黙り込む、黙り込む(3 だんまり)
灰皿代わりのビール缶を片手に座り込んだベランダには冷えて静かな闇が蟠っている。
吐いた煙は僅かな間だけ白々と漂って、夜闇に溶ける。この煙がやけに豊かになると冬が来たなと思うのだが、温暖化か異常気象か知らないが、今年もまだ十一月程度では吐く息は白くならない。
都会の秋は長い。実家にいた頃は十月にもなれば大まかには冬のようなものだったから、こうして外に出るなんてことは考えもしなかった。
寒くて暗くて恐ろしい、それが俺にとっての十一月の夜だった。
「お前、今日何本目だ」
兄の声がして、目線を下に向ける。
座り込んだ俺の足元、そこにすっくと立った生首。横顔の中で、白眼だけがやけにはっきりと夜の昏さの中で浮かび上がっていた。
どこから調達したのか、口元には一本を咥えて紫煙をくゆらせている。手も足もない生首の癖に煙草を吸うのがやけにさまになっているのが不思議だった。
「それ、帰ってきてから三本目だろ。吸い過ぎだ」
「今日は外で一回しか吸ってなかったから、いつもこんなもんだよ」
「余計ダメだろ。一箱何日で開ける気だ」
「……今週頑張ったってことでさ、見逃してくんない?」
兄は横目で俺を睨んでから、煙を盛大に吐いた。
「明日は休みなのか、お前」
「二年生まで真面目に単位取ったからね。土曜に授業入れるような真似しなくて済んでる」
「ちゃんと単位取れてんなら……勉学は学生の本領だからな。留年するような真似をしないなら文句ないさ、兄ちゃんはな」
生首のくせに真っ当な説教をして、生首は器用に灰を落とす。
何だか金の取れる光景なんじゃないかと一瞬思ってから、兄を売り物にするのは幾らなんでも倫理がないだろうと諦めた。そもそもこんなものがスマホ如きで録画できるかどうかも分からない。試みてもいいが、この手のものを無理に取ろうとした電子機器が不可解な故障を起こすのもお約束だろう。俺としてはまだ機種変をするつもり予定はない。
兄は長く煙を吐いてから、いつもより掠れた声で続けた。
「吸っといて言えた義理じゃないけど、あんまり体によくないからな、
「そりゃあ『あなたの健康を損なう恐れがあります』ってわざわざパッケに書いてあるしね」
暗闇の中でパッケージを見る。
箱の大部分を占有して書かれた警告文は、これでもかと商品の危険性と毒性を主張している。中学生の頃、黒板の上に貼られていた『みんな仲良く』だの『個性を尊重しよう』と押しつけがましい善意に満ちた学級目標が下手なレタリングで描かれた画用紙を思い出した。
警告文がパッケージの表面を占める割合が大きくなっているらしいが、それでも煙草を吸うやつはいなくならない。喫煙者には文字が見えていないのか、見えたところでどうでもいいのか。俺にしたところで模様ぐらいにしか思っていないのだから、もしかしたら吸っている間だけ文字が読めなくなっているのかもしれない。
「でもさ、損なったところであんまり惜しくないじゃん。健康、っていうか寿命」
兄が薄闇の中でも分かるくらいに片眉を上げてみせた。
「長生きしたくないのか、お前」
「積極的にはね。つうか、いいことなさそうじゃん」
兄は返事のような唸り声を上げた。
「いいことがないってのは……聞いてもいいか」
「これからさ、大学出て就職して、それがおおよそ死ぬまで続くわけじゃん。じゃあまあ、そんなに長くなくていいかな、ぐらいのことだけど」
厭世というほど壮大でも、絶望というほど深刻でもない。夜更かしをした翌日の早起きが面倒なのと同じくらいの憂鬱具合だ。長生きしたくないのも消極的かつ結果的な選択の結果、吐き出された結論でしかない。日常を送ることに不満はないが、格別の魅力も感じないというだけの話だ。動機としては他愛なさ過ぎて、道理も何もあったものではない。
単なる世間話──しかも盛り上がらない種類の話題だ──と同じ感覚のまま、兄さんはどう思う、と問いかける。
兄はこちらに向けた黒い目をそのままゆっくり正面に戻したきり、黙り込んでしまった。
そうしているとちゃんとした生首のように見えるのにな、と思ってから、隣の
ベランダ越しの階下を見下ろす昏い目には、秋の夜闇が映り込んでいる。
話したくないのか話すことがないのか、薄闇の中で垣間見る横顔からは判断ができなかった。
「兄さん」
「……」
「煙草、吸い終わったら
兄は口元に赤赤とした火を灯したまま、まだ目を伏せている。
白い頬の横に細くたなびく煙は知らない匂いがした。
答えられないなら逃げてもいいのに。生首なのだから、転がってどこにでも行けるだろう。
それでもこうして黙ったまま傍にいてくれるのは兄だからなのだろうか。義理堅いというべきか面倒というべきか、見分けが難しい真似をしている。実の兄ならばそんなものを見分ける必要もないのかもしれないが、気になってしまうのはやはり自称による兄だからだろうか。
益体のない思考と問いを口にしないために、俺は煙を吐いた。
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