生首籠もる温室(4 温室)
玄関の薄いドアは、ごつりごつりと鈍い音に合わせて規則正しく軋んでいる。
「お前、何をしたんだ」
「何をって……挨拶を……」
深夜、眠る前の一服を吸おうとして煙草の残り本数が心もとないことに気づいた。そのまま何となく小腹が空いているのも自覚して、財布の現金にも多少の余裕があることを思い出した。そうして都会に住む一人暮らしの大学生の特権とばかりに、夜中ではあるが近場のコンビニにまで向かうことにした。
首尾よく手に入れた戦利品──いつもの銘柄と少し高めの肉まん二つ──の入った袋を提げて浮かれて帰路に着いたとき、道端に転がる生首と目が合った。
薄暗い中、見開かれた両目の白眼だけぎらぎらとしていて、点のようになったまっ黒い瞳はこちらをじっと見据えている。
あまりにも真正面から目が合ってしまったので、無視するのも忍びなく、常識的な挨拶と会釈をしつつ足早にその場を離れた。
すると背後からぶつぶつと何かを呟く声とごろごろとボウリング場のレーンを重ためのボールが転がるような音がしたので、状況をすぐに理解してしまった。
生首が俺の後を追ってきている。
とにかくその場で走り出し、背後を気にしつつ家に飛び込み、帰ってくるなりドアの鍵をかけドアガードを倒しそのまま玄関にへたり込んだ俺を見て何事かと近寄ってきた兄が声を掛けたのと玄関のドアが二度ノックされたのは同時だった。
以上の事情を説明したところ、兄は眉間に深々と皺を寄せた。
「とりあえず無事で良かった。良かったけど、どうしてそんなもんに声を掛けたんだ」
「目が合ったし、近所に住んでいるんだったら挨拶ぐらいしとかなきゃなって」
「都会でそんなことをするなよ。知らん人には極力関わるな。危ないから」
いつの間にか人の部屋に入り込んで兄だと宣言した生首は俺と玄関の間に立ち置かれたまま、長々と溜息をついた。
「夜中にお外で転がってるような首がまともなわけないだろう。常識だぞ」
「そうなんだ」
「そうだよ。お前はあれだな、末っ子だからってオンバヒガサで大事にされたからこう、世間の悪意みたいなもんが分かってないよ」
「オンバヒガサ……」
「温室育ちってことだ。父さん母さん、お前のこと大事にしてたからな」
「そうなんだ」
大事に育てられたかはどうかは実感がないし、ただ兄を名乗っているだけのこの生首も俺の両親の心のうちどころか顔さえ知らないはずだ。それなのにこれだけもっともらしいことを言えるのはどういう神経をしているのだろうと思って、繊細だったら首だけでうろついたりはしないし兄を騙りもしないだろうなと当然のような結論に辿り着いてしまったので、余計なことを言うまいと俺は口を噤んだ。
「このご時世、何かと物騒だからな。もっと警戒心とか持ちなさい。俺がいるからいいものの」
どこから来たかもよく分からない、素性どころか本名さえ教えてくれないのに自室に居座り兄を名乗る生首は、この状況でどうしてか得意げな顔をしているように見えた。
「とりあえずこれどうしよう。通報とかした方がいいんだろうか」
「いや、夜が明けるまで放っておいていいだろ」
「危なくないの」
「そりゃ人間だったら危ないけどな。首だけだからな」
手も足もないから大丈夫だろうと冗談なのか何なのか判断しかねることを言って、
滅茶苦茶な物言いではあるが、部分的には納得できるのが不本意だ。あちこちに傷やへこみもそれなりに目立つ年季の入った玄関ではあるが、頭だけ、頭突きだけで破れるほどちゃちな代物ではないだろう。それに、警察に通報したところで対応してくれるかどうかは微妙なところだ。生首に襲撃されていると説明した時点で、俺に覚えのない疑いがかかるまである。夜が明ければこの階に住む他の住人も出てくるだろうし、それから大ごとにするかどうかを考えてもいいだろう。
そこまで理屈を考えてから、もう一つ思い浮かんだ状況があった。
「兄さん。思いついたんだけど」
「なんだ。怖いってんならあれだ、俺が昔バイト先で体験した話でもしてやろうか。灰皿の取り扱いにちょっとした伝達事項があったんだけど」
「それは後で聞くけど……玄関はさ、いいよ。ドアも鉄製とかだろうし、首がぶつかったぐらいじゃ普通壊れないと思う」
「だろうな」
「でもさ、これは人間の話なんだけど、気合入った強盗とか暴行犯の話とかだとベランダから来たりするって言うじゃん」
「……まあな」
九階建て学生向けマンションの三階。手足のない生首が果たしてどうやってベランダに回るのかという疑問はあるが、そもそも首だけのくせに道端から俺の家の玄関まで後を追ってきている時点で常識が通じるとも思えない。
首だけでどうやって集合玄関を抜けてエレベーターに乗ったのか、どんな体勢で階数指定のボタンを押したのか、そもそも平地をどう移動しているのか──疑問は尽きないが、現状玄関のドアがどつかれ続けている時点で考えるだけ無駄だろう。
扉一枚隔てた向こうに、あのぎらぎらとした白眼の生首は存在しているのだ。
「じゃあさ、あいつがベランダ回るのもあり得るっていうか、そこから窓割って突っ込んでくるってのは、首だけでもできない?」
兄は一瞬だけ視線をぐるりと彷徨わせてから俺の目を見て、
「そうしたらあれだ、お前だけでも逃げなさい」
「俺だけ?」
「なるべく人が多くて明るい場所に逃げなさい。
なんとかって何をする気なんだ。
そう思いつつ視線を向けると、兄はゆっくり一度瞬きをして、
「兄だからな、お前の逃げる時間ぐらいは稼いでやるさ」
兄の空虚なのにどうしてか力強い宣言に相槌を打つように、薄っぺらい玄関のドアは再びどごんと鈍い音を立てた。
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