第2部 断章
一週間という怒涛の日々を過ごして、私が自分の邸宅に戻ってきたのは10日後の暮れた夕暮れだった。明かり一つ点いていない邸宅を見るのは何年ぶりだろうか。
「ただいま。」
そういっても誰も返事が返ってこないことはわかっている。
理奈は、精神疾患が悪化。
今は鎮静剤を投与されたが余談を許さない状況となっていた。
私の弟への依存心を見れば明白だったことだ。
もともと強くはないと思っていたけど、ここまでひどくなっていたとは思わなかった。これも遺伝子なのか………。彼女の母親を彷彿とさせた。
シュガーは、理奈の付き添いでこの邸宅と病院を行き来している。
おそらく、今日は病院につきっきりとなるだろう。
そして、肝心の弟はもういない。
「はあ。」
あの記者会見の後、御用家としての罰則は現場が落ちついてからの謹慎処分となった。あの記者事態、問題を度々起こす問題人物だったらしく何度も御用家から苦情を入れても改善しなかった、とのことで刑は軽くなった。
それよりも仕事を優先していたせいで、忘れようとしていた気持ちが今になってこみあげてきた。
ずっと考えないように努めてきたものが決壊した気分になっていた。後悔に後悔を上塗りして、懺悔の思いが止めどなく押し寄せてくる。
いつの間にか、頬に涙が流れ落ちていった。壁によりかかりながら泣き声をあげることなく、自分の目から流れ落ちる液体を自然に受け入れていた。
その時、
「あらお邪魔だったかしら?」
目を上げると酒瓶を担いだ短髪の女性がいた。
「香織さん?」
ぼやけているが、その柔らかな物腰を聞き違えるわけがない。
「10時間の休憩だから、少し寄ってみたけど、不安が的中したみたいね。」
涙で濡れた頬を袖でぬぐって向き合う。
「そ、それでどうしました?」
「かしこまらないでよ。ただの親戚の付き合いよ? それにみんな理奈さんに付きっ切りだけど、私としては一番あなたが心配だったからよ。」
そんなに私が心配になるようなことをしただろうか。
「あなたの優先順位を考えれば妥当に思えるわ。何せ、あなたは自分の家族を第一優先で物事を進めるから。」
よく見ている。
昔から、母親が忙しいときはシュガーや香織さんにお世話になった。
今となっても一人でいることが怖い。
「大丈夫、大丈夫。」
そう言いながら、私を軽く抱き留めてくれる温もりに当てられまた涙がこぼれさらには止めどなく流れ始める。今度は嗚咽交じりに、しがみついてしまう。
まさしく決壊してしまった。
「いたたた。真衣ちゃん強くなったんだから、おばさんの骨折れちゃうわよ。」
「うるさい! おばさんっていってもまだ40歳になったばかりでしょ!」
この人からは年を感じさせない。それでいて人間味があり、昔から付き合いやすかった。
「はいはい、今日は一緒にいてあげるから。まずは食事にしましょう。」
「………うん。」
そういって、食事の支度を二人でし始める。
こうして香織さんと一緒の食事は何年ぶりになるのだろうか。いつの間にか上司と部下という関係になってしまったのも問題だった。その他にも問題は多々あったが。
「それでその酒瓶は?」
「一緒に飲もうと思って。」
「………私が弱いの、知ってますよね?」
「時には、飲まないとやってられない時があるのよ。それともオレンジジュースにする?」
「………いただきます。」
「そうこなくちゃ。」
香織さんが作ってくれる料理は知っている。
いつも亡き母親の都合やシュガーの遠征時に香織さんは毎回チャーハンを作ってくれる。それに合わせるようにわかめとネギの中華スープを出してくれた。これが幼少期から食べてきたが体の内側から温かくなって落ち着くのだ。
食事は一言も発する間もなく、もくもくと食べた。
久々に食べたが、その味は変わっておらず美味しかった。バカみたいな話だがこの食事一つで胸に渦巻いていた感情が和らいだ。まさに魔法の料理だ。
「さ、飲もう飲もう!」
そういって酒瓶の蓋を景気よく開け放った。
かなりの酒精なのか、蓋を開けてからすぐにアルコールの独特な香りが漂ってきた。
「これ結構な度数なんじゃ………。」
「大丈夫だって………。それにさ。」
さっきまでの明るい雰囲気とは打って変わって物憂げな表情になり、
「私も酔いたい気分なのよ。」
私自身のことしか今まで考えられていなかったが、この人も同じ気持ちなんだ。
いや、もっとひどいかもしれない。
「………今でもあの時のこと恨んでますか?」
「その話はやめましょう。それに、結果としていい方向に流れたのだから。」
「でも、香織さんの気持ちは………。」
この質問に意味はない。自分を保ちたいから身勝手に言っているに過ぎない。
「私の人生において選択肢の成功はなかったわ。だから、幸せというものもあり得なかった。むしろ兄の幸せを壊してしまった。それを15年前に思い知ったわ。」
返す言葉がない。
その後の顛末なんて見れたものではなかった。そんな風にしたのは私のせいなのだから。
「あの後、何度も再期のためにあの子と話を設けてくれてたことは知っていたけど、何を話せばいいのか、わからなかったなあ。」
その話を皮切りに煽るようにお酒を飲み始めた。
「結局、やっていることは昔と同じ。後悔と懺悔を繰り返しているだけよ。あれから増えるのは無駄な歳と酒量。逆に知り合いがどんどん減っていくのが現実よ。」
ほぼ独白に近い言葉が紡がれていく。
心の中では私も同じ気持ちだ。
私も、コップに注いでもらい口の中に流し込む。
一気に口から顔にかけて燃えるような感覚に襲われた。
でも、香織さんの言う通り、酔えることに感謝したい。
話を断ち切るように香織さんが話題を変えてきた。
「そういえば、体の汚染は大丈夫なの?」
「ええ、安定はしてます。あの事件で一番ひどかった都木が問題でしたけど。」
「そうね。『黒い雨』の二回目の時にあの子は誰よりも汚泥を浴びていたから。」
人には誰しもが欲求ある。
『黒い雨』の汚泥は人の欲求を強めてしまう効果があり、汚染深度により精神崩壊を起こす危険なものだった。
『黒い雨』の汚泥の影響で、私を含め少なからず汚染された人がいる。
「あの事件で私だけ汚染されなかったのは彼女の嫌がらせでしょうね。」
「そうですね。彼女なら、そうしますね。そして最も汚染されていたのが都木だった。」
「………。」
「最初は気が付きませんでしたが、まさか【ホワイトカラー】まで食べ始めるとは思ってもみませんでした。」
「そうね。ただ、汚染を受けた人は何かしら副作用的恩恵があった。皮肉な話よね。」
「私の場合、特定の侮辱行為に過剰に反応するようになりました。その代わりに身体強度と観察眼、人理からの魔力供給がされるようになりました。理奈は都木への依存やパラフィリア障害の代わりに先見性と狡知さが表面化しました。都木は思考放棄、道徳観の欠如、狂食、厭世的あきらめの代わりに魔力凝縮体、体内変換、空間認知を持っていました。」
【黒い雲事件】。
そう名付けられた15年前の出来事は今でもタブーとして歴史の闇となっている。
「ほんと嫌になるわ。まるで彼女の掌で遊ばれている気分。」
「そうですね。実際またあの災害に備えられるように、これまで努力してきたつもりでも、また起きたときに役に立つのかどうか………。」
「そうね。でも、やらずに諦めるのはもうやめてるから。」
「………。」
過去の自分を振り返るかのように歯を嚙み締めて言った言葉には重みがあった。
この人の過去を鑑みれば当然だが、同時に痛々しくあり最も報われることのない生き地獄の体現をしている。
「まあ、焦っていてもどうしようもないとき、心を落ち着かせてくれるのはやっぱりお酒よ。酔っていれば、気が付けば眠っている。うなされずに落ちることができるんだから。」
香織さんはそういっているが、私には見ていてつらい。
それを自傷行為と言わずして何というのだろうか。
だけど、私には何も言えない。彼女をこうしてしまった最後の一押しの責任は私なのだから。
そう逡巡していたがすでにアルコールが回ってきたのか、思考がぼんやりとしてきた。
「本当にお酒に弱いんだから。」
「………体質なんで仕方ないでしょ。」
平然と飲み続ける香織さんはなんてこともないように顔色一つ変えていない。
そしてどんどん意識が保てないほどの眠気が襲ってきた。
「今日は私もついていてあげるから大丈夫よ。」
———そうですか。
そういいたかったが、もう意識は暗闇に落ちてかけていた。
暗い意識の中、抱き上げられているのか体の浮くような感覚と仄かに温かい温もりを感じ取ることができた。
「お休み。また明日。」
その言葉に返事をしたかったがすでに微睡みの中に落ちていった。
「ごめんなさい」
最後に、そんな声が聞こえた気がした。
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