第六話 初戦への點布

 ヒンジの妻は夕餉ゆうげの支度に精を出していた。ひと風呂浴びて食卓に着くと豪華とはいえないがそれなりの品数がそろっていた。

「今日は凄いね。料理がこんなにたくさん。」

「今日はお疲れさまでした。これはその感謝の気持ちよ。さあ一杯どうぞ。」

 妻がさしてくれた酒をグイっと飲みほした。幸せのひと時を感じた。

 ヒンジは料理をつつきながら今日の山での出来事についてその一部始終を妻に話して聞かせた。

 妻は八幡神の話を聞くのは初めてではなかった。

 しかし神が直接話かけてくるなどということが本当にあるのかと半信半疑であった。

 もし本当だとしても何故夫に話しかけてくるのかが分からない。

 自宅や作業場に神棚は祀ってあるものの、これまでそんなに信心深いと思ったことなどなかったのである。

 最初は作り話かと考えた。ところが話を度々してくるし、まさか気がふれたのではないかと思ったことすらあった。

 しかしヒンジの話ぶりがあまりにも真面まともというか、話の内容も理路整然としているし、納得せざるを得ないというか、否定することが出来ないと感じていた。

 そして今日、とうとう妻は切り出した。


「あなたの言っていることは・・。その~。ところで本当に八幡という神様がいると信じているの。本当にその神様の声が聞こえてくるの。」

 ヒンジは自分の言っていることがまだ信じてもらっていないことに多少のショックを受けたが、妻の気持ちも分からないではなかった。

 最初は自分も何がなんだか分からなかったし、狐にでもつままれたような感じだったのだから。

「お前がそう思うのは当たり前だよな。

 でも俺は気が狂ったわけじゃないよ。本当に不思議なんだ。

 今日なんかはさっきも言ったように、ありえないことが実際に起こって命拾いをしたんだ。

 今日の俺は八幡さんに感謝しかないんだ。」

 ヒンジはそう言って目を閉じた。そして八幡神に頼んでみた。

 妻にこのことを信じてもらうにはどうしたらよいのかと。

 しかしというか、やっぱりというか八幡神からの答えはなかった。


 ただ妻は八幡神の存在には半信半疑でも、夫が無事に仕事から戻ってきてくれたことにありがたいとの思いは素直に持っていた。

 ヒンジも妻もこれ以上突っ込んだ話はひとまず片隅に置いておこうと思った。

 そう。

 今日の夕餉は二人にとって豪華だったのだから。

 それを充分堪能したかった。

 二人にとってにこやかな夫婦の時間が過ぎた。


 年の瀬も迫ったある日のこと。ヒンジは注文がたまっていた鍛冶の仕事をするため作業場で火起こしの準備をしていた。

 鍛冶を生業とする作業場には、鍛冶を司るといわれている「天目一箇神あめのまひとつのかみ」という神が祀られていることが多い。ヒンジの作業場にもこの神が祀られていた。

 作業に入る前にこの神に対して作業の安全を祈願し感謝の気持ちを伝える。この儀式もヒンジの家系に伝わるものであった。

 ヒンジは八幡神の声が聞こえてくるようになってから、神棚にお参りする際の心持に変化が起こっていた。

 神の存在を近くに感じられるようになったからだろうか、これまでのような通り一遍のお参りではいけないと思うようになった。

 そこには敬いと礼を建てることが大切と心底感じていたからである。


「天目一箇神に申し上げます。これより炉に火入れをし、鍛冶の作業にはいります。ここにご本尊のご縁をいただいていることに感謝いたします。作業の安全を祈願いたします。」


 以前は安全祈願をさきに述べていたが、ここ最近は感謝を先に述べるようになっていた。

 些細なことのようだが、これもヒンジの心持の変化から自然と順番が入れ替わっていたのである。


 ヒンジが鍛冶を行う作業場には「クマサシノ鉈」と「クマウチノ斧」と銘打った鉈と斧が飾られていた。

 ヒンジの今は亡き祖父が鍛えた業物である。

 そしてヒンジの祖父が実際にこの鉈と斧を使い熊と戦って勝利したと伝え聞いていた。

 ただ祖父は武勇伝であろうその戦いぶりについて、多くは語らなかったという。

 さらにヒンジの家の敷地内の片隅には、ヒンジの祖父が建てたという熊の慰霊碑があった。

 ヒンジは祖父のその思いが一体どこから来たのか知りたくなった。しかし既に祖父は亡くなっている。もう聞くことは叶わない。


 振り下ろした槌が赤く焼けた玉鋼を叩く。

 カン カン カン

 赤い火花が飛び散る。

 玉鋼が長四角の形になる。次にそれを二つに折りたたみさらに叩く。

 色合いが少し黒ずんできた。玉鋼を炉に差し込みまた加熱する。

 炉の温度を上げるためたたらを踏んだ。炉の中の温度が一気に上がり、ヒンジの顔も朱色に染まる。

 しばらくはこの作業の繰り返しが続く。

 年の瀬で外気は相当冷えているが、珠の汗がしたたり落ちる。

 やがて一本の鉈が打ちあがった。ヒンジは塩をなめながら一息ついた。


「ヒンジよ。七支しちしの剣を作れるか。」


 八幡神の声が聞こえてきた。

「そのような代物は作ったことがありません。」


「あるかないかではなく、作れるかと聞いている。」


 ヒンジは考え込んだ。

 七支の剣の形状は何かの本で見たことがあった。

 更にしばらく考え込んだ。そこで肉厚を調整すれば何とかなるかとの思いに至った。

「挑戦してみます。」

 自信はなかったが、鍛冶職人としての自負があった。何とかしたかった。しかし何に使うのか分からない。

「この剣をどのようなことに使うのでしょうか。」

 答えはなかった。


「両刃の剣も必要である。これと七支の剣の二振りを作られたい。」


 突然の話で、しかも超難問であったがヒンジは前向きに対応したかった。自分の技がここで生かせると思えた。

 いろいろ考えているうちに早く作りたいとの衝動にかられた。


 ヒンジは母屋に戻り風呂に入った。

 あがりに水をかぶり、身を清めた。

 白衣を纏ったヒンジは妻に、戻るまで幾日か掛かるかも知れないが心配無用と伝え作業場に向かった。

 ヒンジの形相は険しかった。


 作業場に着くとまず神棚に向かった。

「天目一箇神に申し上げます。

 これより八幡神に仰せつかった両刃と七支の剣の制作に取り掛かります。

 この役割を頂けましたは、ここにご本尊のご縁をいただいているからこそであり、我が誉れと存じます。」


 神棚に酒をお供えし、作業場内に向けて塩を三度振った。そして神棚に振り向き直って一礼をした。

 儀式を終えたヒンジは作業を開始した。


 先ずは両刃の剣から取り掛かった。

 この剣は不動明王の像が手にしている形の剣である。

 その意は陰と陽を切り分けるとする。

 八幡神が教示した2種をその主旨とし剣としての役を果たす。

 しかしヒンジはこの主旨をまだ知らない。ただその形だけをイメージして作業した。


「何故左右に刃があるか分かるか。」


 八幡神の声が聞こえてきた。ヒンジはハッと思った。

「これは2種、整えるための剣ということでしょうか。」

 このことについて考えていなかった自分を恥じた。


「両刃とは2種の意を持つ剣である。

 2種とは陰と陽、表裏、黒白、明暗などの意もある。

 またそれらを整えることもある。

 左は価値を右は徳を意とする。」


 ただ形を作ればよいというものではなかった。

 ヒンジは鍛冶の見習いとなったとき、祖父からよくこんな言葉を言われていたことを思い出した。

「ヒンジ。鍛冶とは丹精を込めることが第一なんだよ。」

 ヒンジはこれまでこの言葉の意味をさほど重く受け止めてはいなかった。

 単純にただひたすら一生懸命に槌を振ることだとくらいにしか考えていなかったのだ。

 しかし八幡神の教えを聞き、それだけでは足りないと思えてきた。

 その業物の成すべき役についてよくよく心得、その役が果たせる代物となるよう思いを込めることが肝心なのだと思えたのである。

 ようやく祖父の言葉の本意を汲むことが出来たと思えた。これまでの自分の思いについて、祖父に捉え方が至らなかったことを素直に詫びたいと思った。

 ヒンジの槌を振る手の動きが、今までとは何となく違ったように見えた。


 このヒンジの一連の思いなどを見守っていた八幡神は、さて何を思ったか。


 作業は一気に進んだ。

 両刃の剣が仕上がった。

 直刃の波紋が美しい。

 ヒンジは神棚に向かって完成の報告をした。塩を舐め白湯を口にする。

 明日は七枝の剣にとりかかる。その準備を始めながら八幡神に問いかけた。

「八幡さん。7種の意をお尋ねします。」

 ヒンジはまだ3種までしか教示されていない。でも七支の剣を制作するに当たり、4と5と6を飛び越して7種を尋ねた。

 どうしても7種の意を知りたかった。

 両刃の剣では2種に思いが至らなかった。

 だから知らなくてはいけないと思ったのだ。


「7種は、生かすことを主旨とする。天照の神が主動する。」


 八幡神が答えた。


「天照の神の発する陽の光があればこそ木や草、多くの生き物たちが育まれる。

 この光のことを『聖七光』という。

 ただしこの光に焼かれるものもいる。

 7種には陰として2種が作用する。

 いや、7種だけではない。

 強弱の差こそあれ全ての数種に2種は作用する。」


 七支の剣には2種の要素が含まれることに驚いた。

「では両刃の剣は必要なかったのではないでしょうか。」

 せっかく丹精込めて作り上げた両刃の剣だが、否定的な思いが沸き起こった。


「さもあらん。

 7種は生が基本である。

 1種である起の次の手段として2種の整えがあると心得よ。」


「私は先走り7種の意をお尋ねしました。この教示の成り立ちから察するに4種5種6種について先にお尋ねするべきだったと思います。」

 ヒンジは極めて素直であった。数種を順番に則って学びたいと真剣に思った。


「良い心がけである。その思いを大切にするがよい。」


 ヒンジは7種をしっかり理解するために4種5種6種の主旨を改めて尋ねた。


「4種は守りである。

 5種は育てることである。

 6種は縁である。

 全ては點により3種に至った事象に対して動く法である。」


 そして8種は増法、9種は王数、10種は正輪と聞いた。

 しかしヒンジにはまだその意を理解することが出来ない。さらなる学びの必要があった


 翌日の朝早くからヒンジは七枝の剣の制作に取り掛かった。

 先ずは直刀の形を打つ。

 次にたがいちがいに枝になる部分の肉盛りをする。圧着という技法だ。

 圧着した部分を打ち延ばす。徐々に七支の形が見えてきたその時だった。ヒンジは刃の長さについて考えていないことに気が付いた。

「八幡さん、刃の長さは如何程にしたらよいのでしょう。」


「長さについて思いが至ったことは良きことである。

 本来使用の目的によって数種を当てはめるものだが、この剣はそなたの一部となる長さとすればよい。」


 八幡神は長さの指定をしなかった。

 「そなたの一部」という言葉。

 ということは、これらの剣は自分が使うことになるのかとまた驚いた。

 祭儀などこれまでしたことは無かったし、神事の作法など何も知らなかった。

 しかし、とにかく作業を続けた。夢中で槌を振った。どのくらい時間が経ったかも分からない程に。

 既に夜は更けていた。

 どうにかこうにか七枝の剣の形が出来上がった。

 それを見計らったかのように妻が夕食を運んできた。昨日の夕食と同じく大きなおにぎりが二個と菜の味噌汁に漬物が添えられていた。

「俺がこうして仕事に打ち込めるのも、お前の支えがあってこそ、だな。」

 妻には感謝しかなかった。

 それにしても握り飯も味噌汁も美味かった。漬物は適度に塩分がきいていて、汗だくのヒンジにとって誠にありがたいものだった。

 今晩も作業場で寝る。

 明日は砥ぎの作業である。相当困難な作業だろうことは想像がついた。

 天目一箇神に作業が順調に進んだことに感謝し、簡易の寝床に着いた。

 ヒンジは大きな渦に吸い込まれるがごとくに直ぐに深い眠りに落ちた。

 どのくらい無意識の状態で寝ていたのか分からなかったが朝方だろう、夢を見たようだ。

 多分夢なのだろうが画像は余りにもリアルであった。


 一つ目の砥士とぎしが刀を砥いでいる。

 髭を蓄え長い髪を後ろに束ね、白い装束に袴を着け、たすきをかけている。

 手元には何種類もの砥石が並んでいる。平たいものもその幅が広かったり細かったり先に向けて細くなったりするものがある。丸いもの、三角のもの、楕円のもの、縦方向に円弧を描いているものもあった。

 一つ目の砥士は手際よくそれらの砥石を手早く持ち替え七枝の剣を砥いだ。

 ヒンジは寝ているのだろうが真剣にその動きを追った。


「なるほど、そうか、枝の分かれ目のところはそう砥ぐのか。」

 夢の中で相槌を打っていた。

 やがて砥ぎ終えると砥士は七枝の剣を両手で持ち体の正面に構えた。

 ヒンジの方へ体を向きなおすと剣を構えたままヒンジに向かって深々と一礼した。

 ヒンジは飛び起きた。

 何という事か。何故一つ目の砥士がこの自分にこんなに丁寧にお辞儀をするのか分からなかったが、とにかく恐縮した。


 天目一箇神はひとつ目であると聞いたことがあった。

 きっと神棚にお祀りしている本尊が夢枕に立って教示してくれたのだろうと思った。

「教えをいただきありがとうございます。砥石をしつらえ取り組みます。」

 ヒンジは深々と神棚に向かって頭を下げた。そしてこの一連の在り様を八幡神に報告した。


 それこそお陰様で七枝の剣の砥ぎはすこぶる順調だった。

 ついに七枝の剣が完成した。

 作業場の神棚の下に設けた台の上に両刃と七枝の剣を並べ、本尊に対し感謝の口上を述べた。続けて八幡神にも報告した。

「八幡さん、仰せつかった剣が二振りとも出来上がりました。」

 八幡神が答えた。


「よく成し遂げた。感謝する。」


 まさか八幡神から感謝の言葉が出るとは、想像もしていないことだった。

「そのようなお言葉をいただき恐れ多いことです。こちらこそ貴重な体験をさせていただき感謝いたします。」

 八幡神は続けて言った。


「その剣を使うに当たり、事前にして欲しいことがある。」


 ヒンジは身構えた。


「信州善光寺に参り、そこの本尊、紫光大尊阿弥陀如来とのご縁を繋いで欲しい。」


 善光寺のことは恐らく誰もが知っている。「牛にひかれて善光寺参り」とのことわざなのか格言なのか、この言葉もよく聞く。

 そしてそこのご本尊が阿弥陀如来であることも知っている。

 お釈迦様が説いた仏教で浄土へと導いてくださる慈悲の仏様として多くの信者を抱えていることは周知のとおりである。


「阿弥陀様ですか。」

 慈悲の如来様と、いささか物騒な剣がどうしてつながるのか分からなかった。八幡神の話は続いた。


「そうだ。

 最初に話した建て直しが為には弥陀聖尊のお力が必要である。

 そのお力は剣の力を最大限に引き出してくれるのだよ。」


 その因果関係は理解できなかったが、とにかく善光寺に行かなくてはいけないと思った。

 いや無性に行きたくなった。


 年が明けて間もなく正装したヒンジは大きな荷物ケースを携えて長野行の列車に乗っていた。

「相席、よろしいですか。」

 見るからに僧侶風の男性から声をかけられた。

「どうぞ。」

 相手をちらっと見やって返事をしたが、すぐさま車窓の外へと視線を向けた。

 列車に揺られながら眺める山間の景色がとても気に入っていた。

 やがて列車は横川駅に着いた。

 これから先は勾配がきつくなるため列車の前後にけん引のための機関車が連結される。駅での停車時間が少し長い。

 弁当売りの声が聞こえる。ヒンジは窓を開け弁当とお茶を注文した。

「これが有名な峠の釜めし弁当か。」

 すると相席した僧侶風の男性も同じ弁当を買った。

 連結の作業が終わった。

 横川を出るといくつも連なった長いトンネルが続く。列車の走りはとてもゆっくりだ。

 瞬間的に抜けるトンネルとトンネルの間の光がまばゆい。

 ゴトンゴトンとの音が心地よく響く。ヒンジは横川で買った弁当を食べながらこのひと時を楽しんだ。僧侶風の男性も弁当を開け始めた。

「長野へ行かれるのですか。」

 男性が声をかけてきた。

「はい。善光寺に参ります。」

 ヒンジは食べながらでは失礼になると思い、箸をおいて答えた。

「そうですか。それはありがたいことです。私はその善光寺の宿坊で住職をいたしております。」

「やはりそうでしたか。お見受けしたところ、どこかのお坊様かと思っておりました。」

 列車の中でこのようなご縁があろうとは、まさかの偶然もできすぎているような感じがした。

「ご先祖様のご供養ですか。」

 ヒンジは返答に困った。まさか八幡神のことを言っても、信じてもらえるとは思えなかったからである。

「まあ、そのようなもので。」

 答えを濁した。

「ここの景色は素晴らしいでしょ。私はこの景色が大好きでしてね。あなたもずっとさっきから外を眺めておいでだ。気に入られましたか。」

 住職が言った。

「はい。素晴らしいと感じました。私は初めてこの列車に乗ったのです。善光寺のお参りも初めてなのです。」

 住職は微笑みを浮かべた。

「そうですか。初めてなのですね。お参りは。お困りのことがあったらご相談ください。」

 こんな会話をしているうちに列車は軽井沢駅に到着した。

 この駅では列車をけん引していた機関車を切り離す作業が行われた。

 軽井沢を出た列車の速度は通常の走りとなった。

 もう長野はすぐそこである。


 ヒンジは初めて善光寺の本堂の前に立った。

 大きい。何とも言えない威厳を感じた。

 でもさてこれからどうしたらいいか分からない。

 縁をつないで来いと言われたがどうしたらつなげるのか見当もつかない。

 本堂の中に入って阿弥陀様にご縁をくださいと言えばそれでいいのか。そう悩んでいた時である。


「お参りの仕方でお悩みですか。」

 後ろから声が聞こえた。ちょっと聞き覚えのある声だった。

 その声の主は列車の中で同席したあの住職だった。

「あっ、先ほどは。」

 身なりはきちんとしているが初めてというし、大きな荷物ケースも持っているし、住職はヒンジのことが気になったという。ヒンジは住職に尋ねた。

「阿弥陀如来さまに自分の思いをお伝えしたいのですが、どのようにしたらよろしいのでしょうか。」

 まだ剣のことは言えなかった。

 住職は善光寺で毎朝行われているお朝事への参加や先祖供養の方法などについて話して聞かせた。

「今晩お泊りのところはお決めですか。」

「いえ、何も決めておりません。」

「これも如来様のお引き合わせのご縁でありましょう。よろしければ我が宿坊にお泊りになりませんか。当方でそれらのお手続きも承れます。」

 ヒンジは住職の後をついていった。

 三門をくぐり、仁王門もくぐった。振り向くと大きな阿吽の像が長野の街を凝視しているように見えた。

「立派な阿吽像ですね。」

「高村光雲とその弟子の米原雲海の作です。」

 その名前に聞き覚えはあった。住職からこの二人は近代木彫りの第一人者として名を馳せていると聞いた。


 ヒンジらは宿坊に着いた。

 古いが立派な建物であった。

 玄関を入ると左側に内仏殿が設けられており、釈迦如来がお祀りされていた。

 ヒンジはこの本尊に対し妙なご縁をいただいたことと今晩宿泊させてもらうことのお礼を丁寧に述べた。

 この一連の行動を見ていた住職は、ヒンジのことをただものではないように感じ始めた。

「お尋ねしてもよろしいでしょうか。」

 住職が切り出した。

「何でしょう。」

「あなたはその大きな荷物ケースをとても大事そうにしていらっしゃる。」

 ヒンジはちょっと戸惑ったが、この住職なら信じてくれるかもしれないと思った。

 ヒンジはケースのふたを開けて中を見せた。

 住職は信じられないというまなざしでヒンジを見つめた。

 このケースの中にはヒンジが作った両刃と七枝の剣が入っていたのだ。そしてこの二振りの剣を持参したわけを話し始めた。

 住職はそうそう信じ難い話の内容に真剣に耳を傾けた。

「拙僧でよろしければお力になりたい。」

 まさかの住職からの言葉に、ヒンジは話してよかったと思った。

 この後ヒンジと住職の間には親密な関係が築かれていく。


 翌早朝ヒンジは二振りの剣を持って本堂に向かった。

 ヒンジには宿坊の執事が同行していた。執事は参道を進みながら善光寺の縁起などを説明した。

 これまでに何度も火事に見舞われたとの話には驚いた。

 執事に促され本堂内に入ると既に法要(お朝事)が始まっていた。ヒンジが泊まった宿坊の住職もその中にいた。

 住職たちはお上人を中心にして、本堂の中央ではなく左側に座していた。

 阿弥陀如来は中央ではなく左側に祀られているからだという。


 ヒンジは目を閉じて読経に耳を傾けていた。

 洗練された低い声が本堂内に響き渡る。何とも心地よい響きだ。

 やがてお上人が立ち上がり向き直って御十念を唱え始めた。周りにいた参拝者もそれにならって御十念を唱える。

 この一体感は阿弥陀如来のもとへといざなっているようにも感じた。

 法要が終了しお上人と住職が退場した。落ち着く時間を過ごしたと思えた。

 すると執事から瑠璃壇るりだんの中に入るよう誘導された。

 ヒンジは二振りの剣の入ったケースを自らの前に置いた。

 執事はこれからヒンジが申し込みをした法要が始まると伝えた。

 ここで行われる法要とは如何なるものかよく分からないでいたが、心を落ち着けようと目を閉じた。

 ゴーン!

 大きなおりんが打たれた。

 かすかな畳が擦れる足音が聞こえてくる。住職たちが入場してきたようだ。

 薄目を開け様子を見た。

 お上人の姿が見えた。お上人はヒンジの前に坐した。何やら唱えているようだがよく聞き取れない。

 やがて住職たちが立ち上がると阿弥陀経の読経が始まった。

 蓮の花びらをかたどったお花と呼ばれる五色の紙片が宙を舞った。

 その様はとても美しく花吹雪の中にいるような気持になった。

 見たこともないので不確かなことであるが浄土とはこのような感じなのかとも思った。

 お上人が御十念を唱え始めた。住職はそれに続けて御十念を唱える。

 ヒンジも再び目を閉じて住職と共に御十念を唱え始めたその時である。

 ヒンジはまばゆい光を見た。

 その光の中にそれこそ写真などで見たことのある阿弥陀像の姿が見えたのである。

 そして何と、その阿弥陀像は先ほど宙を舞ったお花と思しきものをヒンジに手渡したのだ。


「このお花がそなたの力と成ろう。」


 声が聞こえた。

 ヒンジは両の手でそのお花を受け取り、深々と頭を下げお礼を申し上げた。

 身が震えている。

 八幡神から仰せつかったご縁がこれなのかと思った。震えはなかなか止まらなかった。


 法要が終了し本堂を後にしたヒンジはまだ夢を見ているような心持でいた。まだ手が震えていることがわかる。

 ヒンジは言葉を発することが出来なかった。宿坊に戻るまで執事の後をついていったが終始無言のままであった。


 宿坊では既に朝食の用意ができていた。お膳を前にしたヒンジは自分の両の掌を見つめた。

「この掌の上に如来さまからお花を直接いただいたんだ。」

 勿論、現物のお花が掌の上にあるわけではない。しかし手渡された時の触感がまだ残っている。その時の緊張がまだ解けないでいた。

 すると住職がヒンジのところにやって来た。

「これをお持ち帰りください。」

 住職は穏やかな笑顔でそう言って、お花の束をヒンジに手渡した。

 先ほど本堂で体感したことを誰にも話していないのに住職がお花を持ってきた。何故なんだと心底不思議に思った。

「これが宙を舞ったとき不思議な感覚に陥りました。」

 ヒンジはやっとのことで口を開いた。

「そうですか。このお花を宙に舞わせることを散華と言います。」

 散華されたお花は浄土へと向かう船であって、御霊がこの船に乗ることで浄土へといざなわれるという。

 散華されている在り様をまるで浄土のようだと思えたことが何となく理解できた。


「でも、何故これを私に。」

 ヒンジは住職に問いかけた。

「私にも分からないのですが、どうしてもお花をお渡ししなくてはいけないように思えたのです。

 これがご縁というものなのでしょうか。」

 ヒンジは恐縮した。そして本堂での出来事を住職に話した。

「そうでしたか。

 納得しました。お役に立てて何よりです。」

 住職は満足そうに笑みを浮かべた。

 ヒンジはこの度の住職とのご縁がなければ如来さまとのご縁を結べなかったと承知している。

 丁重に住職にお礼を述べた。

 そして今後もご縁をつないでいきたいとの思いを伝えた。

 内仏殿の本尊にも感謝の意を申し上げた。

 そして八幡神に今回の成りゆきを報告した。返事はなかったが、八幡神がほほ笑んでいるように感じた。

 ヒンジは後ろ髪を引かれる思いで善光寺を後にした。


「今戻ったよ。」

 帰宅したヒンジは妻に声をかけた。

「おかえりなさい。お疲れさまでした。」

 妻は善光寺での話を尋ねるでもなく慰労の言葉だけをかけてきた。

 事がうまく運ばなかった場合もあるだろうし、聞いてはいけないのかとの思いがあったからである。それを察したヒンジは、旅の疲れを癒す間も取らず列車で偶然住職と出会ったことや善光寺本堂での出来事を話した。そして住職から頂いたお花を見せた。

 妻はもうヒンジを疑うことはしなかった。むしろ次回善光寺に行くことがあれば自分も同行したいと思ったほどであった。

「あなたはいい仕事をなさいました。住職様とのご縁は八幡さんのお導きなんでしょうね。大事になさらないとね。」

 妻の思いがけない言葉にヒンジはびっくりした。

 自分のことを信じだしてくれていることが嬉しかった。これまでの出来事をできる限り話していて良かったと思った。体の力が抜けたように感じた。


 その夜ヒンジが床についたとき、八幡神の声が聞こえた。


「ヒンジよ。

 そなたはこれだけのことを成しても何一つ見返りを求めていない。

 この姿勢を『志孝義』といい、これこそが末法を正法に建て直す切り札となる。

 これからもこの姿勢を貫いて欲しい。」


「とんでもないことです。私は八幡さんに命を助けていただいたし、今回は素晴らしいご縁をいただきました。

 何よりのご褒美と思います。

 感謝いたします。」

 素直な気持ちだった。

 そもそも八幡神とのやり取りに損得を考えていたら、ここまでできないと思えた。

 剣を作ってもそれを売る訳ではない。だから収入にはつながらない。

 でもこれは自分に与えられたいわゆるミッションで、当たり前のことだと思っている。

 妻もこのことを一言も口にしたことがない。

 なにしろヒンジは三輝の中の一つの輝といわれ、そこに自分の役割ができたことに最大の喜びを感じているのである。

 以前八幡神に言われた「八幡戦士」に成れる自信のようなものが沸いてきた。


「ヒンジよ。最初にそなたに治めてもらいたい所がある。」


 八幡神はいよいよヒンジを戦いの場へと向かわせる。

 ヒンジはこれまでの成り行きを思い、八幡神を信じていれば、その役を果たせるのではないかと思えた。

「何方へ行けばよろしいのでしょう。」


「九州は大分にある我が本宮の宇佐八幡宮である。」




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