兄を名乗る饒舌な生首とその同族についての周辺

目々

序:生首との機縁

 面倒なレポートを無事に仕上げ公共料金の銀行引き落とし手続きを一人暮らし二年目にして設定し切らしかけていたゴミ袋の予備を補充した解放感からうかうかと家で飲み潰れて目を覚ました夜明け、薄闇の中こちらを心配そうに覗き込む生首と目が合ったが、とりあえず頭は痛いし首だけの知り合いはいないしでとりあえずは見なかったことにして酔いの残りに任せて寝落ちたのだけど、午後に目を覚ましてもう一度目を向けたテーブルに乗ってこちらをまっすぐ見てから「大丈夫かお前、二日酔いしんどかったりするのか」と本当に心配そうな顔をする生首がいたので、もう一度見なかったことにして寝直すには十一月の午後の日射しは明るすぎた。


「二日酔いでも何か食べた方がいいぞ。胃が空だとずっと気持ち悪いし、吐くものがないとしんどいから」

「何なんですかあんた」

「何なんだったらまあ、見りゃ分かるよな。首だよ」


 まだ眠気と酔いの残滓でぼやけた頭を無理に回して投げかけた問いには身もふたもない答えが返ってきた。

 ふらつきながら立ち上がり、どうにか辿り着いた台所で水を調達する。冷えたフローリングの床を踏んで居間に戻るが、相変わらず生首は少し茶色の濃い瞳で俺のことをじっと見ていた。

 ベッドに掛けて生温い水道水を啜ってから、もう一度問いを投げる。


「首なのは──それは見れば分かるんですよ。俺とどういう関係の首ですか」

「俺? 俺はお前の兄さんだよ」


 生首のくせに返答に迷いがない。

 ためらいもなく言い切られた言葉の強さに、頭痛に揺らぐ頭でこれ以上色んなことを考えるのが嫌になった。


 俺には兄はいない。勿論弟もいないし、両親は親族との付き合いが薄いので従兄弟の類も覚えがない。年上の親族というものに縁がない人生だ。

 けれどもここまできっぱりと言い切る生首に反論を突きつけるには二日酔い真っただ中の人間には荷が重かった。何より頭痛が酷かった。

 生首の表情には二日酔いの大学三年生程度には抗いがたい確固たる自信のようなものがあった。胴体も手足もないのに、その目には迷いがなかった。


「じゃあ……恨みとか因縁とか怨念とか、そういうのはあったりします?」

「お前の兄なのにそんなものがあるわけないだろう。俺は真っ当な兄だよ」

「真っ当な兄」

「兄だからな。弟の手本になるくらいにはちゃんとしているつもりだ」


 首だけの有様でいて躊躇なく真っ当な兄を名乗れる根拠は何だろうと思ったが、別に五体満足でも難易度は変わらない気がした。自分が何かというものを証明するのはそれこそ哲学の領分だ。二日酔いの学生と生首には深淵すぎて手に負えない。

 毛先のぱさついた黒髪、日射しを容れても真っ黒な目、生白い膚。当たり前だが外見は少しも俺に似ていない。似ていることが兄弟の全てではないが、遺伝子の共通を微塵も感じられないのも問題だろう。

 そもそもこの部屋自体は事故物件とか訳あり物件とかそんなものではなかったはずだ。駅近でスーパーも徒歩圏内の便利な立地ではあるが、家賃も相場相応の値段だ。兄を名乗る生首こんなものが出るなんて説明を受けた覚えは全くない。


 なのに今、目の間にこの生首が存在している。その事実を処理しようとした頭が鈍く痛んだ。

 水分不足のせいだろう。頭痛薬はあっただろうか、と額に手を当てた。


「薬、一応ここにあるから」


 生首の言葉に抱えた頭を持ち上げる。

 生首の乗ったテーブル、その頚部の側に、見慣れた頭痛薬のパッケージが置かれていた。


「頭痛薬だけ飲むと胃やられるから、余裕があったら一応なんか腹に入れた方がいいと兄ちゃんは思う……無理っぽいけどな、その様子だと」

「……ありがとう、ございます」


 パッケージを手にして礼を言えば、生首は何度か瞬きをしてから、


「何かあったら頼れよ。兄ちゃんはずっとここにいるから」


 そう言って目を細める笑い方がどこか痛むのを堪えるように強張っていて、その笑顔に見覚えがあると一瞬でも思ってしまった。


 当たり前に錯覚なのだが、思ってしまった時点で俺の負けだろう。何もかもがどうでもよくなってしまった。


 いきなり喉笛に噛みついてこなかったからいいだろう。実家にいた頃に近所に出没していた熊よりはマシだ。あれは確か網戸を破って入ってきたとかで、色々と騒ぎになりつつも市役所による熊除け鈴の貸し出しが順番待ちになるくらいで落ち着いた記憶がある。結局行き会ったらどうにもならないからだ。

 入り込まれたら手遅れだというのなら、寄せ付けないようにするしかない。だとすれば、俺のこの状況はどうしようもなく手遅れだろう。手遅れの状況であがいたところでろくなことにならない──それなら、現状に適応した方がまだ目があるだろう。

 危機から逃げるでも立ち向かうでもなく、その場しのぎと成り行き任せで目先を誤魔化しながらうやむやに済ませる。危機感がないと詰られても仕方がない。だが、どうせおしまいになるのなら、居直った方が足掻く手間がいらないだけ得ではないだろうか。


 目を瞑る。心臓が脈打つのを二十回ほど数えてから、瞼を持ち上げる。

 生首の兄は相変わらず机の上で俺をまっすぐ見つめていた。


 俺には生首の兄がいる。十一月が始まったばかりのこの部屋で、兄と一緒に暮らしている。そういうことになった。

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