22. 呪文

 日藤は閉店間際の店内で、ハタキを手に埃取りをしていた。スチールドアの向こうから、アシュレイの暢気な声が響く。とりとめのない会話をしながら、いつもどおりの日暮れが過ぎていく。


 ふと彼は、玄関扉の磨りガラスの向こうに、人影が立っているのを目に留めた。お客だろうか、しかしやけに静かだ。人影はじっと立ったまま動かない。

 日藤はとくに不審がることもなく、玄関先に寄り、引き戸を開いた。「お客さん、もう閉店ですよ――」そう言いかけた彼は、ソレを前にして絶句した。

 タンクトップ姿の痩せた老人だ。しかしその相貌は異様だった。全身に浮かんでいるのは、呪文じみた文字の群れだ。それらは不気味にのたくりながら、老人の皺の内側までびっしりと埋め尽くしている。

 目の焦点も合っていない。不規則に動く眼球が、不意にぐるりと彼を見据えた。

「ヱ亞ー」

 老人の喉から不快な音が漏れる。日藤は直感した。この戸を開けたのは失敗だった。それも取り返しがつかない失敗。


 老人は店内へ一歩踏み込んだ。硬直した日藤の体を引っ掴んで、ぐいと奥へと押し込んでいく。その膂力はとても老人のものとは思えなかった。

 老人は力任せに、日藤を店内奥の棚に叩きつけた。そのままギリギリと締め上げられ、彼は苦悶の表情だ。棚から荷物が落ち、ガラスケースが割れる音がする。

「ゑゑゑゑゑゑ!」

 老人が声にならない叫び声を上げる。その舌の奥までもが文字に覆われていた。

「日藤くん!? そこで何が起こってる、返事をしてくれ! おい!」

アシュレイの悲痛な叫びは届かない。日藤は蒼白な顔のまま、必死で抵抗を試みる。このままだと圧し潰されかねない。


 次の瞬間、老人は唐突に日藤を突き飛ばした。床にしたたかに打ち付けられ、日藤は痛みに呻く。

「ほ。?巨巨巨巨!」

 老人は何かに向かって一目散に向かっていき、棚の奥からそれを引っ張りだした。その手に握られているのは小さな仏像だ。しかし日藤はそれに見覚えがない。頭部がひしゃげた鉄の仏像。そんなものがこの店にあっただろうか。

 何故か老人は不気味なほど大人しくなっている。

「唖ぁ宇ゥ」

 意味不明なことをぶつぶつ呟きながら、仏像を握ったまま、よたよたと店外へと出ていった。

 日藤は呆然としてそれを眺めていた。開けっ放しの戸口から生ぬるい夜風が入り込み、恐ろしいまでの静寂が店内を包んでいた。

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