第1部 第5章
遠くから悲鳴に悲鳴が重なって聞こえるけど居間に避難した私には関係ない。
おそらく惨劇が行われていることは確かだが、ここは雪山でもなく、まして孤独な場所でもない。
なんて穏やか日常だろう。
そんな悠長なことを思っていると肩を力強くつかまれた。
この握り方はわかる。
逃げられないよう退路を塞ぐように入り口側の扉側の方を掴まれている。
そして肌がピリつくこの殺気………。
冷たい汗が一筋、背筋を流れる。
「おはようございます。お嬢様さま。」
我が家の一員であり、私にとって年の離れた姉であり、慕っているメイドだ。
何より、都木の保護者でもある。
「………お、おはよう、シュガー。今日もいい朝ね。」
「今は深夜です。私の少ない睡眠時間をさらに少なくするこの騒ぎは一体なんですか?」
肩を掴む手が私の肩に食い込んでくる。
「こ、これは、その、さっきの件で二人ともお腹を壊したらしく、トイレの取り合いになっているところ………です。」
さっきまで焼きそばを食べて掻かなかった汗が垂れてくる。
「そうですか。先ほどは、あえて申し上げませんでしたが、私が休暇を取るにあたって食事のことを言っておいたはずですが?」
「え、えっと。食事は自由にとるように、だったかな?」
さらに掴まれていた手に一層力が加わってくる。
メキメキと私の肩から音が鳴る。
痛みも来るが恐怖が先だ。
「私は冷蔵庫に入っている食事を自由に使ってといったのですよ? 誰が、実験でカップ焼きそば激辛を買って食べるように言いましたか?」
「い、言ってません。すみません。許してください。めっちゃ痛いです!」
先ほどまで片手で捕まえられていたがもう片方の手で反対側の肩を捕まえられた。
あ、終わった。
上半身を捻られシュガーの顔を見せられる。
うっすらと笑みを浮かべているが目が笑っていない。さらに言えば青筋が立っていた。
「反省してもらいます。」
「ちょ、待っ………。」
「問答無用。」
両肩に回された手を腕に回され強引に天井に向けて垂直投擲された。
私は天井にキスどころか突き破って天井部に上半身が埋もれる形となった。
落ちついてから僕と理奈姉さんにはシュガーから下痢止めが渡され、しばらくして落ち着きはとりもどしたものの、いまだにお腹が音を立ててうなっている。
またシュガーからは、
「家が汚れましたので、掃除をします。その間お風呂に入られてください、クソども。」
と、半ギレ状態で言われた。
旨いこと言われたけど、あたりがキツイ。
ちなみに真衣姉さんは天井に刺さった状態から引き抜いたところ、真っ白になっていたので、シュガーに衣類を着たまま浴槽にぶち込まれていた。
このメイド、やたらと当主に厳しくない?
いや、何回も見せられた光景だから慣れてきたけど異常じゃない?
おそらく積年の事柄がそうさせているのだろう。
うちでは、こういう事柄が一週間に一回はある。真衣姉さんも学習してほしいものだ。
いや、一周回ってこれがお互いのコミュニケーションになっているのかもしれない。
確か、昔の芸人たちは押すな、押すなよ、というのは押せという芸風があったと聞く。
まあ、これが四乃宮家の芸風なのだろう。
だけど、そのために家を破壊しないでほしい。
『ご安心ください。お嬢様が反抗期の頃は、半壊が普通でした。また、ペースも毎日でしたので昔より今は成長が伺えてうれしい限りです。』
脱衣所前で待機していたのか、急に声をかけられた。
あと心の中をのぞいたかのような回答はやめてほしい。
そういえば、家族水入らずで過ごす、お風呂は久々かもしれない。
記憶があやふやでどのくらいなのか思い出せないが遠い昔のような気がした。
浴場を開けるとすでに真衣姉さんが湯舟に浮いていた。まだ濡れた服を着た状態で。
さすがに、そのままにしておくのは忍びない。
「………ブクブク。」
「………姉さん、とりあえず服脱がすよ。」
「いやぁん、都木のエッチ。」
「………姉さんみたいな、ぺちゃパイに興味ないよ。」
「わかってないわね。女の魅力は胸じゃないのよ。尻! 尻によって決まるのよ!」
「ハイハイ、早くしないとシュガーに洗濯物洗えないって怒られるから脱がすよ。」
「………ん。」
初めから素直にしてほしいものだが、この姉に言うのは酷かもしれない。
ちなみに僕の性癖は胸ではない。そこは誤解なきよう。
そうしてずぶ濡れになっている衣類を脱がし、粗方水分を絞り、脱衣所に戻り洗濯機に入れる。
そうしている間に、脱衣所に理奈姉さんが入ってきた。
「今日は、ひどい目にあったわ。」
「それ、僕に言う?」
「………早く入るわよ。」
確かに、緊急事態の時(トイレ大)はすべて投げ捨ててでも入りたい場合があるのは事実。
時として人間の尊厳より生理現象を優先する。恥も外聞もない。
だからと言って、斧で扉を壊して内カギを開けて侵入するのは勘弁してほしいものだ。
その後どうなったかは想像にお任せします。
理奈姉さんと一緒に浴場に入り、シャワーを軽く浴び、体を洗ってから湯舟につく。
そこまではよかったが………。
「理奈姉さん?」
「何?」
「どうして僕の上に乗っかってくるの?」
なぜか僕の上に乗っかってきたのだ。
浴槽は一般家庭よりも広く、6人掛けでも幅には余裕ある。
しかし、理奈姉さんは、あえて乗っかってきた。
思えば昔から、理奈姉さんは僕になんでもマウントをとってきた。
罰ゲームで椅子にさせられた時のことを思い出した。ここでのイスとは四つん這いのことではなく空気椅子のことだ。空気椅子をした状態で乗っかられる痛みはすさまじかった。あの時は、体幹も筋肉も未発達だったため本当にきつかった。
「理奈姉さん、広いんだから隣に浸かってよ。」
「さっき、早くトイレを出なかった罰よ。」
理不尽だ。
僕だって、キツイ中で引きこもっていたんだからしょうがないと思うのだが………。
「それで今日は二人ともどうするの?」
さっきまで浮かんでいた姉一号が切り出してくる。
誰のせいでこうなったと思ってるのだろうか。
反省の色がまるでない。
「今日は午前中までに、決算報告書の提出と午後一から若手の新規案件の発表会があるからほぼスクリーンに密着状態になるわ。そのあとはしばらく時間があるから実況しながら昨日のゲームするわ。」
珍しい。
理奈姉さんが午前と午後、どちらにも予定を会社に入れるなんて。
理奈姉さんは午前もしくは午後、どちらかは必ず空けて置いたはずだ。正直、耳を疑ったほどだ。
「で、都木はどうするの?」
「ああ。地上の東ブロックに行くつもりだよ。」
「ああ、あの親子に会いに行くつもり?」
「そのつもり。」
べチベチ。
理奈姉さん、湯舟だからと言って太腿をたたかないで。
「確か、助け出してもう3年になるでしょ? あなたが左手に噛み傷をつけて帰ってきたときにはびっくりしたけど。」
「この傷は、しかたないよ。あの時のカルミラにはそんな余裕なんてなかっただろうから。最近は、子供のスミレちゃんから遊んで、ってせがまれて。子供の成長がいかにはやいか、を身をもって実感しているよ。」
仕事をしていると、時々難民にあう。
その人たちが誤って防衛線内に踏み込んでくることはよくあることだ。
市民権がない人たちをコロニーに入れることはできない。
しかし、地上にある再開発地に誘導することは許可されている。さっき言った親子はさらに特殊だが、同じような手引きで今は地上の開発地に定住している。その親子に定期的にあっている。これがささやかな幸せの一つでもある。
感慨に更けていると、何が不満なのか理奈姉さんはご立腹だ。
「あんた、昔から子供には優しいわよね………。そのやさしさをもっと偉大で聡明な姉に向けなさい。」
「年上は優しくするものではなく、敬うものと思っていたけどね、理奈姉さん。」
「どちらも必要よ。そうすればいつか大きな見返りがあるかもしれないわよ?」
「いや、ないでしょ。」
断言しよう。
理奈姉さんに借りを作ったとしても僕には絶対いい方向にならない。
最終的に姉さんの奴隷として首輪をつけられる未来が見える。
だから絶対に無駄なことはしない。
そして癪に障ったからって肘打ちはやめて! みぞおちに入ってるから………。
はっ!
違う!
狙って打ってきている!?
そんな僕たちの様子を見て真衣姉さんはあきれ顔をしていた。
「どちらにせよ、早くパートナーは選んでおきなさいよ。」
なぜその方向の話になる?
文面がガラっと変わって違和感しかないが………。
「都木は甲斐田の姓を名乗ってるけど、四乃宮家の名前を持っているに等しいから言い寄ってくる人は多いはずよ? 玉の輿ってやつね。」
「そんなこと言っても、女の影がない僕に言われても。」
だから、画面の中で嫁候補を探しているのだが………。
「「どの口で言ってるの!?」」
見事な二重奏だった。
そういわれても、現実ではお付き合いをしたことないし、どちらかといえば避けられてる感じがある。
21歳で彼女無し。
先は長いとはいえ、悲しい。
「———こればかりは剣崎のお嬢様に感謝するところかしら。」
「そうね。都木って、基本興味の無いことに関して無頓着というか、おざなりというか………。」
「姉さんたちよ、誤解をうむ発言をしないでくれ。決して女性に興味がないとかではない! むしろ、普通に接してほしいし、欲情だってする!」
そんな憐れむような眼を向けないで!
この家族の中で一番地位が低いだけでなく、信頼の地位も低いらしい。
「剣崎のご令嬢の苦労が伺えるわ。」
「あのクソ野郎は気に入らないけど、お嬢様は親近感? 同情の余地があるわ。」
二人ともこんな時になぜ剣崎の話がでる?
こっちとしては傍迷惑この上ないじゃじゃ馬のイメージしかないのだけど。
だが、話題の振り方を間違えたな、真衣姉さん?
「他人のコイバナより、自分の恋愛を心配したらどうなの、真衣姉さん?」
「え?」
自分に振られるとは思っていなかったのか、真衣姉さんは頭を洗いながら素っ頓狂な声を出した。
「告白してうまくいったんでしょ? これからのデートプランとかあるの?」
「え、えっと。ま、まあぼちぼち………。」
「ちなみに男はほったらかしにしていると愛想が尽きるらしいよ。」
「な、なんだってぇ!?」
まあ、嘘だが。
恋愛事情など知らない僕だが、ブラフを立てることくらいできる。
確かにこれ以上、僕の恋愛事情に突っ込まれることを回避すべく、話題の切り替え提示をしたが、真衣姉さんの慌てふためく顔が見られただけでラッキーである。
「え、遠征から帰ってきたら、早く行くとこ決めるわ。あ、でもこういうのって言いだした人がすべてのスケジュールを管理するのよね? だとしたら、身辺の洗い出しとか、あ、あと好きなこととか把握しておかないといけないんだっけ? そ、それと服とか考えなきゃ。でもうちにあるのは、おざなりの服とか、ジャージしかないし………。頭がキャパオーバーでパンクしそう………。」
狙い通り、話の流れを掴んだ。これで僕に話題が振られることはないだろう。
そこにまさかの合いの手が入った。
「真衣姉さん、それなら神薙ショッピングの服屋とその他に点在している小規模小売店とか見て回ろうか?」
理奈姉さんから助け舟が出されるとは。
しかも自主的に家から出ることを明言している、だと!?
「どうせ思考がエンドレスループして、最終的にジャージで行くことになる悲惨なエンディングを迎えそうだし。」
真衣姉さんが救世主を見る目で理奈姉さんを見ている。
「やっぱり持つべきものは頼りになる妹よね!」
気持ちの切り替えが早い。
とりあえず、そろそろ湯船から出たい。
理奈姉さんを一旦抱きかかえて僕の体をずらし、理奈姉さんをゆっくりおろす。
理奈姉さんはすごく不服そうな顔になったものの抵抗なく、浴槽に再度浸かっている。
浴槽から出て、髪をシャワーから出るお湯で濡らす。
滴り落ちる水滴が口の周りを通るだけでピリピリとした痛みが走る。いまだに唇の腫れが引かないのだ。この痛みのせいで陰鬱な気分にさせられる。
頭を洗い終えてすぐに浴室を後にする。
「もう出ていくの? もう少し湯舟に浸かっていけば?」
「もう上がるよ。それに真衣姉さん、もうすぐ4時過ぎるよ。急いだほうがいいよ。」
そういって、後にする。
僕は、姉たちと違って長湯ではない。
どちらかといえば迅速に終える方だ。毎回の平均時間は10分くらいで済ませている。
だが、決してお風呂が嫌いなわけではない。考え事や憂鬱なときはお湯に浸かっていたいと思えるほどに好きである。
今回の件は、あの姉たちから脱出するため早めに上がりたかったのが本音だ。それと、口の周りやお尻がヒリヒリして痛いからという理由もある。
そそくさと浴場を後にして着替えに手を伸ばす。
浴場からはまだ姉たちの話声が聞こえる。
この調子じゃ、真衣姉さんの遅刻する未来が見えるがそのことに言及すれば煙たがれる未来が見えるのも事実。
つまり、放置が適切との結論が出た。
おそらく、またシュガーに捕まるであろう未来が見えるが仕方がない。これは真衣姉さんが選んだ結果。
つまり僕のせいじゃない。OK?
着替え終わってから朝食を作っているシュガーのもとに向かう。
だいたいこの時間から仕込みを始めているのは長年の経験上わかっている。
キッチンには予想通りシュガーの姿があった。
日課となっているので自分がどう行動するかもわかっている。
おそらく、真衣姉さんの早出の件を聞いているはずなので、昨晩のうちに仕込みの大まかなものはできているはず。なら配膳準備の手伝いをした方がいいだろう。
そう思いキッチンに踏み込んだ瞬間、何かが顔の横をかすめた。
後ろを振り向くと包丁が壁に突き刺さっていた。
「おや、何かと思えばクソ虫さんじゃありませんか。死にたければ一歩前においでください。」
殺意むき出しで睨まないで。
「居候だけど、殺さないでください。あとクソ虫はやめてください。」
「これは失礼しました。先ほどまで汚物のようなものでしたので適切ではありませんでしたね、クソ野郎。」
「確かに虫から人には昇格したけどクソは要らないよね!?」
「最近は、なりを潜めていますがキッチンでの作業中に床や壁をはい回る黒い虫と同類だと勘違いしていました。あの時の感情が噴出してしまいました。なので、キッチンに入らないでください、G野郎。」
「楽しんでる!? 明らかに楽しんでるよね!?」
楽しんでいるのはいいが、おそらく一歩前に出ると確実に死に至るであろうことは予想できる。だって、シュガーの右手にしっかり包丁が見えているから。
「そ、それじゃあ、洗濯物でも干しにいってます! すみませんでした!」
その言葉と同時にキッチンの境界線まで後退する。するとさっきまでの殺気が薄くなった。
「洗濯物にクソのにおいを付けないでくださいね、Gブリ野郎。」
言葉の追撃を背中に浴びながら洗濯物を回収しに洗濯機に向かう。
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