クラスでの文谷さん
文谷さんはクラスのゆるキャラ的存在だ。
いつだってマイペースな彼女の振る舞いを、皆が和やかに見守っている。
理科の実験を行うため、理科室に移動していつもとは違う席、班に別れてもそれは変わらない。
今もある女子が、休憩中に完全に脱力して机に突っ伏している文谷さんの口にチョコを放り込んで、彼女がもごもごとほおばるのを楽しんでいる。
ありふぁほう、とゆったり言われた女子は萌えを過剰摂取したのか、天を仰いで膝から崩れ落ちた。
我が生涯に一片の悔いなし、ではない。もっと生涯を楽しんでくれ。
「なあ榊原、お前最近文谷さんとよく一緒にいるよな」
そんな一幕を眺めていると、クラスの男子が声を掛けてきた。
たしか彼は何かの運動部に所属していて、クラスの中心的な存在だったはずだ。
名前は……何だっただろうか。遠い世界の存在だと思って覚えていない。
とにかく彼はイケメンで、性格が良くて、モテる。
それが一体どうして僕のようなはぐれものに?
「まあ、そうだね」
「その……付き合ってるのか?」
彼は恥ずかし気に頬を赤らめながら、声を潜めるように言った。
ほほう、これはあれだろうか。
恋で愛なアオハルというやつだろうか。
なるほどなるほど。
思わず飛び込んできたピュアな話に、黄色い歓声でも上げたい気分だ。
「いや、付き合ってるわけじゃないよ」
「そうなのか? それにしてはだいぶ距離感が小さいと思うけど」
「僕もよくわからないよ。それで、君は文谷さんにいわゆる
アレ、と言いながら小指を立てると彼は小さく頷いた。
「……そう、だな」
「ならよかったね。彼女は今フリーだと思うよ」
逆にあれで彼氏がいるのだったら、文谷さんは恐るべき魔性の女だろう。
彼女はそこまで倫理観や道徳の観念が擦り切れた人間には見えない。
むしろ善良な方で、いつか悪い男にふらーっと引っかけられて騙されないか心配になってしまうくらいだ。
彼女がダメな男を好きになるような悲しい
僕の言葉に安心したのか、彼はありがとうと言って立ち去っていった。
結局名前は思い出せなかったが、恋敵になりうる距離にいる僕に変な圧を掛けてこないあたりいいやつなのだろう。
あるいは、僕なんかすぐに追い越して文谷さんの隣に立てるという自信の表れなのかもしれないけれど。
クラスの中心にいる男子が文谷さんを好きになった。
これは文谷さんにとって喜ばしいことだろう。
僕以外に彼女の世話を見てくれる人がいたほうがいいに違いないし、それに彼はイケメンだ。
僕みたいなクラスの隅っこで暮らす日陰のダンゴムシみたいな存在よりも、彼と一緒にいたほうが彼女のためになる。
きっと彼の方が優しいし、周りの皆も彼と文谷さんのペアを見守っていたいだろう。
結局僕は、彼女に甘えられるほど頼りがいのある人間でも、価値のある人間でもないのだ。
僕にとっては……どうだろうか。
良いことではあるのだと思う。文谷さんの世話をするのも大変なのだから、その手間が省ける。
けれどそれが誰かの役割になると思うと、少しだけ胸がもやもやするのだ。
そのもやもやに、一体どんな名前を付ければいいのかわからない。
文谷さんは僕の物ではないのだから、独占欲などおこがましい。そんな醜い考え方は彼女にも迷惑だ。
かといって嫉妬も違うし、彼への感謝でもない。
僕は何かを見過ごしているのだろうか。
ふと文谷さんを見れば、彼女はこちらをじーっと見つめていた。
片頬を机にぺったりとくっつけて、もう片頬を風船のように膨らませている。
細められた目から放たれる視線が心なしか痛い。
これはもしかして会話を聞かれていたのだろうか。
それならば彼に申し訳ないけれど、声を潜める配慮はしたのだから許してほしい。
そして今僕は文谷さんに怒られているのだろうか。
いったいどうして?
会話を聞いていたのなら、彼女を大切にしてくれる人が増えると喜んでいいのに。
文谷さんと見つめ合うけれど、視線で通じ合うような能力を僕は持ち合わせていない。
だから困惑したまま時間が過ぎて、不意に彼女がある方向を指差した。
彼女が指差していたのは黒板だった。黒板には今日の実験内容が書かれている。
『※安全第一 ナトリウムを水に入れてみよう!』
何が言いたいのだろうか。
この実験は教科書によればナトリウムが水と急激に反応して爆発するような現象を起こすはずだ。
危ないから注意しろということ?
そう言われればそうかもしれない。
一つ間違えば怪我をするかもしれないのだから。
助かった、ありがとうという意味を込めて笑うと、文谷さんの頬がもう一回り膨らんだ。
一体なぜなんだ。
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