上澄み
狂フラフープ
上澄み
父という言葉を聞くと思い出すのは、年の離れた兄の顔だ。
優しい兄。
私は目の前の飲んだくれではなく、あの兄こそが私を庇護し導き育て上げたのだと信じている。けれど彼は私が彼を兄と呼ぶことを戒め、だから私は彼を内心でだけ兄と呼んだ。
その兄の四十九日に、父は姿を見せなかった。
坊主と二人きりの法要を済ませ、着慣れぬ学生服で薄汚れた仏間の天井を見ていた。
家族のことなど何も知らなかった。仏間に増えた新しい遺影、その並びに見知った顔が並んでいることが酷く奇妙に思える。
兄の隣に並ぶのは母。遠い思い出より、写真の中の姿の方が馴染んでしまった母。
ではその母の隣に並ぶのは?
自分とそう変わらない年頃に見える遺影の女性が誰なのか私は知らない。
きっと自分にはかかわりのないことだという諦めにも似た無関心が私と家族の歴史とを、霞んだ向こうが透けては見えても温もりのない壁で隔てていた。
私がその壁を突き抜けて向こう側に転げ落ちたのは、遺品整理のために始めた不用品の選別作業の最中で、見つけたその赤い紙箱の中のノートがきっかけだ。
日記や手帳だろうかと思ったそれは、カバーを外すと母子手帳と書かれている。
そこに記された文字切れが、私の存在と家族の存在を隔てる薄紙を無遠慮に引き裂く刃になる。あるいは、記されていない文字が。
私の名前がある。父の名はなく、母の名もまたない。あるのはただ、月村すずかという知らない名前。父の名が記されるべき欄には、何の記述もない。
写真も挟まっていた。
私を抱いて微笑む母親らしき姿。あまりに若いその顔に見覚えがある。母の隣、居並ぶ遺影のひとつが、私を抱く母の面差しをしている。
何のことはない。私が父と思えなかったものは、初めから私の父ではなかった。
けれどそれが何だというのだろう。
何も変わらない。私を育てたのは言葉だけ父と呼んだあの人でなく、思い出の靄の向こうの母でもなく、既に亡き兄だ。
私はそう信じている。
遥か昔に母を失くし、父と呼ぶべき人も既に亡くした。今更私の父母が誰であろうと、それが何になろう。
得たのはある種の納得と肌に馴染んだ諦観ばかりで、疲れ切った頭はその意味を追い求めることをいつもと同じように拒んでいた。
震える指が紙箱を元通りに閉じ、紙箱を箪笥の元の場所に、それを見たという事実を頭の隅に仕舞って私はその場から逃げ出そうとする。
「見たのか」
振り返る。
珍しく酒の臭いのしない父が、父だと思っていた父ではないその男が、無遠慮に歩み寄り私の腕を掴んで、反射的に身を縮めた私を、力んだ指は吊り下げるように引き寄せて、振り払おうとするその拒絶に父だったものは焦りを見せる。
「俺がお前の父親だ。いいか、俺がお前の父親なんだ」
何を言っているのだ。
「分かるだろ。他に居るものか、俺以外に」
私の肩に指を喰い込ませながら口走る目は、私を脅かさんばかりに見開かれている。父親を名乗る見知った男。何をそんなに必死になることがあるのだろう。言葉の意味が理解できなかった。心の底から。
ひとつだけわかるのは、私を見ているその眼に、私は映っていないこと。
逃げ出したあとで、言葉を咀嚼して、ようやく見当がついた。私の拒絶を父親でないという事実を知られたからだとでも思っているのだ。
そんな事実がなかろうと、私はいつだって触れられれば拒絶しただろう。そんなことさえ知らなかったくせに、自分が父親だと思われているとでも?
あの男は親子の絆を信じているのだ。滑稽にも、厚顔無恥の極みにも。
自分と私の間に、壊れる何かがあるとでも思っているのか。傷口から染み出し続ける乾いた笑いは留まることを知らず、呼吸が出来ずに少しだけ泣いた。
久しぶりの涙だなと、声を出さずにそれを笑った。
請求した戸籍の写しは、時間こそ掛かれど拍子抜けするほどあっけなく今まで隠し通されて来た家族の真実を私に暴いた。
父は祖父。見知らぬ母はその前妻との子で、兄は後妻の連れ子。そして私は父無し子。産後間もない死亡の日付と、若いというより幼いというべきその享年で、何があったかはだいたい分かった。
目を通した抄本をコンビニのゴミ箱に捨てて、家に戻れば父は居なかった。
そんなものは初めから居やしなかったのだけれど。
*
古いアルバム。
幼い日の『月村すずか』をその腕に抱いて、今の酒に焼けた卑屈な笑いとは似ても似つかぬ笑顔で写る写真。
あんなクズでも人の親なのだな。他人事のような、いや、他人事ゆえの当然の冷めた感慨が湧く。
そうか。お前のような下衆でさえ、同じ血の通った娘は愛しいか。
自分がその父性を向けられる対象でなかったことが、心の底から清々する。下衆の心の上澄みなど、押し付けられるくらいなら。いっそ泥と見分けのつかぬ澱みに浸っていた方がずっと良かった。
アルバムの中の月村すずかは、黒目がちな眼の、優しそうな顔立ちをしていた。
いつしかその隣から知らぬ前妻が消え、母だと思っていた人と兄の姿が映るようになって。
兄の眼差しは、いつもその優しそうな横顔に向けられている。
読み進めた先に、一冊の日記を見つけた。可愛らしい薄桃色のノートに、可愛らしい字で記された見覚えのないその筆跡は、誰のものにも似ていなかった。
初めは真面目に読み進めていたが、そこに綴られる幸せそうな日々を見る内に胸の裡で何かが膨れ上がって、私は大きくページを飛ばした。日記は途中で終わっている。
理由はとっくに知っている。彼女はこのノートを使い切る前に死んだのだ。終わり際に近いページには、歪んだ字が全ての余白を埋め尽くすように踊っていた。
どうして。なんでわたしが。なんで。いやだ。こんなのはいやだ。たすけて。支離滅裂な思考がこの世を呪い、救いを求め、差し伸べられることのない手にまた呪う。
私は望まれて生まれた子ではない。そんなことだろうとは思っていた。
けれどだとしても、この種明かしは気が滅入った。彼女の呪いは、同じ屋根の下に最も強く向いていたから。
兄が私の兄で居たくなかったのは。彼が私の兄であることが、母の尊厳を貶めたから。長年の疑問が解けて、けれど気分は最低に躍った。肚の底を蹴破るほどに。
――俺がお前の父親だ。他には居ない。
そうだろうな、他に居ない。お前のような卑しい男以外から、私のような醜い者が生まれるものか。
殺してやろうと思った。あれを殺して、何もかも終わりにしよう。
包丁を一本懐に忍ばせ、それから自分の人生の心残りを探して、ひとつだけ見付けた。兄の墓参りに行きたい。花を供え、水を注ごう。もうこの先誰も、あの墓を訪れる者は居ないだろうから。
そして、戻ったときに奴が居たなら、全てを終わらせてやろう。
人気のない夕暮れの墓地に影を伸ばして、私は兄の眠る場所をひとりで訪れた。
あれを殺せば、あれもこの場所に入るのかな、それはとても嫌なことだな。墓を磨きながら思う。
線香の匂いに手を合わせて、それから墓の下の兄に別れを告げた。
墓から家の暗い道のりを歩きながら、心はやけに晴れていた。懐の包丁の柄に指を触れると、なんだか宝物を持っているみたいで、何年振りだろう、私は家路を走って辿った。
見えて来た家の玄関には点けた覚えのない灯りが灯っていて、掛けて出たはずの鍵は掛かっていなかった。
高鳴る鼓動と晴れやかな心。
私は玄関扉を乱暴に開け放つと、土足のままで我が家に押し入る。
ただいまと叫び、そして見つける。
私の殺すべき男が、玄関奥の薄暗がりでひとりでに死にかけている姿を。
*
酒の飲み過ぎと不摂生による心血管疾患と肝障害。医師はそう診断して、それから望みが薄いことを婉曲に述べる。
医者は救いようがないのだ、と言葉を変えて私に何度か伝えた。
そうですか、と、私は頷き、救いようがないなら仕方がないなと諦めた。
それからカルテに目を落とし、知りもしなかったその男の詳細な血液型を見て、その男が私の父親ではありえないことを確認する。そうか、と、もう一度頷く。
病院を出ると、見上げた空の暗い暗い雲が身持ちを崩し人々だけが逃げ惑って、逃げられない街路はいくつも染みを作った。
慣れ親しんだ納得と諦観。私の人生を満たすように降り注ぐ灰色の雨。
隠れる場所などどこにもなく、必要もない。
いつまでも傷口から染み出す乾いた笑いが、涙を涸らして濡れもしない。
上澄み 狂フラフープ @berserkhoop
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