第一章

01


 K市は歴史ある古都らしく緑が豊かな街で、高台の林道から青空のきらめきを映す海の方角を眺めると、こぢんまりした上品な街並みを囲む半円形の湾から初秋の心地よい海風が山の上まで吹き抜けて来た。

 有名観光地の隠れた穴場スポットである低山の展望台からの眺めを堪能した後で、荻谷洋太は今日のラン講師の生徒二人を促して、比較的ゆっくりしたペースで下山を始めた。切通しの苔道を踏むトレイル用ランニングシューズの足取りは軽い。

 やや息を弾ませて走りながら、後ろのカラフルなランニングウェアに身を包んだOL風女性が、少し興奮したように声を張った。

「荻谷せんせー! 私、観光地の街にこんな景色のいいランコースがあるなんて全然知りませんでした!」

 ふりかえった洋太が、人懐っこそうな朗らかな笑顔で答える。 

「でしょ? オレのとっておきのポイントなんです! 是非お二人にも一度走ってみて欲しくって……」

「わあ、うれしー! やっぱり今日のガイドお願いしてよかったねー」

「ほんと。お天気もよかったしね!」

 生徒の女性達が嬉し気にはしゃいでいるのを見て、洋太は自分まで楽しくなり、終始にこにこしている。

「さあ、もう少し走ったらゴールですよ! 最後にあと一つ、とっておきの景色がありますから!」 

 森に囲まれた林道を抜け、住宅街の坂道をしばらく走り下ると、急に視界がさあっと開けて海沿いの国道に出た。夏には海の家が建っていた白い砂浜に降りると、広々した海岸をまばゆい水平線まで独り占めした気分になる。後ろの女性二人から華やかな歓声が上がった。

「はい、本日のコースはここまでです。お二人とも、お疲れ様でしたー!」

 と、スポーツ少年のようにさわやかな笑顔でねぎらった。イエローのランニングウェアの上に着けていた、黒のハーフパンツと同じ色のベスト型のラン用ザックから、凍らせていたドリンクを取り出して女性たちに手渡す。ちょうど飲み頃に溶けているはずだ。

 秋らしい、からりとした潮風を顔じゅうに受けながら、洋太は空をうっすらと流れる巻雲を見上げて眼を細めた。 

 長い睫毛に縁どられた明るい茶色の瞳に白い波の輝きが反射して、少し癖のある柔らかそうな短い暗褐色の髪の毛が風にさらさらと踊っている。

 中肉中背、体つきは男性としては細身なグループに入るだろう。顔立ちは、造作は整っているがやや幼く見え、とりわけ垂れ気味の眉と、気分によって表情がくるくると変わる大きな眼が印象的だった。 

 洋太は副業としてフリーのラン講師のバイトを始めてから、まだ一年だ。しかし学生時代には結構本格的に陸上をやっていて、県の強化選手に選ばれたこともある。

 それだけに、観光客向けのトレイルコースを一本走った程度では軽いウォーミングアップといった運動強度で、ほとんど息も上がっていなかった。

 対照的に顧客の女性生徒二人は、いかにも一仕事した、という表情で程よい疲労感に身を任せていた。

「あー風が気持ちいい……! ほんっと最高……‼」

「これだから旅ランってやめられないよねー!」

 昨今ではアウトドア・アクティビティとしてランニングはすっかり市民権を得ているが、旅先で現地の名所などをゆったりとしたペースで走りながら巡る「旅ラン」も、じわじわとブームになりつつある。

 風光明媚なコースを走ってほどよく汗をかき、運動後には美食や名湯もセットで楽しめるとあって、仕事や都会の日々のストレスから離れ、心身ともにリフレッシュ出来ると通向けの旅行サイト等で話題になっていた。

 この日も、都心からはるばる古都の潮風トレイルを走りに来たOLの生徒に、地元のラン講師として洋太は、出来る限りの心地よい体験を提供したいと、コース選択から現地試走まで事前にかなりの時間を費やしていた。

 努力の甲斐があって、今日の生徒さん達には満足してもらえたようだ……と一安心する洋太。最近は少しずつ常連で指名してくれる顧客も増えてきているので、副業としての手応えも感じていた。

 クールダウンの軽い柔軟運動を指導した後で、洋太は女性達に今日のラン・プログラム終了を告げた。

「ここから国道に沿って少し歩くと、スタートしてきたラン・ステーションの看板が見えますから。シャワーの後でよかったらこれ、店内のカフェで使って下さい。あそこのチーズケーキ、とっても美味しいんですよ!」

 カフェのオーナーからサービスでもらった無料チケットを差し出すと、女性の一人が明らかに何か期待している風に、ちらちらと上目遣いで洋太を見つめてきた。

 頬には、先程までとは違った赤みが差している。

「わーありがとうございます! ……あのう、よかったら先生も一緒にお茶して行きませんか?」

 誘われた洋太は一瞬、嬉しそうに頷きかけたが……ハッ?! と急に我に返った様子で、あわてて手を振った。

「ご、ごめんなさい! オレ今日はこのあと”本業”があるんで、帰らないとなんだ! じゃ失礼します!」

 と言ってその場で回れ右すると、動きにくい砂の上にも関わらず、凄いスピードで走り去って行った。

「行っちゃった……本業って”アレ”だっけ?」

「まだ若いのに、ちょっと意外よね」

 誘いかけた女性が、さも名残惜しそうな声を上げる。

「あーあ。今フリーだって言ってたから、ちょっと期待したのに。もったいなかったなー……先生わりとかっこいいのに、彼女とか作らないのかなぁ?」

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