帰宅部の文谷さん
文谷さんは帰宅部だ。
しかし放課後になるや否や帰宅を始めるエース部員ではない。
教室でのんびりと三十分ほど一眠りしてから帰宅を始めるベンチ部員だ。
彼女は夕日をたっぷりと浴びながら眠る。
クラスメイトが雑談に興じていようとも構わずに眠る。
見ていて気持ちいいほど健やかに眠るのだ。
机に置いた両腕を枕にして突っ伏すようにして眠りはじめると三十分から一時間、いつ起きるかは彼女次第。
僕はその隣の席で文谷さんが起きるまで黙々と勉強に励む。
何故かというと、だ。
「ねえ榊原くん、起きるまで傍にいてー」
と今日は言われたからである。
帰ろうとしているところに不意に掛けられた言葉、しかし特に用事もないので断る理由もなく。
仕方なく、彼女を時折見ながら英単語を勉強している。
他のクラスメイトは既に部活動に向かうなり、帰宅するなりして教室にはいない。
静かな部屋の中に、遠くから運動部の掛け声がしみ込んでいる。
「んぅ……」
急に漏れた可愛らしい寝息にどきりとする。
一体どうして昼にも寝て、放課後にもまた寝るというのか。
そこまで何回も寝られるのは一種の才能のように思える。
彼女は眠りの申し子と言っても過言ではないだろう。
だからと言ってなんだという話だけれど。
……少し休憩を挟もう。
横で机を支えに眠る彼女を頬杖をついて眺めるけれど、起きる気配はまだない。
しかしまあ、起きるまで傍にいて欲しいとは。
寝ている間に僕が何か悪戯するとは考えないのだろうか。
こちとら性欲が盛んな男子高校生、隣で可愛い女子が無防備に眠っていて二人きりという状況に何も感じないわけがない。
少しだけ香る彼女の甘い匂いも、微かに聞こえてくる規則正しい寝息も全て意識の一部を攫って行く。
直接触れるのとはまた少し違うどきどきがある。
おかげで勉強にあまり集中できていなかった。
「にゅ……」
彼女が頭だけ寝返りを打ち、こちらに顔を向けた。
ずいぶんとだらしない寝顔が目の前にさらされる。
輪郭に白く光の輪を持つ桜色の唇は思わず触れてしまいたくなるほどに魅惑的だ。
いつも可愛いとばかり思っている文谷さんの艶めいた一面に、思わず心臓が跳ね上がる。
目を離す……としてももう勉強に戻れる気はしない。
どうしても耳と目が隣に吸い寄せられてしまう。
目の端で英単語を追いかけても脳を通り抜けていってしまうようだ。
一方で張本人はのんきに眠りについているのだから、まったく不公平なものだ。
仕方なく彼女の寝顔を見ていると、そのまぶたがふるりと震えた。
「ん……」
「おはよう」
ようやく目を覚ました文谷さんに声を掛ける。
普通の女の子であれば、男子に寝顔をじっと見られていれば恥ずかしがるなり嫌がるなりネガティブな反応をするだろうがさて、どうだろうか。
これに懲りて隣にいてだなんて言わないようになるならそれはそれで構わないのだけれど。
「私の寝顔見てたの?」
「うん」
しかし彼女はぱしぱしと瞬きをすると、にへらっと表情を崩した。
「見ててくれたんだー。ありがとう」
「嫌じゃないの?」
「なんで?」
「なんでって」
純粋にわからないという様子で文谷さんは首を傾げる。
「恥ずかしいとか、怖いとかないの?」
「ないよー」
だって、と彼女は嬉しそうに目を細めて続けた。
「榊原くんになら見られてもいいの」
「なんだそれ……」
見られてもいいほどどうでもいい人間ということなのだろうか。
そうだった場合とても僕は悲しい。悲しみのあまり席替えを申し出たいくらいだ。
「むしろ榊原くんが見ててくれるから安心できるし、嬉しいの」
そう言った彼女の顔は本当に幸せそうで、まあ恐らく、僕が邪推したようなことはないのだろう。
これで彼女の掌で踊らされているとしたら、もう仕方がないと割り切ろう。
「ねえねえ」
「何?」
「私の寝顔に見惚れちゃった?」
「見ていて飽きはしなかったよ」
からかうように尋ねてきた文谷さんに、出来る限りそっけなく返した。
しかし彼女にとっては満足のいく答えだったようで、そっかそっか、などと声を弾ませながら鞄を持ち、立ち上がる。
「一緒に帰ろ?」
「……まあいいよ」
「やったー」
彼女がどうして僕にこうして接してくるのか、それはよくわからない。
ただ一つ言えるのは、文谷さんはふにゃふにゃしている。
猫の気まぐれのようだったり、寂しがりに見えたり、未知の生物のような生態を持つ彼女のことが僕は嫌いではない。
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