シンスイ

 ナポリタンを食べ終えた私の前には初老の男がいて、のろのろとした食事風景を観察するみたいにじっとこっちを見ていた。昔、食べ終えたフォークをどう皿の上に置くかをしつけられたことを思い出す。私は丁寧に、スプーンとフォークを揃えて皿の上に載せる。食べ終えましたよと。

 四半世紀生きてきて、父の教えてくれたことが役に立ったと思ったことはないけれど、今になって思えばありとあらゆる所作や考え方やものの見方に至るまで、私は父の背中を追うように育ってきたのだなと思う。

 私が唯一逆らったのは、高校の普通科で、文系に行くか理系に行くか、その時に「文系」を貫きとおしたことだけだ。父は終始不満そうに私の決定に対してぶつくさ言っていたけれど、私が文系で大学を修めるころには何も言わなくなっていた。

 ただ、父の言ったとおり理系に行っていれば、みたいなもしもの話は常に私の頭にあった。

『文系より断然理系だ。仕事の役に立つ。小説なんか読んだってなんの役にも立たない』

 確かにそうだった。四年制の大学を出て就活地獄に身を投じた私に残っている仕事は、苦手な営業職か、やはり苦手な事務職か、スーパーの正社員か、パートくらいのものだった。そして苦労して就職して私がどうなったかなんか、明白だ。私の四年は奨学金をどぶに捨てただけで終わってしまったのかもしれない。パパの言う通りだった。のだ。


「どうした夢子」

「え?」

「顔が強張ってる」


 仕事をしている間、何なら眠っている間やトイレでぼうっとしている時間すら「間違っていた」ことを責め続けていたから、もちろん私は自分の顔の変化になんか気づかないでいる。私は「死にたい」をごまかすためにスマホを開いて、ありえないくらい溜まっているLINEの通知を消す作業に没頭する。

 パパ、私が間違ってたよ、とは言えなかった。とても言えなかった。このプライドすら、彼から引き継いだ血なのだった。父はそれをすべて諒解したみたいに、ゆっくり私の儀式が終わるのを待ち、それから伝票を持って立ち上がった。


「話したいことがある。家に帰ってゆっくりしよう」



 久しぶりにお腹が満たされた私は助手席ですやすやと寝入ってしまう。夢の中ではママがにこにこと私に手を伸べてこう言う。「夢子はお話を考えるのが好きなのね」私の手元には鉛筆の粉で真っ黒になった大学ノートがある。逸る鉛筆で書き散らした拙い物語がある。

 そうなんだよママ。私こういうことしかできないの。私、社会で働くのに向いてないの。死なないといけないかもしれない。

 涙ながらに認めると私はあの汚らしいワンルームに引き戻される。足の踏み場がないくらい荒れた部屋、何かが腐った匂いがする。多分捨て損ねた生ごみが腐っているんだと思う。でも私には今が何曜日かも把握できない。今日は休みだったか働く日だったか、私のカレンダーにはそれしか書いていない。


「夢子」


 父の声でまどろみから目覚めた私が目にするのは、懐かしい我が家と玄関から顔を出している知らない若い女だ。私は何回か瞬きをして、自分がいまどこにいて何をしているかをしっかり確かめる。


「え?」

 夢の続きかと思うくらい現実味のない光景だった。女は美しくて若くてしっかりしてそうだったけど、その女と実家と父とが結びつかない。

「夢子。……こちら、ハナだ。ハナ。娘の夢子だ」

「はじめまして」


 はきはきとハナさんが言った。「……自分より年上の娘って、なんだか不思議」

 私は先ほどナポリタンの注文を受けてくれたウエイトレスのことを思い出している。綺麗に髪をひっ詰めて、高くもなく低くもない適切な声で、いらっしゃいませと私を迎えた彼女のことを思い出している。


「パパ、……この人だれ?」


 父は答えなかった。



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