを見ると、まだ六時にもなっていない。冬が近くなるとこの時間でようやく日が昇り始めるからだろう。一番暗いのは夜明け前だとどこかで聞いたことがあったが、頼りない日差しと薄暈けた闇の残骸がへばりつくだけの今の時間はどこに属するべきなのかさえも曖昧だ。
カーテンの隙間から差す光はひどく薄く、温度のない影を室内に張りつけている。
起き出すにはまだ早い。今日は月曜ではあるが、講義は午後のものしか入っていない。起きたところでしたいこともすべきことも特にないのだ。
二度寝に戻ろう。予定もないのに早起きだけしたところで得るものは空腹ぐらいだ。アラームは設定してあるから心配はしなくていいだろうと、眠気の残滓を逃がさないようにそのまま目を閉じる。薄闇と布団の温度にすぐ瞼は癒着し始める。
ごとりと西瓜を床に置いたような音に、融けかけていた目が開いた。
兄が寝返りでも打ったのだろうか。それにしては大きかった。重さのあるものが段差を落ちでもしなければあそこまでの音はしないだろう。寝転がっているだけの兄の頭がどれほど重かったとしても、あんなにはっきりと音を立てはしないはずだ。
微かな、足音というには頼りないが、聞き逃すには派手過ぎる。そしてどうにも聞き覚えがある。クーラーの唸りのような、猫が喉を鳴らすような低い音──。
ひょいと机の上に飛び上がったものを微かな日が照らした。
首だった。
兄ではない。知らない首だ。
暗い中、ぼんやりとした顔貌の中、青みがかった白眼がやけに目立って見える。
首は俺の方を正面から見据えて、
「やむを得ぬ事情で一旦通らせて頂きました。通りやすいので、こちら」
早朝から失礼しました、と囁き声で続けて、生首は薄闇の中でも分かるくらいに白い歯を見せて笑った。
「これきりですので、どうかお兄さんにはご内密に」
一度盛大に傾いてから、机から飛び降りる。
そのままごろごろと転がって、カーテンの隙間から窓ガラスを水の膜でも抜けるように通り、ベランダへと転がり出ていった。
それだけだった。
部屋は夜明け前の静謐さを取り戻し、十一月の冷やかな暗がりに俺だけがわけもわからず残されている。
事情があると言っていた。その事情は俺には関係ないのだろう。住人に挨拶をしていっただけ、通り抜けとしては礼儀正しい方なのだろうか。
俺には何も分からない。ただ生首が夜明けの部屋を通り抜けていった、それ以上のことは、何ひとつ理解できなかった。
呆然とした頭の中で、先程の生首がこちらに向かって倒れるでも転がるでもない前傾姿勢──首だけではあったが──をしてみせたことを思い出す。あれはもしかしたら生首的な一礼の様子だったのだろうか。
そうだとしたら、随分礼儀正しい首だったのだなと意味のないことを考える。兄が起きたらそのあたりのことも聞いてみようと決めて、俺はもう一度目を閉じる。
瞼の裏に生首が見せた歯の白さが一瞬だけ過って、すぐに十一月の薄闇に塗り潰された。
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