夢のような昔話を追いかけて(1 むかしばなし)
「意外と左利きの人間がいるみたいにな、見て分かんないところで結構差異があるもんだよ。関節がこっそり多いとか指がちょっと少ないとか乳首が多いとか、世間には色んな人がいるみたいな、ね」
本棚の上から二段目、大判のコミックの横に陣取った生首は物を知らない子供に道理を説くような柔らかな口調で滔々と語りながら、クッションを枕に床に寝転ぶ俺を見下ろしている。
まだ現れて一昼夜しか経っていないのに、まるで長年過ごしてきた同居人のような馴染み方をしている生首──しかも俺の兄を名乗っている──に対して、雑談の延長ぐらいのつもりで『胴体が恋しくなったりしないのか』などと迂闊なことを聞いた俺が悪い。
生首としては逆鱗というか何かこだわりのあるポイントだったのだろう。ほんの好奇心で尋ねたのに、演壇にでも登るように本棚に陣取っては無駄に張りのある声で長々とよく分からないことを熱っぽく語っている。
「そうやってね、ちょっとした規格の差異なんてものがあっても基本はどうでもいいわけだよ。それで人を引っ叩いたりいたぶったりしなければさ──だから俺みたいに首だけのやつが兄ちゃんでも、何にもおかしかないってわけだよ」
田舎の親族の雑な人生論の亜種じみた説教だったはずが、生首が兄を名乗る正当性を主張するところに着地している。
口うるさい生首だが、兄だというのだから仕方がない。
兄を名乗る理由も知らないままだが、今の状況で重ねて尋ねるような真似をしたらばもっと面倒なことになりそうだ。気が済むまで喋らせておこうと、俺は生返事をしながらスマホの画面に集中する。
「お前は昔からそうだな。雑っていうか、気配りがちょっと足りないっていうか……大らかで細かいことを気にしないのは長所だと兄ちゃん思うけど、大人なんだからそれだけじゃ駄目だとも思うよ。兄として」
「駄目ですか」
兄は突然に黙って俺をじっと見た。
その視線の中に含まれる非難の色を読み取りその対象を理解して、俺は会話をやり直した。
「駄目かよ」
「駄目だよ。そんな無防備に生きてたらね、危ないから」
満足そうに兄が答えた。兄弟の間で敬語を使う必要はないだろう、という意思表示だろう。ぽっと出の生首に親密な反応を返すのは中々難しい。
俺の葛藤など気づく様子もなく、兄はまた咎めるような口調で続けた。
「実家にいた頃も、夏なんか暑いしクーラー苦手だって夜も窓閉めないから鳩とか人とか入ってきてたろ」
「夏に、窓を」
「剣道部だってせっかくレギュラーに選ばれるくらいには強かったのに、ノルマの素振り数もいっつも適当に他のやつと合わせて止めてたし、話聞いてないから型覚えらんなくて進級試験に苦労してたし」
「あー」
「制服の衣替えだって毎年日付を忘れてさ。クソ暑いのに冬ブレザーの上着も着っぱなしだったし、名札もよく失くしたろ。お前の部屋大掃除したら失くしたって言ってたやつが学年ごとに三つくらい出てきたじゃないか」
俺の実家は十月になると気温が一桁の日が出始めるような北の方で、中高問わずに運動部に入っていたことは一瞬だってない。高校はブレザーでも学ランでもなく私服だったし、勿論名札もなかった。
覚えのない昔話を語られている。
抗議の意を示した方がいいのかもしれない。ただそもそもいるはずのない兄を覚えのない生首が騙っているのだから、架空の過去についての昔話程度に目くじらを立てるのも今更のような気もする。多少共有する記憶に差異やら誤差があるとしても、それが直に現状に対して影響を及ぼすものでもないだろう。
黙って聞き流しておけばいい。家族の会話なんてものは、記憶もされず日常に消費されるべきものだろう。
そんなことを考えながらスマホの画面を撫でていると、一度長々とした溜息が聞こえた。
話を聞き流していることに気づかれたのだろうか。
怒鳴られるか泣かれるか、噛みつかれたら嫌だなと思いながら、本棚の兄へと視線を向ける。
「まあ、それでもどうしようもない悪党ってわけでもないからな──だから俺は、お前の兄貴でいないといけないなって思ったんだよ」
聞き流していた話が覚えのないところに着地した。まるで自身の為すべき使命を見出したかのような口ぶりなのは一体どういう理屈なのだろう。
どの面を下げてそんなことを言えるのかと本棚を見上げる。
兄は根拠を問うのも億劫になるくらいに晴れやかな顔をしていた。
「そうだね兄さん。俺もそう思うよ」
危機感も恐怖心も何もかも手遅れだ。あんなに堂々と言い張れる生首相手に、正論を問うのも馬鹿らしい話だろう。
適当に返した同意の言葉に、生首の兄は首だけで器用に頷いてみせた。
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