02
古都であり、国際的な観光地でもあるK市には、ガイド本に載っているだけでも無数の寺院が建っている。その多くが創建は数百年以上昔という重要文化財クラスの建築であり、中には国宝級の文物を所蔵する有名な古刹もあった。
洋太の生家はその中でも、規模は小さいが歴史的にはかなり古いほうに入る、低山の山腹にある寺だ。ちょうどラン講師として紹介したトレイルコースの直下にあり、街の中からは長く細い坂道を登り切った、さらに奥にある。
海辺の国道を競技並みのスピードで走って、実家の寺へと続く道との合流地点まで洋太が焦って来ると、路肩に止まっていた軽自動車の前でイラついた様子の姉の歩美が待っていた。
洋太とよく似た顔立ちだが髪が肩まで長く、もう少し気が強そうに見える。
全力疾走して来る洋太に気づくと、開口一番――。
「……遅っそーい‼ このバカ洋太!」
「ゴメンって! 姉ちゃん……!」
洋太が乗り込むと、すぐに車が坂道を急発車した。姉が運転している間、後ろの座席では狭苦しそうにばたばたと洋太が、パンツ一枚になりながらランニングウェアから着替えている。
着替えようとしている服は、ちょっと風変わりな――もっとはっきり言えば、それは寺に勤めるお坊さんが身に着ける、法衣と呼ばれる装束だった。横にはその上から着用する畳まれた袈裟もある。助手席には、儀式で使う法具類を包んだ大きな風呂敷がシートの上に鎮座していた。
「……あんたねー、この繁忙期にラン講師のバイトしてる場合じゃないでしょ?!」
「だ、だって先月から予約入ってて……これでも午前中に変えてもらったんだぜ」
法事の繁忙期は、地域や寺によっても違うだろうが、温暖な海辺で冬の寒さと夏の暑さがそれほど厳しくないこのあたりでは、洋太は経験的に梅雨の後と秋の初めじゃないか? と思っていた。季節の変わり目で温度や湿度の差が大きく、病人や老人が亡くなることが多いからだ。
「ったく。もう一軒の、三回忌のほうはお母さんが行ってる。あんたは七回忌のほうだから、間違えないでね!」
目的の家について車を止めた姉が振り返り、真剣な表情で洋太に命じる。
「いい? あんたプレッシャーに弱いんだから、もしお経飛ばしたりしても絶対に途中で止まったり、ましてや謝ってやり直したりしないで、最後まで通しなさいよ。黙ってりゃバレないんだからね!」
「わかってるってば……」
身に覚えがあるのか、少々情けない顔をして洋太が頷いた。
こう見えて宗派の教義を学べる専門学校をきちんと卒業しているし、僧侶として「清海(しょうかい)」という大層立派な名前も持っているのだが……こんな風に姉に叱られたりする時は、子供の頃からの名前で呼ばれることが多い。家族の贔屓目から見てもよほど頼りないのだろう。
車から降りた後、法衣の襟をぎゅっぎゅっと引っ張って着崩れを直しながら、姉が大袈裟に溜息をつく。
「一応、長男なんだから、もう少し跡継ぎの自覚持ちなさいよね。ほんと、私が男だったら替わりたいくらい……」
法事の席に現れた洋太は、しっかりと法衣と袈裟を着て見た目はしおらしく、敬虔な若い僧侶に見えた。 作法通りに席に着き、姉が準備してくれた法具を鳴らして、意外にも凛とよく通る声でお経をあげる。
禁欲的な黒の法衣に身を包み、容貌さわやかな青年僧の張りのあるいい声に、うっとり聞き惚れている女性の参列者も何人かいた。廊下では風呂敷を片付けながら弟の読経の声を聞いていた姉が
(あっ。今お経のページ飛ばしたな……あのバカ……)
と、片手で目を覆っている。とはいえ表面的には騒ぎもなく、粛々と儀式が進行して行った。
法事の後、ようやく務めを終えて帰ろうと席を立った洋太は、檀家のお年寄り達に囲まれてしまった。
「まあー! 洋ちゃん、先代のお祖父様が亡くなった後、しばらく見なかったと思ったら、こんなに立派になって……」
「まだまだオムツしてる赤ちゃんだと思ってたのにねえー」
「でも、お経は途中で少し飛ばしてたわね、うふふ」
ハッ? として真っ青になった洋太が体を二つ折りにして頭を下げ、声を震わせつつ謝罪した。
「す、すいません……‼ 大事なお式なのに、気づかなくて……!」
老婦人達はそろって明るく笑うと、洋太の腕だの背中だのをぺたぺたと親し気に叩いた。完全に、近くに住んでいる親戚の孫か曾孫などを見る目線である。
「気にすることないわよー! あんたはまだ住職見習いだし。言わなきゃ若い者にはわかんないから」
「そうそう。小っちゃい頃からバカ正直な子だね、ほんとに」
「覚えてるかい? あんた、うちのじいさんがまだ生きてた時に、ハゲ頭のことで――」
とか何とか、逆に励まされてしまった。そのまま思い出話に花が咲きそうな流れに、戸口から睨んでいる姉の視線に気づいた洋太が、申し訳なさそうに再び頭を下げて周囲に挨拶する。
「……ああ、そうだわ。大事なこと言っとかなきゃ。早くあんたもお嫁さんもらって、今まで苦労してきたお母さんを安心させてあげなさい!」
「お寺のためにも、それが一番よ。早く次の跡取りの孫の顔をね……」
急に洋太は顔を赤くして、今までになく焦った様子でしどろもどろに場を切り抜けようとした。
「い、いやあ、オレ……いえ私は、まだそういうのは早いかなって……そのう、修行の身ですから……!」
しまいに老婦人達から見合いの話を複数持ち掛けられそうになり、あわてて意味不明な言い訳をしつつ退出する洋太。その後、そつのない笑顔でお車代を受け取った姉が丁重な挨拶をして帰って行った。
法事からの帰り道、日が傾きかけた時間帯の街中の大通り沿いに車を止めてもらい、車内で私服のジーパンとVネックのキャラコラボTシャツに着替え終わっていた洋太が自分の荷物を持って降りる。実家からは市電で二駅くらい離れた場所だ。
姉が窓を開けて、ねぎらいとともにさりげなく問いかけた。
「今日はお疲れ。あたしはこのままもう一軒のほうにお母さんを迎えに行くけど。あんたは、また”向こう”に泊まるの?」
その言い方には少し、複雑な意味が込められているように洋太には聞こえた。
(そっか、姉ちゃんは”あいつ”のこと知ってるしな……)と思いつつ、つとめて何気なさそうに洋太が笑顔で答える。
「うん、そのつもりだけど……」
「ふーん……泊まるのは別にいいけど、ほどほどにしなよ。まだ繁忙期終わってないんだから。当日の朝、急に足腰立たなくなったとか困るからね」
「うっ……」
何故か真っ赤になって言葉に詰まる洋太。
車を出そうとして窓ごしに振り返った姉が最後、やけに神妙な顔でぽつりと言葉を続けた。
「……で。あんた、いつお母さんには言うつもり? ちゃんと考えときなよ」
とっさに答えられず立ち尽くしている間に車が出て行き、洋太はひとつ溜息をつくと、着替え入りのバッグを肩にかついで住宅街に向かって歩き出した。
洋太の実家の寺は、数年前に先代住職だった祖父が病気で急死してから、母が代理として葬式や法事などの寺の勤めを果たしている。
最近は業界的な後継者難で女性住職も増えているし、ちゃんと僧侶の資格取得のために三年間の通信教育を受講しているのだから、寺の一人娘だった母が住職を名乗ってもよさそうに洋太などは思うのだが。
それでも、やはり高齢者が多い檀家や古い土地柄への配慮もあって、いまだに本人は住職代理で通している。洋太が小学生の時に婿だった父親が離婚して出て行ったので、荻谷家には父親がいなかった。
洋太と姉は幼い頃から、何かと地域の行事全般に関わることの多い、歴史ある寺を背負おうと努力し、いつも疲れている母の姿を見てきたので、自然と姉弟で出来る仕事を分担して手伝うようになっていた。
洋太自身、家を継いで僧侶を目指すのなら、一般的には仏教系の四年制大学を出たほうが、僧籍といってお坊さんの階級としての出世は早くなるのだが、早く母の役に立ちたかったので専門学校を選択した。もともと高校は進学校だったし、専門学校在学中の成績は、決して悪いほうではなかったと思う。
しかし――。実際に法事などで僧侶としての仕事をこなすようになって、改めて感じるのは、周囲のためにやりたいと思うことが、自分自身に本当に向いているとは限らない……という当り前の事実だった。
学校で勉強するのは特に嫌ではなかったのだが、どうも自分はかしこまった場面が苦手というか、姉に言わせればプレッシャーに弱いのだろう。読経に集中すると他の何かを失念してしまうことが度々あった。
今はまだ、法事では姉が補佐してくれるし、住職業も見習いという体裁なので、それほど重い責任は追わされていないのだが。いつか何か大きな失態をやらかしそうで、”本業”といいつつ、なかなか自信が持てなかった。
(オレなんかより、姉ちゃんのほうがずっとしっかり者だし、向いてると思うんだけどなあ、住職……)
困ったような顔で天を仰ぐ洋太。
(でも、やっぱり男のオレが継がないといけないんだろうな……はあ……)
ラン講師のバイトをしている時はあれほど明るかった表情が、夕暮れ前の日の陰りもあって少し物憂げに沈んで見えた。
(お母さんを助けたいし、家のために頑張らなきゃっていけないって頭ではわかってるんだけど……それでも、オレには……)
実のところ、洋太には現在、交際している相手がいる。それも、”同性”の。
今向かっているのも、その恋人と休日に会うために、ラン講師の副業用の拠点と称して共同で借りているワンルームマンションだった。
自分の性的嗜好を明確に意識したのは、ごく最近……というよりも、その相手と出会って、色々あって付き合うことになって初めて、自分が「男性が好き」だということに気づいた。道理で、学生時代にかわいいと思う女子から告白され、付き合ってみても何故か続かないわけだ。
しかし、自分が同性と交際しているという事実は、母親を含めて周囲には秘密にしている。偶然、知られてしまった姉を除いては。
何しろ、地元で生まれ育って、皆から圧倒的に信頼されている母でさえ、自分からは住職を名乗りづらいような古い土地柄なのだ。もし跡継ぎである自分の恋人のことを高齢の檀家達に知られたら、面倒なことになりそうな予感しかない。
いくら妻帯や蓄髪には寛容な宗派とはいえ、同性愛まで、そうだという保証は何処にもないのだ。
洋太は少し深刻な顔をして、うーんと唸った。と、きゅるる……と腹の虫が小さな音を立てる。かなり早い朝食の後、バイト休憩中のエナジーバー以外にまだ何も食べていなかったことを思い出した。
(……まあ色々あるけど、また後で考えればいいか。ついでに夕飯の買い出ししてこうっと!)
さっそく頭を切り替えて途中のコンビニに寄り道する。あまり難しい考え事が続くほうではないのだ。
洋太は鼻歌交じりに、かごの中に二人分のコンビニ弁当とドリンクなどをぽいぽいと入れて行った。
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