雷の日の文谷さん
文谷さんは雷が嫌いだ。
今日は晴れの予報だったというのに、昼になると急に天候が変わって土砂降りの雨が降り始めた。
いつものようにベンチで眠っている文谷さんを起こしに行こうとしている時に降り始めたものだから、慌てて走った。
その時はまだぽつぽつとした雨だったから大して濡れはしなかったけれど、雨が降ろうともすやすや眠るのはちょっとどうかと思う。
流石に起きてくれ。何かあった時が心配だ。
のんびり起こすのも躊躇われる空模様だったから、声だけかけてそのままお姫様抱っこで校舎に運び込んだ。
お姫様抱っこで文谷さんを運ぶ僕という光景は、もうお昼の風物詩となっている。
文谷さんを甘やかす女子やこういった色恋に目がない人たちの何人かは、いつも遠巻きに僕達を眺めている。
いっそ手伝ってくれればいいのに。
わあ、なんて気の抜けた声を上げる文谷さんを校舎に運び込んだところで、空が光った。
数秒遅れて、ごろごろと荒れた天気の訪れを報せる雷の音が響く。
「きゅう!」
それほど大きくもない音なのに、イルカ鳴き声のような悲鳴を上げながら文谷さんは身をすくめる。
そして続いて鳴った雷の音で、僕に抱き着いた。
「雷の音が怖いの?」
こくり、と僕のシャツに顔を押し当てながら頷く彼女。
その身体は小さく震えている。
「へそを取られるから、とか?」
茶化すように言うと、今度は首が横に振られぽかぽかと軽く拳で胸を叩かれた。
あまり馬鹿にするな、ということだろうか。
とはいえ今のいつも以上に小動物じみた姿を見せられては説得力もないのだけれど。
「ほら、教室に着くから降ろすよ」
「や」
「や、じゃなくて」
「やっ」
見た目からは想像もつかない力でぎゅっと抱き着かれているので、無理やり降ろすわけにも行かない。
しかし流石に教室の中にまでこの状態で行くのはちょっとあれだ。
公開処刑じみている。
いや、もうこのお姫様抱っこは周知の事実で、今更隠したところで何も変わらないのだけれど。
それでも全く恥ずかしくないわけではないのだ。
今だって初めてのおつかいを見守るように女子がこっそりついてきているし、こないだのイケメン君もすれ違った時に顔を曇らせていた。
ごめん、正直すごく気まずい。そっちはそっちで頑張ってくれ。
とにかく教室まで抱えて入るのは最後の一線を越えてしまうような気がするのだ。
だからとにかく文谷さんをなだめるほかない。
「なんで怖いの?」
「……いつも家で一人だから、雷の時はずっと怖いの」
「寂しいの?」
「寂しい。それに、私の大切な人が雷に打たれちゃうんじゃないかって」
「そんなの滅多に起きやしないよ」
「でも起きないわけじゃないから」
そう言う文谷さんの言葉には、ただ起きるかもしれないという杞憂だけでは言い表せない怯えがあるように思えた。
心配、というよりは恐怖だ。体が震えてしまうほどに彼女は何かを恐れている。
まあ確かに。
確率論で言えば雷に人が打たれるなんて小数点以下の確率だ。
それでも起きるから零ではないし、危険だと認識されている。
文谷さんの背景を知らない僕が、確率論だけで説き伏せようとするのは彼女を傷つけるだけかもしれない。
得てして人の正しさというものは他人を傷つけてしまいがちなのだから。
「僕は隣の席だよ」
「……うん」
「もし雷が落ちたら一緒にあの世行きだね」
「……うん」
「文谷さんも一緒なら怖くないんじゃない?」
そう言うと、文谷さんはゆっくりと顔を上げた。
ぼんやりとした表情だけれど、口はいつもより少し大きめに開いていて、目の端には薄く涙が滲んでいる。
「怖くないって、榊原くんも?」
「そりゃあまあ」
「私がいると?」
「怖くないね」
すると文谷さんは一転して表情をむふーと満足げなものに変えた。
腕の力が緩められたのでそっと彼女の足を降ろす。
一体何が彼女の琴線に触れたのだろうか。
文谷さんはいつもの調子で、踊るように歩き出した。
そして振り向いてにひひと笑う。
「あの世まで一緒、だね」
「ちょっと文脈が違うんじゃないかな」
そんな言葉を言った気もするけれども。
ちょっと変えるだけで全く違った意味になるのでやめて欲しい。
そんな抗議も気にせずに文谷さんは嬉しそうに歩いて行った。
「それでは授業を始めます」
「先生、教科書を忘れたので榊原くんに見せてもらってもいいですか」
「文谷さんが? ……珍しいですね。いいですよ」
そして昼休み明け、国語の授業が始まった途端に文谷さんが動いた。
先生の許可を得て、彼女が机を僕の机にくっつけてくる。
こうもおぜん立てを整えられては拒否もできない。
だが僕は見逃さなかった。動かした時の揺れによって、文谷さんの机の中から国語の教科書がはみ出したのを。
じっと見つめていると、それに気付いたのか慌てて彼女は教科書を押し込んだ。
そして叱られて許しを請う子犬のような目でこちらを見てくる。
……まあいいか。
開いた教科書を机と机の間に置く。
彼女の顔がぱあっと華やいだ。
二つ並んだ机の真ん中にある教科書を読むために、自然と僕達は肩を寄せ合う。
触れるほどの距離ではないけれど、互いを意識するには十分な距離。
ページをめくろうとしてお互いの手が触れ合ったり、ときたま視界の端に互いの顔が入ったりする。
雷は少しずつその怒りを増して、雨足は強まっていくけれど。
ごろごろとなるたびに文谷さんはそっと机の上に置いた僕の小指を握る。
その手は温かくて、震えは無くなっていた。
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