第七話 初陣
「悲しいことだが、八幡宮には我が名を権力と結びつけるおぞましい歴史が多々ある。
おびただしい計らいごととそこへの執着が巨大な私念の渦と成り羅動と化してしまった。
もはや我が力を持ってしてもこれを治めることが叶わぬ。
これを治めるには
かつては我に仕えし
この羅動が妨げて諸々の魂を縛してしまっているのだ」
八幡神は思いの内をヒンジに語った。
「本来この宮は我を祀る処。
我は正法が正動する中で天地人の真勝を願い、その果が増法に乗り宝生となるを我が役と心得ている。
しかし残留する羅動と成った私念は大地を淀ませてしまった。
大地の淀みはわが身の大病である。
この大地を清浄に戻して欲しい。
この役をそなたに託したい」
聞きなれない言葉があって話の内容をすべて理解したわけではなかった。
ましてや八幡神にもできないというたいそうなことが、自分にできるのだろうかとの思いがこみ上げた。
何となく八幡戦士として活躍できるかもしれないという薄っぺらな自信が吹っ飛んでしまいそうだった。
しかし八幡神が今の自分を信じ自分に託してくれたことを思った。
「ここで尻込みしたら八幡さんを失望させる。それはできない」
ヒンジは思い出した。このような役回りに対し「命の掛場」と大見えを切ったことを。もう覚悟を決めるしかなかった。
「八幡さん、『碧淳なる人』とは、どのようなことなのでしょう?」
八幡宮に向かうに当たり、八幡神から聞いた理解のできない言葉について質問した。
「それは、ヒンジよ、そなたのことだ」
そういわれても、何でそれが自分のことなのだかが分からない。
「もっと分かるように教えてください」
「碧はあおのことである。
あおは八幡の心音なり。
このあおと
淳は碧に限りなく素直に一動とある姿勢と思えばよい。
そなたのこれまでの行いはこの碧淳に値する」
ちょっと難しかったが、要は八幡神の心を察し、裏切ることがないようにすればよいのだろうと思った。
「そうだ。
我や神仏の思いに心することを南無察するという。
三輝とあるに極めて大切なことである。
これこそが信義へとつながるものなのだ」
八幡神がヒンジの思いに反応した。
何としてもまずはこの問題を解決したいとの思いが伝わってきた。ヒンジは腹を決めた。
今回の宇佐行きは妻を伴うこととした。二人で旅行するのは新婚の時以来であった。妻のウキウキが伝わってくる。
緊張を抱えた自分の腹の内とのギャップが気にはなるが、それもまた良しと思えた。そう、楽しめるところは楽しもうと。
これから下関行きの夜行の特急列車に乗る。その前に昼飯として駅弁とお茶を買うこととした。
あれこれと散々迷っている妻の笑顔が眩い。ヒンジは幸せを感じていた。
列車がゆっくり走り出した。下関に着くのは明日の朝。長い長い列車の旅だ。
横浜を過ぎたころ弁当を開いた。妻は幕の内弁当、ヒンジは助六寿司だった。お稲荷さんのつやがとてもいい。
だからだろうか妻の目線がちらちらとお稲荷さんに向けられているのが分かった。
ヒンジは妻の弁当の上にお稲荷さんをのせた。
「ありがとう。このお稲荷さんとても美味しそうよね。でも私がお稲荷さんを食べたいと思ったことがなんでわかったの?」
この妻の言葉に、ヒンジはたまらない気持ちでほほ笑んだ。
小田原、熱海を過ぎた。今日は良く晴れている。そろそろ富士山が見える頃か。この夜行特急の名も「富士」である。
吉原を過ぎたころ富士山が見えた。
やっぱり富士山は素晴らしいと思った。妻はジッと富士山を見つめて「^富士は日本一の山~」と歌っていた。
ヒンジも山頂までしっかり見える富士山に心を奪われた。
列車の旅は順調だった。しかし
夕飯には少し早いが元気づけに少し奮発しようと考えた。ヒンジは妻に浜松でウナギ弁当でも買おうかと話を持ち掛けた。
妻が笑顔になった。
列車に揺られながら一晩が過ぎた。いよいよ下関に着く。そこで乗り換えて宇佐に向かう。いよいよだ。ヒンジは緊張感を覚えた。
宇佐駅に着いた。ここから宇佐八幡宮に向かう。そこでヒンジは八幡神に問いかけた。
「このまま八幡宮に向かってよろしいのでしょうか?」
ヒンジは二振りの剣と善光寺で頂いたお花を持ってきた。しかし何かが足りていないのではないかと感じていた。
「塩を求める」
八幡神が答えた。
なるほどと思った。神事として塩は神棚に置いているが年末の掃除の時くらいにしか触れることがない。
しかし剣を作るとき作業場に向けて塩を三度振ったことを思いだした。この作法は先祖から伝えられていたものではなかった。
しかしヒンジはそれをした。
八幡神が口伝せずに自然に行わせた清めのための法儀であった。
「清めのための塩ですか?」
「そうだ。どのようにするかは治めの中で必要に応じその都度伝える」
八幡神が答えた。
「承知しました。塩を求めてから神宮へ向かいます」
妻は突然のように塩を買い求める夫の姿に思いを新たにした。
「あの人には、本当に神様の声が聞こえるのかな!?」
二人は宇佐八幡宮に着いた。
朱色の社殿が美しい。造りは三殿が並んでいて他では見受けることのない形と思えた。その三殿の中央の所に立ち手を合わせた。
「一礼し三・三・三と柏手を打て」
ヒンジは聞こえたとおりに柏手を打った。それを見た妻も倣った。
「我、志孝義に在り。聖願せし八幸聖願と唱えよ」
志孝義という言葉は善光寺から戻ったときに聞いた。しかし八幸聖願は初めて聞いた。
この言葉の意味は分からなかったが声に出して唱えた。
「三・三・三・一と柏手を打ち一礼をして〆とする」
ヒンジは言われたとおりに柏手を打ち深々と一礼をした。
「治めをする場所はここではない」
そういえば八幡神は剣やお花を準備しろとは言わなかった。せっかく買い求めた塩のことも何も言わなかった。
「では何処へ行ったらよろしいのでしょうか?」
「
そう突然言われてもそれが何処にあるか分からない。やむなくヒンジは社務所で元宮への行き方を尋ねた。
「何故そこへ行かれるのですか?」
巫女が訪ねた。
ヒンジはただ「治めのため」とだけ伝えた。巫女はここで待つように促して奥へと消えた。
やがて神官が姿を現した。その神官は宇佐八幡宮の宮司だった。
宮司は言った。
「元宮は荒れてございます。参道も整備が行き届いておりません。工事しようにも、そのたびに災いが起こります。そのことをご存じで!?」
宮司の言葉使いは極めて丁寧であった。ヒンジはとある方に乞われて治めに来たと伝えた。八幡神の名は伏せた。宮司はヒンジに伝えた。
「鳥居の外でお待ちいただけますか?」
ヒンジ達はその言葉に従って鳥居の外で待った。
やがて先ほどの宮司が私服に着替えて現れた。
「ここの宮司としてではなく、一私人として御許山の麓までお二方をお連れいたします」
御許山は宇佐八幡宮から歩いていくにはやや距離がある。宮司は車を用意してくれた。
道すがら御許山に祀られた元宮について宮司が話し出した。
この元宮は現在の宇佐八幡宮の前身であって
したがってこの大元神社は宇佐八幡宮の奥宮ということになる。
この神社は神官の学びの場でもあって多くの神官がここで修業したとのことであった。
八幡神は諸々という言葉でこのことを自分に伝えてきていた。ヒンジは確認が取れたと感じた。
そして確信した。
ここを治めなければ八幡神は身動きが取れないのだろうと。
登山口に着いた。宮司はここまでと言ってヒンジ達に一礼をして戻って行った。
登山口に足を踏み入れた。
しばらく進むと参道とは名ばかりで、まるでけもの道の様であった。ヒンジは八幡神に尋ねた。
「元宮に着いたらまず何をしたらよいのでしょう?」
八幡神は即答した。
「まずは社殿の正面に立ち一礼し、三・三・三と柏手を打ち仁義を口上せよ」
いきなり仁義を口上しろと言われても、何を言ったらいいか分からなかった。でもここは自分で考えるべきだと思った。
そこで先程八幡宮で教えてもらった仁義をここでも口上してみようと考えた。でも八幸聖願の意味が分からない。理解していない言葉は使えない。使うべきではないだろう。だからこれは聞かなければいけないと思った。
「八幡さん。先ほどお聞きした八幸聖願とはどのようなことなのでしょうか?」
八幡神が答えた。
「この治めを託すに当たり我が役と心得るとしたことの内容を覚えているか」
「はい」
「つまりは、正法が正動する中で全ての存在価値が勝され増法に乗ることを八幸という。その八幸が成就することを真に願う心が聖願である」
初めて八幡神の声が聞こえてきた時、自分の鼻毛を疎んじてみせたら間髪入れず八幡神に一喝されたことを思いだした。
鼻毛も全ての存在の中の一つであって、そこに価値があることに気が付かされた。つまり鼻毛は細菌などの侵入を妨げて体の健康のために役に立っているのだ。
だから鼻毛は馬鹿にするものではなく、誠にありがたい存在なのだと、何一つ無駄のないということ、このことを改めて心に刻んだ。
「分かりました。ありがとうございます」
元宮に着いた。
ヒンジは妻に自分から離れたところにいるように促し、本殿の正面に立った。
剣を入れた荷物ケースのふたを開けた。お花はポケットに入れてある。塩の入った袋の口を切った。
一礼をして柏手を三・三・三と打ったその時、ヒンジの立ったすぐその前で風が渦を巻いた。乾いた土埃と落ち葉が舞い上がる。元宮裏手の木々が音を立てて激しく揺れた。
「何をしに参った!!」
声ははっきり聞こえたのだが姿は全く見えない。
「この地を治めに参った。これより仁義を口上いたす」
風がやんだ。
「我、志孝義に在り。聖願せし八幸聖願。この度、八幡神の意を受け、この地を治めに参った」
本殿の芯に向かって口上した。
すると再び声が聞こえた。
「ならば、お手並み、拝見とする。
ただし、治めの叶わぬ時はその代償を思い知ることと成ろう!!」
声の主にとてつもない凄みを感じたが、ここまで来て引き下がることなどできよう筈もない。ヒンジはここは自分の命の掛場なんだと改めて自分に言い聞かせた。
すると八幡神の声が聞こえた。
「動作はゆっくりでよい。祭儀は最初が肝心ぞ!」
八幡神は一つ一つの動作を丁寧に説明しだした。
「まず塩で芯と四方を清める。
そなたの前に天と地と人が理に叶いたる形となるよう願い三回を三度。
東を向き東位の大尊に対し礼建とし三回を三度。
続けて南、西、北の各大尊に対しても同様に。
芯に戻り天地人これ一通と在るを願い三回を三度。さらに一意と在るを示すため一回。
このように清めの塩を
ヒンジは言われたとおりに芯、四方、芯に塩を撒いた。
「両刃の剣をとり不動尊の構えと同じに構えよ。
天地四方切りを施法する」
不動尊は右手で刃が左右になるようにして右胸の前の位置で構えている。
ヒンジはそれを思いだして構えた。
「一息後、両の手を左右に広げよ。
続いて天を刺すが如く上段に構え柄を両の手で持つ」
両刃の剣が天を刺したその時、晴れ渡っていた空が立ちどころに暗雲に包まれた。
稲光が見える。
この様子を見ていた妻の膝がガタガタと震え出した。まるで陰陽師の映画でも見ているような気がした。妻は怖くてたまらなかったが、とはいえヒンジの動きから1秒たりとも目が離せなくなった。
「天地一通と口上し、地に向けて一気に切り下せ」
ヒンジが剣を振り下ろすと同時に元宮の裏山に稲妻が落ちた。
凄まじい雷鳴が響き渡った。
妻は思わず耳をふさいでしゃがみ込んでしまった。
「剣を左に構えよ。そして四方へと口上し右に凪ぐように切り裂け」
剣が左から右へと動く。切っ先の動きはゆっくりであった。
「我ここにありとの意を持って天地四方の交点を突け」
そこにまたつむじ風が巻き起こり、ヒンジの髪が逆立った。
「続けて天地四方八方切りを施法する。再び上段に構えよ」
つむじ風がやんだ。
「八幸聖願と口上し、天から地へ、左から右へ、そして右上から左下へ、左上から右下へと切り開き、最後にまたその交点を突け」
辺りは何もなかったように静まり返った。両刃の剣の法儀はさらに続く。
「四方拝を施法する。
まず天地一通等しき柱を持すとの意で天地を切り、次に東に向け東位大尊真勝と口上し東の天を突く。
続けて南、西、北の順に行う。
最後に右上から左下へ軸を通すの意で切り、正面を突いて四方拝とする」
ヒンジは全く無心で動揺していないことに気が付いた。八幡神からの教示に冷静に対応できていた。
「続けて九字を切る。
天照妙法七種金剛理法九字と唱え、切っ先を左に剣を水平に構えよ。
リンと言って左から右へ、ピョウと言って上から下へ、トウ左から右、シャ上から下、その横と縦をその順とし続けてカイ、ジン、レツ、ザイ、ゼンと切る。
これはそれぞれが数種に繋がっている。
さらに右上から左下にかけて切りショウと唱えよ。
九種の軸とする。10種正輪である。
最後に今切った九字の芯を目掛けて点を打つ。これを不動のための要とする。
以上で前段に於ける両刃の剣の法儀を終了とする」
両刃の剣をケースに納めた。
「八幡神の思いをお伝えする」
ヒンジは八幡神の教示がなかったが切り出した。
「八幡神は正法が正動する中で天地人の真勝を願い、その果が増法に乗り宝生となるを役と心得ておられる。
しかしこの地に残留する私念は羅動と化し大地を淀ませてしまっている。
大地の淀みは八幡神の大病である。
この大地を清浄に戻すため私念を清浄に転化し御霊を浄土へと誘いて欲しいと願っておられる。
そして再び八幡神と共に三輝となってくれるよう望んでおられる」
ヒンジは七枝の剣を手にした。八幡神の声は聞こえていない。
柄を両の手で持ち正面に構えた。ヒンジは一体何を思い、何をするつもりなのか。
「これは七種を主旨とした七枝の剣。
八幡神が願う御霊の生されるを願い、この七枝の剣にて七切りをいたす」
ヒンジは漢字の七をイメージして七枝の剣を振った。
七度振った。
大粒の雨が降ってきた。雨は勢いを増して土砂降りとなった。
「散華を三度」
八幡神の声がした。
ヒンジはおもむろにお花を取り出し五色のお花を三度散華した。
何と、散華されたお花は激しく降る雨の中にあるのに、ひらひらと優雅に舞っている。
すると突然の突風がお花を空高く吹き上げた。お花は渦を巻いて目に見えなくなる程の高さまで舞い上がった。
再びお宮の裏手に大地をつんざくような激音をたてて雷が落ちた。
地が激しく揺れた。ヒンジは七枝の剣を構えたまま身動き一つしない。
やがて優雅に舞っていたお花は雨に打たれて地に落ちた。
お花は大地に沁み込まんばかりにその形がくたくたになっている。
お花が地に落ちると瞬く間に雲が割れ雨がやみ、青空が戻った。
眩い日の光が差してきた。草や木の葉にしたたれ残った雫がキラキラと輝く。
「お見事である。
八幡神の心をしかと受け取った。
お花のご縁を持った七枝の剣が我らの足かせを切り払ってくれた。
そしてお陰でそのお花の船に乗ることが出来、これで八幡神の元へ戻ることが叶う。
ありがとう」
ヒンジは七枝の剣を正面に構えたまま深く一礼をした。
眩い日の光の中に法衣を纏った大勢の人型をした御霊が見えた。
「礼建、光切り 施法」
八幡神がヒンジに声をかけた。
「両刃の剣にて、光の文字に倣って切るがよい」
ヒンジは両刃の剣を構えた。
光の上半分は三輝で一つの点にそれぞれが集まる。その意が四方に広がる。さらにそれは八で末広がりとなる。最後は〆を切る。
漢字の光にはこんな意があるのかと思いながら光を切った。
ヒンジは三・三・三・一と柏手を打った。そして塩を一握り掴んだ。自分の前にその塩を撒いた。
塩はえんとも読む。これと縁を掛けて塩を撒きたかったのだ。このご縁に感謝するとの意を込めて。
「それは良き心がけである。
そなたのお陰でここの淀みが清浄となった。
感謝する」
また八幡神から感謝された。
二度目だ。
ヒンジは大役を果たした満足感を感じていたが、少し照れ臭い思いも感じた。何しろこの一部始終を妻に見られていたのだから。
それにしても治めには相当の抵抗があるものと思い込んでいた。しかしこの元宮での治めには全くと言ってよいほどそのようなものを感じなかった。
始めの時こそ少し構えられたとは感じたが、それっきりだった。
雷と風と雨はすごかったが、別に抵抗とは感じなかったのだ。
八幡神にこのことを尋ねてみたが、やはりこれといった返事はなかった。自分で考えてみろということなのだろうと思った。
考えついたのは、善光寺の如来さまから頂いたお花があったお陰なのだろうという気がした。
妻が近づいて来た。
「凄かったね。途中とても怖くて、どうなるかと思った。
これが八幡さんから言われたあなたのお務めなんですかね。本当にもう疑ったりはしません。
とにかくお疲れさまでした」
妻はいたわりの言葉をかけてくれた。ヒンジはホッとした。
一方、二人を御許山まで案内した宮司は、帰路の途中車を停めては御許山の方を何度も振り返って見ていた。山の方が急に曇って雷が鳴っていることなどに異様な事態が起こっていると思った。
「あのお二方はやっぱり只者ではなかったのだろう。とにかく無事でいてくれたらいいが。
それにしてもこの後お山はどうなるのか気になるな」
宮司は期待する思いを持ったようだった。
二人は山を下り始めた。別府行のバス停までは相当距離がある。
しばらく歩いていると一台の耕運機が通りかかった。
「バス停まで行くんかい?」
気のよさそうな老人が声をかけてきた。
「はい」
ヒンジが答えた。
「その近くまで行くからこんなんで良かったら乗って行かんかい。歩きじゃしんどいでの」
二人はありがたいと思った。きっと八幡神が引き合わせてくれたに違いないと思った。
「では遠慮なく。ありがとうございます」
乗り心地は当然よくない。でもこの際贅沢なんか言えよう筈もない。
「さっきはお山の上で凄い雷が鳴っとったな。お前さんらもそこにいたんかい?
結構濡れておるがの」
この老人は先ほどまでの山の様子を知っていた。
「あのお山は時々あそこだけあんな嵐のような雷雨が降るんじゃ」
時々あるという話は驚いた。
「あんた方は何しに行ったか知らんが、無事でよかったの。
昔あのお山をお祓いに行ったという神官が雷に打たれて死んだという話じゃ。凄い死に様だったと聞いたで。
くわばらくわばら。
お祓いってもんは命がけなんじゃの」
その話を聞いた妻は本当に死ぬかと思ったと感じていた。
ヒンジも「叶わぬ時はその代償を思い知る」と言われたことを思いだした。これがそれかと思った。
「ほれ、バス停はそこじゃて」
二人は耕運機から降りて丁寧に老人にお礼を言った。老人はにこやかに笑って走り去って行った。
しばらく待つとバスがやって来た。「別府温泉」との行先表示があった。
「乗りますか?」
バスの車掌が声をかけた。
「はい」
乗り込んだが他に乗客はいなかった。ヒンジが車掌に尋ねた。
「まだ宿を決めていないんですけど、安くて料理がうまいところ知りませんか?」
全国有数の温泉地である。そんなうまい話などないだろうと思った。しかしそれがあるという。
バスの終点近くに車掌の親戚筋が営む宿があり、その宿はこの辺では割安だと教えてくれた。
「そこは温泉もとってもいいんですよ」
車掌はにっこり微笑んだ。
二人はバスを降りるとその宿に行った。まずは温泉で疲れを癒したかった。
ひと風呂浴びて出てくると夕食が運ばれてきた。豊後灘の魚が出た。
「関あじのお刺身でございます」
膳を運んできた仲居が料理の説明をした。
「ほー。これが噂の関あじか。他の所で獲れるあじとは一味違うという話だ。あじだけに・・」
ヒンジは独り言のようにダジャレを言った。それを聞いた妻は、夫の気が緩んだことが嬉しくもありクスっと笑った。
関あじは始めてである。
ヒンジは「是非八幡さんにも一緒に食べてほしい」と願った。
妻がお酌してくれた。これが八幡神の答えのような気がした。
その夜、ヒンジは奇妙な夢を見た。
真っ白な雲の上にちょこんと裸の男の子が乗っている。生後半年くらいの乳児のように見えた。
ニコニコ笑っている。とてもかわいらしい笑顔だ。
その雲がだんだん近づいてくる。その男の子が口を開いてニヤッと笑った。
小さい牙が生えている。そして口の中が真っ赤だった。
そこで夢は消えた。ヒンジは目が覚めた。
「一体今の夢は何だったんだろう!?
出てきたあの子は誰なんだろう!?
牙があったし、鬼の子の様にも見えたが・・」
八幡神に聞いても答えはなかった。
「まぁ、いいか」
ヒンジは再び目を閉じて眠りについた。
「そろそろ起きて!」
妻の声で目が覚めた。寝床に横になったまま夢の話を聞かせた。
「あら、何なんでしょうね。いい夢なのか悪い夢なのか、どっちでしょう」
何だかいつもの反応とは違ったように思えた。わざと真面に取り合わない風にも見えた。
やがて朝の膳が運ばれてきた。
焼き魚が乗っている。見るからに旨そうだ。
妻がお
ヒンジが妻をいたわろうとすると、妻は手を振って大丈夫だという。長旅が祟ったのかと思った。
妻はヒンジの方に向き直ってお腹に手を当ててほほ笑んだ。
「夢に出てきた子がここにいるのかも知れませんよ!」
ヒンジははじめ何のことか訳が分からなかったが、妻の笑顔を見ていて気が付いた。
「できたのか?」
妻は頷いた。ヒンジは思った。
「八幡さんからとんでもないご褒美を頂いた!!」
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