第三話 魔物

「一人で山へ入ってはいけないよ!」

 この村には昔からの言い伝えで、山には人間を喰らう魔物が住んでいるという。

 母親はまだ10歳にもならないだろう幼子に厳しく言って聞かせた。

「分かってるよ。遊びに行って来る」

 幼子はいつも遊んでいる草原へと一人で向かった。

 そのあたりは民家がまばらで幼子はこの子一人しかいない。

 時代は文明開化が叫ばれだしたばかりの頃である。

 したがってこの区域にはまだ学校と呼べるような代物などない。たとえあったとしてもこの頃は裕福な家庭の子供しか通うことができないのである。

 だから同年代の遊び相手はだれもいない。

 しかしその草原には幼子にとってのいろいろな遊び相手がいた。

「やぁ、元気かい?」

 先ずは野生の草花に飛び交っていた蝶に話しかけた。

 蝶は友達のように幼子の周りで羽ばたいているように見える。まるで幼子が来るのを待っていたかのようだ。

 しばらく蝶と戯れたあと、幼子は草原の中を流れる小川の縁でいつもそこにいるカエルに声をかけた。

「珍しいね。今日は一人かい? おとなしいみたいだけど、何かあったの?」

 カエルは「グワッ!」と一声鳴いただけで小川の中に姿を消してしまった。

 その様子が気になった幼子は、小川の中を覗き見てみたが何の異常も見つけられなかった。

 と、その時、小川沿いに生えている背の低い草がかさかさと動いた。

「蛇! そうか。相棒が食われちゃったのか…」

 この辺りにはヤマカガシやアオダイショウなどが結構住み着いている。カエルはその格好の餌なのである。

「お前も食われないように気をつけろよ!」

 幼子はカエルに聞こえるように大きな声でそう言った。

「グワッ!」

 幼子にはカエルが返事をしたように思えた。

 何となく心が沈んだが、これが自然の摂理であることも知っていた。だから蛇を責める気にはなれなかった。


「俺だって魚を食うし、鳥やウサギも食う。蛇と何ら変わらん」


 幼子はそう自分に言い聞かせ、元気を取り戻した。

 草原にはまだ遊び相手は沢山いたのだが、幼子は少し進んだ先にある樹木の生い茂った大きな林に向かった。

 この林は正に生き物たちの巣窟だった。目には見えない土の中や、高木のかなり上の方にまで巣が作られている。

 ヒトの気配がめったにないこの周辺では生き物たちはヒトにあまり警戒感を持たないのか、時々やって来る幼子が林の中に立ち入っても動物たちはいつものままであった。

 幼子を遠巻きに様子をうかがっているものもいたりはするが、サルなどはむしろ幼子に近づいてきたりもする。

 その中の一匹の子ザルは特に幼子になついていた。幼子が林に入ってくることを察知するとすぐさま幼子のそばにまで近づいてくるのだ。そしてもうまるで友達の仕草である。

「また来たよ。一緒に遊ぼう」

 そう言って幼子はその子ザルを抱き上げた。

 親ザルといえば、ただその様子を見守っているだけで、警戒心などまったく持っていない。

 何故これほどまでに幼子に慣れたのだろう。

 答えは極めて単純だった。

 幼子が動物たちにまったく警戒心を持っていなかったからだ。

 純粋に共にここに生きるものとしての認識しかないのである。

 サルも肉を食うことがある。か弱い幼子がその対象となっても不思議ではなかった。

 しかしそうならなかった。

 それは幼子がサルに仲間として認知されたからなのだ。

 不思議だが野生動物の中でもまれにこのようなことは起こりうる。


 幼子と子ザルは追いかけっこをしたり親ザルのところで甘えてみたり、蛇に飲み込まれたカエルのことも忘れ、しばし楽しい時間を過ごした。

 日も高くなって空腹を感じ始めた頃、ほかのサルたちが突如騒ぎ始めた。

「ギャー ギャー! ギャー ギャー!」仲間内に危険が差し迫っていることを知らせる鳴き声である。

 あたりを見渡すと黒く大きな影が近づいてくるのが見えた。

「ツキノワグマかも知れない!?」

 そう思った幼子は、子ザルを抱え近くにあった大きな木に登って様子を見ようとした。

 親ザルも同じ木に登ってきたが、さらに上へと登って行った。 


 熊とサルは、ほぼ生活圏が一致している。

 食材として木の芽や果実、昆虫などを捕食する。その点もほぼ同じ。

 そして摂取量はさほど多くはないものの双方とも肉食する。その点も一致する。

 そもそも熊の祖先は肉食獣である。

 それが雑食へと進化した。

 しかし本来の本能が目覚めるからだろうか、稀に熊は自分より大型のニホンカモシカなどを捕食することがある。


 普段であればサルが熊に警戒感を示すことはない。

 しかし今回は違った。

 熊の殺気を感じ取ったサルが危機感を抱きいわゆる警報を発したのだ。

 熊の動きは明らかに獲物を狙っていた。熊は幼子が登った木の下まで来ると立ち止まり見上げた。

 幼子は子ザルを抱き込むように身をかがめた。

 熊は木に手をかけた。

 胸に大きな三日月が見える。

 「ツキノワグマだ!」

 しかも何故だか片目がつぶれているではないか。手負いの熊だった。

 熊はするどい爪を立てて木をよじ登り始めた。

 幼子は身構えた。

 木登りが得意な熊はあっという間に幼子のすぐ下までやってきた。

 恐怖のあまり子ザルを抱きかかえていた幼子の手の力が一瞬、抜けた。

 その時だった。

 子ザルが幼子の手を振り払って熊の顔めがけて飛び掛かった。

 子ザルは熊の一撃を食らって地面にたたきつけられてしまった。

 子ザルの身動きがない。

 その様子を見た熊は木を下り始めた。獲物をしとめた熊は子ザルをくわえ林の奥へと姿を消した。

 幼子はしばらくそこから動けなかった。小便を漏らしていた。


 悔しい。悲しい。

 その思いが幼子の全身を貫いていた。

 やがてその思いは大きな怒りへと変わっていくのを感じた。


「許せない。熊を絶対に許さない。俺の大事な友達をいとも簡単に殺した。今頃食っているに違いない。いつか必ずかたきをとってやる」

 幼子は木の上で大泣きをした。

 親ザルは幼子のそばを通り抜け林の中に戻って行った。


 幼子は家への帰り道、子ザルと蛇に食われたカエルに思いを馳せていた。

 カエルが蛇に食われたことを知った時は、自分の心に諦める思いを言い聞かせることができた。しかし子ザルの件に関してはどうしても自分を慰めることができない。

 何故、手の力を抜いたのか。何故、自分が熊に飛び掛からなかったのか、思い悩んだ。

 そしてカエルに対する思いと子ザルに対する思いが違っていることにも悩んだ。二人とも同じ友達のはずなのにと。

 敵をとるといってもそのとり方も分からない。

 熊を前に縮み上がって小便まで漏らしてしまった今の自分にそんな力などあるはずがない。

 考えは全くまとまらなかった。心の整理もつかなかった。


 やがて小川までたどり着いたが、そこにカエルの姿はなかった。

 また虚しさが突き上げてきて、嗚咽おえつした。

 幼子は今日の出来事を母親に話すことはなかった。そして草原に遊びに行くこともしなくなった。


 それから十年程が過ぎた。

 幼子は立派な若者にと成長していた。

 身の丈は鴨居に頭がぶつかるほどとなっていた。胸板は厚く筋肉が盛り上がっている。まるで格闘家のような容姿であった。

 いかにしてそのように鍛え上げたのか。それは家の力仕事の一切を引き受けたことから始まる。

 家業である材木の切り出しや薪割は進んで行った。

 薪を割るときのおのは片手で振っていた。それも左右交互に。

 また杉の下枝を打ち落とす枝打作業では、素手のままするすると登っていきなたで切り落とす。それが終わると下まで降りず、木から木に飛び移って次の杉の枝落としをする。まるでサルが如きの動きであった。 

 体を鍛え上げさらに強くなるためには勿論それだけでは足りないと感じていた。

 そのため斧や鉈は自分に合ったものでなければとの思いに至り自分で作ろうと決心した。

 このため鍛冶の修行に出た。

 そして五年が過ぎた。

 その修行の結果として、鍛冶は丹精を込めることが第一と悟った。

 加熱した鋼の色、槌でたたく位置と向きと強さと、一瞬でそれらを感じ取らなければならない。

 いやそれを感じ取ることができても正確に槌を振ることができなければ何の意味もない。

 神経を集中する。

 一打一打に心を込める。

 そして鍛冶の仕上げは焼き入れである。これに失敗すればこれまでの作業がすべて水の泡となる。

 したがって鍛冶の中で最も緊張する作業である。

 鍛えた鋼を柿の熟した色にまで加熱する。そして一気に水桶の中に投入する。ジュー!という激しい音とともにもうもうと湯気が立ち上る。

 蒸し暑いという熱気が一気に高まる。

 鍛冶の作業が終われば、次は砥ぎである。

 鍛冶と砥ぎは本来別の職人が行うのであるが、それらの作業をこの若者はすべて一人でこなした。

 出来上がった斧や鉈を使ってみては、不具合を感じた点の修正を図り次の制作に生かす。何度も何度も作り直した。

 やがて手にしっくりとなじむ鉈が先に出来上がった。

 鉈の先には日本刀のような切っ先がついていた。勿論肉厚は日本刀の三倍はあろう。したがって刃渡りは一尺二寸程度だが、手にするとずっしりとした重みがある。

 次いで斧の制作に集中した。完成した斧は通常のものより刃渡りが少し短くなっていた。

 峰(斧の背の部分)の方は大きく突き出ていてまるでやや尖った槌のような形となっていた。

 ヒツ(斧の柄を差し込む穴)からの刃の部分よりこの峰の方がはるかに重くなっていた。

 この斧は振り下ろすのにはまことにバランスの悪い形だ。故に斧でこのような形をしたものは他に類を見ない。

 しかし木こりのように斧を使い慣れたものであってもそうたやすく振れないであろうこの斧を、若者はたいそう気に入った。

 この若者は何のためにこのように体を鍛え、斧や鉈まで自作したのか。

 当然、子ザルの敵を討つためである。

 片目の熊を探し出し必ず討つ。

 それこそが若者があの日の出来事以来、一日たりとも忘れることのなかった強い決意なのであった。


 雪解けが進み山菜類が芽吹きだしたある日のこと、幼子だったあの日の出来事を始めて母親に話した。そして自作の斧と鉈を持って熊を討ちに行くと伝えた。

 そのことをこれまで知らなかった母親は愕然とした。我が子の命の危険を感じた母親は懸命に思いとどまるよう説得した。

 しかしこれまでの修行はこのためだったことを打ち明けると、納得してくれたのか、それとも諦めたのか、母親は大きなおにぎりを作って若者に持たせ、送り出した。

「必ず帰っておいで!!」

 若者はそのおにぎりを腰にしっかりと括り付け、感謝の言葉を残し熊の住む林へと向かった。

 母親はちぎれんばかりに手を振っていた。


 草原には当時流れていた小川がそのままの形で流れていた。

 水はとても澄んでいて、川底がよく見える。

 若者は小川の水を手ですくい口に含んだ。雪解けの水だ。

「冷たい!」

 まだ春は浅い。だからだろうか、そこにカエルの姿はない。

 ふとカエルに話しかけた時のことが脳裏によみがえった。あらから十五年が経つ。あの時のカエルはもう生きているはずもないだろうと、その無常に少し悲しい思いがした。


 熊との戦い方を模索する若者の足取りは重かった。

 なかなかこれといった決め手が思いつかない。

 特に手負いの熊は気性が荒くなっている。一筋縄ではいかないことは百も承知だ。どのように戦うか、その策略を考えに考えた。

 若者は熊が襲ってきた時の情景を思い浮かべた。あの熊が子ザルを打ち払ったのは右腕だったことに気が付いた。


「奴の最初の一打は右腕だ」


 おそらく勝負は一瞬で決まる。

 熊と対峙して、相手が襲い掛かって来るその瞬間が勝敗を分ける。

 リスクは高いが最初の一撃は右腕であることにかけるしかない。

 問題は果たしてそれにどう立ち向かうか、である。

 斧と鉈を手に取ってみた。

 左手に斧、右手に鉈を持った。

 若者は右利きであったので、こう持つと鉈が主の武器となる。

 爪を立てて振り下ろしてくる熊の右腕を左手の斧で右から左へ払い、熊の胸が開いたところをすかさず右手の鉈で心臓を突き刺す。

 しかし僅かでも心臓を外せば熊はひるむどころか左腕で攻撃してくる。鋭い爪で顔から胸にかけて深く引っかくだろう。この動きが見えた。

「これでは俺の負けだ」

 別の動きを考えるしかない。

 斧と鉈の持つ手を入れ替えてみた。

 こうなると斧が主たる武器となる。

 斧は鉈より重い。これで熊の速い動きに勝る素早い動きが取れるのか不安がよぎった。

 熊の一撃に対し、後ろに下がるか、横に飛ぶか、それとも逆に半歩でも踏み込むか。いろいろな場面を想像して悩んだ。

 その結果として思い至ったのが、これだ。

 体を低くし半歩踏み込みながら、潜り込むように左へ飛ぶ。

 飛びながら右手の斧で熊の右足の膝を叩く。いや斧の刃の側で膝関節を切り裂く方がよい。

 熊がやや前こごみになったところを左手の鉈で首元を突く。首元は熊の急所の一つだ。

 熊は大きくあえぐだろう。それを見計らって斧の峰で熊の鼻先を一撃する。

 熊は口を開けたまま倒れるだろう。そこをすかさず口の奥の喉を目掛け鉈で突き刺す。

 とどめは鉈の柄尻を斧の峰で一撃する。

 というものだった。

 実際の動きを行ってみた。

 ぎこちない。

 もっと素早くかつ正確に動かなければとても勝ち目はないと思えた。

 意識しながらの動きではその分遅くなると感じた。

 したがってこの動きを何度も何度も反復して体に覚えこませた。

 やがて考えることなく体が動くようになった。

 薪割をするとき、左右それぞれ片手で斧を振り下ろししていたことが、今回の動きの正確性を実現したようだ。

 無駄な動きもほとんどなくなったように思える。

「これならいけるかもしれない」

 多少の自信が湧いてきた。

 あとはあの熊を見つけることだ。


 若者は林にたどり着いた。

 周りを見渡す。サルの気配を感じない。

 この十五年の間に住処すみかを変えたのだろうか。

 そんなことを思いながら、若者は林の奥へと足を踏み入れた。

 熊の糞や足跡を探す。

 そう簡単に見つけることはできない。熊の行動範囲は結構広い。

 ただ季節によって行動する場所がある程度決まっていることもある。

 今は春先である。熊はタラの芽など木の新芽や山菜を好んで食する。

 林の奥にやや開けたところがあって、そこに山菜が沢山生えていることを知っていた。

「あそこに行ってみよう」

 若者は歩を進めた。そこにたどり着くとやはり沢山の食べごろのワラビなどが生えていた。

「奴は必ずここに来るだろう」

 若者はそこで熊が来るのを待つことにした。

 日が大分傾いて辺りが薄暗くなってきた。

「今日はここら辺で一晩明かそう」

 休めそうなところを探した。すると大きく枝分かれした大木が目に入った。

「あの木に登って一晩過ごそう」

 寝場所は決まった。

 母親が作ってくれた大きなおにぎりをほおばった。沢山動いて腹も減っていた。おにぎりは言葉に言い表せない程美味しく感じた。

「これが最後の飯になるかも知れない」

 一寸弱気な思いがよぎった。すると、大きく手を振る母親の顔が浮かんだ。

 若者は大きく息を吐いた。

 そんな思いに惑わされてはいけないと弱気をすぐに打ち消した。

 朝飯とするため残したおにぎりを小枝に吊るし「必ず勝つ」と自分に言い聞かせ、深い眠りについた。


 林の朝は早い。

 日が登り始める前から動物たちは動き出している。小鳥のさえずりもいつも通りだ。

 もやが少し出ていたが柔い風が吹いていて気持ちのいい朝だ。

 腹ごしらえしようと昨日残したおにぎりを手にした。すっかり冷えていたが飯の匂いがした。

 口にしたとき昨日とは違う思いが浮かんだ。

 このおにぎりが今日の「活力になる」だった。

 若者は気合を入れた。

 戦いの動きを再確認した。

 調子はよさそうだ。むしろ昨日より動きがいいと感じた。続けて練習をしていると騒がしい鳴き声が聞こえる。

「ギャー ギャー! ギャー ギャー!」

 サルの鳴き声だ。しかもあの時と同じ鳴き方だ。

 そのことを感じ取った若者は鳴き声がする方へと急いだ。だんだん鳴き声が近くなってくる。

「もう直ぐそこだ」

 若者は獣道の真ん中で立ち止った。

 いつ熊が現れてもいいように右手に斧、左手に鉈を持って戦闘の構えをとった。

 若者は目を閉じ周囲の気配を探った。

 暫くすると何やら獣の臭いが鼻をついた。

「もしや!」

 黒い影が近づいてくる。

 若者の全身に緊張感が走る。

 姿が見えた。

 やっぱり熊だ。しかも片目がつぶれている。


「奴だ!」


 熊は獲物を狙う殺気で満ちていた。

 それにしても何故わざわざ若者がいる方へとやって来たのか。

 熊の臭覚は犬の何倍もあるという。もしかしたら若者が持っていたおにぎりの匂いを柔い風が熊のところへ届けたのかもしれない。それをかぎ分けたのかもしれない。そこに人間の気配を感じたのかもしれない。

 熊は若者めがけて突き進んだ。

 目が合った。

 すぐそばまでやって来ると熊が止まった。するとその場に立ち上がり両手を上げ唸り声を発して威嚇した。


 若者は熊の攻撃を待った。

「右腕を振り下ろしてくるはずだ。それを待つ」


 息を乱さず相手の動きを見定めている自分がいる。思った以上に冷静でいることを自覚した。

 熊は若者が引き下がらないと見るや、半歩前に足を踏み出しながら相当の勢いをつけて右腕を振り下ろしてきた。


「今だ!」


 若者は繰り返し練習した動きを瞬時に取ることができた。

 右手の斧が熊の右膝を切り開いた。

 感触は骨をも多少切ったものだった。

 次いで左手の鉈が熊の首元を突いた。

 次は大きくあえぐ熊の鼻を強打する手順であったが、熊の動きは想像と違った。

 四つん這いになり右腕の甲の側で若者を払いのけようとしたのだ。

 その腕先は若者の横っ腹をかすっただけだったが、若者は大きくふっ飛ばされてしまった。

 やはりただものではない。

 とてつもない力量を持っている。

 脇腹に痛みが走りひるんだが、すかさず立ち上がり戦闘の構えをとった。

 熊も傷ついている。膝から相当量の出血も見られる。

 しかし熊の殺気は衰えていない。むしろ闘争心がむき出しの状態である。

 これからは気合が勝負だと思った。

 互いにじわじわと距離を詰める。

 膝の傷はかなりの深手のようだ。したがって右足では踏み込めないと考えた。そうすれば左から攻めてくると予測がついた。


 動きが左右逆になる!!


 すかさず斧と鉈を持ち換えた。

 熊は再び立ち上がり大きく吠えた。

 若者は態勢を低くとった。

 熊は左腕を全身の力を込めて振り下ろしてくる。

 若者は踏み込みながら右前に飛んだ。

 今度は左手に持った斧が熊の左足の膝を切り裂いた。右手の鉈が熊の首元に突き刺さる。

 熊があえいだ。

 斧の峰が熊の鼻に命中する。

 熊はその場に倒れこんだ。

 鉈が熊の口の中を突き刺した。斧の峰が鉈の柄尻を強打した。

 熊は身動きがなくなった。


「勝った!」


 若者は力尽きたように、ゴロンと横になった。

 サルの鳴き声ももう聞こえない。新しい住処にでも戻ったのだろうか。

「あの子ザルがいた集団だったかもしれないが、俺のことなど忘れているだろうな」

 そう思うと若干の寂しさも感じた。

 空が見える。

 脇腹に痛みを覚えた。手を当てるとにわかに出血していた。

「痛みはあるが、こんな程度の傷で済んだ」

 また空を見上げてみた。真っ青だ。

 どうしたことか熊を仕留めて嬉しいはずがその喜びが沸いてこない。

 自分がけがをしたからか。

 いや、そうではない。

 熊を横目で見た。もう息絶えている。

 幼いころ母親からよく言われていた山の魔物のことを思い出した。

 山には熊が住んでいて、その熊が村人を襲うことがある。だから昔の村人は熊を魔物と言い換えていたのかもしれないと考えた。

 そうだとすればこれで山の魔物はいなくなったはずだと思ってみたが、どうもしっくりこない。

 何かが違うと思えた。

「魔物とは一体何なのだろう?

 この熊はあの子ザルと俺にとっての魔物だったのか。

 しかし今思ってみれば、熊にとって俺たちは単なる食糧としての対象だったんだ。俺たちのことが憎くて殺しに来たのではない。

 あの蛇に食われたカエルは、蛇のことを憎んでいただろうか。

 俺はそのことを知ったとき諦める気持ちを持った。だから蛇に復讐する気持ちにならなかった。

 しかし今の俺は子ザルを殺されて、その憎しみだけで熊を殺しに来た。

 同じ殺すにしても、何かが違う。

 それにしても自分が殺されれば、その自分を殺した相手は理屈がどうあれ自分にとっての魔物と思えるのではないか。相手の気晴らしのために自分の命を奪われるわけだから」

 若者はそうこう考えているうちに、魔物とは立場などによって様々であるのではないかと思えてきた。そしてこんな風に考えてみた。

 魔物は山にだけ住んでいるのではない。

 そもそもカエルは草原に住んでいた。食われたカエルにとっての魔物は蛇か。

 子ザルにとっての魔物は手負いの熊か。

 そうすると手負いの熊にとってはこの俺が魔物か。

 このように相手を殺したものはすべて魔物になるのか。

 もしそうなら蛇とか手負いの熊は魔物だ。

 でも何か違うような気がする。

 本当の魔物とは一体何なんだ。

 さっきの理屈では、俺は殺されてはいないから俺にとっての魔物はいないことになる。

 だけど常軌を逸した自分がそこにはいた。

 大事な友達の子ザルを殺されたという恨み、辛み、苦しみが生んだ復習するという自分がいた。この思い込みが本当の魔物なのかもしれないとの思いが沸いた。

 そうするとやはり自分がこの熊にとって正真正銘の魔物なのだと思えた。

 もうこの思いで熊を殺してしまった事実は変えようがないが、自分の魔物としての在り様を少しでも軽くできないかと考えた。そのためにはこの後自分がどのようにあったらよいのかを考えた。

「敵を討ったことを喜ぶのではなく、この熊を食料にすることだ。食うためなら自然の在り方だ。だからありがたく頂くことにすればいいのではないか。それがこの熊への供養になるかもしれない」との思いに至った。

 横たわっている熊のつぶれた目を見た。傷口から察するに、おそらく人間の手によるものだろうと思えた。そのために人間の匂いに敏感になっていたのかもしれない。自分の身を守るために人間の匂いがする「俺を倒しに来た」のかもしれないと思った。

 でもそれなら何故十五年前のあのとき「俺を襲わなかったのだろう?」との疑問が沸いた。

「あのときはまだ俺は幼かったし、サルたちとさんざん戯れていたのでサルの匂いが自分に移り鼻の利く熊であっても俺を人間として認めなかったのだろうか。だから俺を襲わなかったのか。それとも分かっていて見逃したのだろうか!?」

 そう考えると複雑な思いがした。

 息絶えた熊の横に並んで横たわる傷ついた若者は、この敵をとったという結果に満足する気持ちには到底なれなかった。

 しかし熊の思いを自分なりに考察するに至ったことで、いささか心が楽になったようにも感じていた。




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