でたらめな浮力

 父は離婚して再婚したことを私に報告し、ハナさんの肩を抱き寄せて言う。今、お前の弟か妹かわからないが、いるんだ、と。嬉しそうに言う。

 私は喉元、いや舌の上まで出かかった「ねえママは」という言葉を呑み込む。必死に飲み込む。父は父で新しい生活を始めていることも、十中八九私はこのの世話になることも分かっていて、そんな非常識なことはできない。私は生活が駄目で驚くほど社会に適応できなかった人間だけれども、それくらいのことは理解できた。

「そうなんだ」

 私は軽くすべてを受け流す。ここには実家があって慣れた自分の部屋があって父が住んでいる。そのほかにハナさんも住んでいる。そして母がいない。たったそれだけのことなんだと、最初は思った。

 ハナさんはよく働く「母」だった。23歳だと言っていた。私より二歳年下なのにハナさんは私の母親をやろうとした。朝ごはんを作って私を起こしてそれから父を起こしその頬におはようのキスをして、綺麗なまあるい目玉焼きのプレートを私たちの前によいしょと出してくる。黄身は半熟だった。

 私はハナさんの作るご飯を食べるところまで来ているのに、頭の中は母の作ってくれた固焼き目玉焼きの方がおいしいし掛けるのは醤油のほうがいいなどと考えている。ケチャップをかけた目玉焼きと胡椒のアクセント。父は民法のニュースを横目にそれらをぺろりと平らげてしまうけれど、私は目玉焼きの半熟のところをいつまでも突ついていた。

 

「言いたいことがあるなら、遠慮なくいってね」


 とハナさんは言うが、言いたいことなんかあるわけなかった。一つあるとすれば、『貴女は私の母親ではないのだからそんな態度を取らないでほしい』なのだけど、それを言うとこの家を覆っている父の正しさみたいなものが一気に崩れて真上に落ちてきそうだ。だから言わない。 


「私、夢子さんのこと全然知らないや。好きなアイドルとかいる? 私はね」


 家に居着いて外に出もしない、ペーペーの私をハナさんは叱らないし疎まない代わり、いろんなことを聞きたがった。私にとってそれは「嫌」以外の何ものでもなかった。ハナさんと私を繋いでいるのは父であって、父がいなければ私たちは赤の他人なんだから、できれば関わらずにいたかった。ハナさんはその中途半端で深い溝を埋めて友達か姉妹かできれば母子になりたいんだろう。私にはそんなつもり毛頭なかったけれど。

 きれいに掃除された居間は居心地が悪いので私は汚れた自室に引っ込むことにする。お昼ご飯は勝手にカップラーメンを食べて汁を流しに捨てた。ハナさんはそれを見て残念そうに手作りのサンドイッチをラップにくるむ。多分父の夜食にでもなるんだろう。



 そして私は、部屋で丸くなったままうとうとして――ハナさんが歌うように「銀河鉄道の夜」を読み上げるのを聞いた。

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