新五郎、消ゆ。(後編)

 新五郎は呆然と立っていた。戸をくぐって夜はまだ更けぬ賭場の中、土間の上にいるはずなのに入った賭場は建物ごと、いや、その周りまで消えている。お天道てんとう様は高くて、自分は日陰の道の上にいる。少なくともさっきまで場所ではなさそうだ。


「キツネに化かされたのかい?」

 親分はどちらかと言えばたぬきじじいだ。狐じゃなく狸に化かされたのか。

 しかし、腰には十手、右手は刀の束を持っているし、左手には酒もある。ふところの物も何かが無くなった様子はなく、持ち物を忘れてきたり奪われたということではなさそうだ。


 道の右手は森が、左手には平地が広がっている。平地のずっと奥の方には道に沿って川が流れているようだ。

 こんなことならもうちょっと飲み食いしとくべきだったかと新五郎は考えたが、じき考えを改めて身を震わせた。もし狐にしろ狸にしろ化かされたとあれば、飲み食いしたものは草、泥、小便。いやもっとおぞましいものと相場は決まっている。


 新五郎は左手の一升徳利いっしょうどっくりを地面に置いて蓋を取り、直にがないように手で扇いだ。酒以外に変な匂いはなさそうだ。今度は直に嗅ぐ、買ってきたままの酒にしては薄いような気がする。寅二のやつやっぱり薄めていやがったか。

 腹に手を当て、特に変なものは食っていないなと信じ、周りを見回すが何の気配もない。

 今はまだ昼というのはなんとなくわかる。ここにいるというわけにもいかないし、薄いだろうが酒は酒だ。道を歩いていけば、いつか人のいるところに着くだろう。腰の十手を刀のこもに差し込んで立ち上がった。腰には自分の刀を差し、身支度を整えて、両手に酒と刀の束を持ち、道をまっすぐ進むことにした。



 歩き出して随分過ぎた。夕暮れとまではいかないが日は落ちてきて空は赤くなりつつある。刀を余計に持っているせいなのか、いつも歩くより疲れが出てきた。ふと、大きな動物の気配が後ろからした。止まって振り返りしばらくすると、それは二頭立ての馬車であった。


 馬車の後ろには大きな布のほろがついた荷車がついていた。御者ぎょしゃは一人のようで、特段敵意というのはなさそうだ。荷馬車がこちらに近づいたら話しかけようと思ったのだが、荷馬車の方からまるで異国のような恰好かっこうの御者が笑みを浮かべて話しかけてきた。

「この辺りじゃ見ない顔と恰好だね。近くで仮装でもあったのかい?」

「済まぬのだが、ここがどこかわからぬのだ。ここは一体どこなんだ?」

 新五郎は問い返した。男は不思議な表情をしながら言った。

「この先に町があるから、ここにいるよりひとまず一緒に行かないか?」

「かたじけない」



 新五郎は男の横に乗せて貰うことになった。

「後ろに娘たちがいる。短い間かもしれないがよろしく頼むよ」

 やはり異国の格好をした娘が二人、幌の中にいて微笑んだ。

「お嬢ちゃんたち、これ預かっててくれないか」

 新五郎は笑みを返したのち、娘の一人に酒を預けた。

 男は軽く手綱を振るい、馬車を進ませた。預かった刀を揃え、こもに掛けた紐を締めなおしたあと、新五郎は名乗った。

「それがしはやなぎ新五郎しんごろうと申す。失礼つかまつるが、ご主人、ご主人の名は?」

「ああ、お貴族様でございましたか。私、商人をやっております、ギンコと申します」

 貴族がなんであるかよくわからないが、ギンコが急に態度を変えたため、位が高いことだけは否定する。

「それがしはキゾク?ではない、市中の人々とさして変わらんよ――」


 その矢先、何やら不快な感覚が新五郎を襲った。ギンコも同じように感じているらしく、緊張した顔ですぐ馬を止めた。不快な感覚はすぐ止まったが、馬の方はまだザワザワしている。

「ギンコ殿、今のは?」

「さあ、何でしょう、今日は変わったことがよく起きますね、アルニカ達は大丈夫だったかい?」

「ええ、大丈夫です」

 後ろから娘の声がした。一人はアルニカというらしい。しかし、異国の人の名は覚えづらい。三人ならまだ何とかなるだろうが、この先は覚えきれるだろうか。

 その時、幾人かの殺気を感じた。ギンコはまだ気づいていないようで、元の柔和な表情に戻っている。再び馬車を進ませようとしたので、ギンコの手を制して新五郎は言った。

「ご主人、何人かがこっちへ向かって来ている」

 束から一振り刀を取り出し、馬車を降りた。

「野盗ですか?私も行きますよ」

 そう言って降りようとするギンコを手で制した。

「矢が飛んで来るかもしれませんので、ギンコ殿は中でお嬢ちゃんたちと酒をお願いします。いざとなったらそれがしを置いて駆け出してください。その時はまた町で会いましょう」


 緊張を解いた顔で新五郎は言って馬車に背を向けた。

 向かって来るのは十人足らずか、さらに一人は集団よりさらに後ろの方ですごい勢いでこちらに近づいてくる。こいつの相手は面倒そうだ。


 酒でやり過ごせる相手ではない。左手に取り出した刀を持ちながら沈んでいく太陽を前に新五郎はひとり歩き出した。

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