第一話 浄土?それとも地獄?
これはやっと土器が発明され始めた頃の遠い昔の話。
とある山の奥深くに30人ほどが暮らす集落があった。
平地は僅かしかなかったが、山からのきれいな水が常に流れている沢があり、水の確保だけでなくたんぱく源である魚も豊富に捕ることができた。
そこに暮らす人々はすでに釣り針を作る技術を持っていた。
その集落には当時としては珍しい四十を超えた長命の
この長を信頼し慕う集落民の間には、これといったいざこざもなく平穏な暮らしが続いていた。
当時の生活様式は狩猟がメインであったため、同一場所に長く暮らすことは
しかしこの集落では魚がよく取れ、その魚を保存食とする技術もあったことから住居を移動させることはなくその場に定住していた。
当時としてはこのような暮らし方は珍しかった。
つまりこの集落は他の集落と比べ文化的な暮らしを営んでいたのだ。
ただ言葉についてはまだ片言でしかなく、「あー!」や「うー!」とかが多く、あとは身振り手振りなどで意思の疎通を図っていた。釣り針や干物の作り方もそんな中で伝授されていた。
さて、集落は規模の差こそあったがあちこちに存在していた。
その沢の下流にもやや大きめの別の集落があった。
この集落のあたりでは沢はそれなりの大きな川となっていて平地も広がっていた。しかし上流の集落とは相当距離が離れていたため民同士が出会うようなことはまずなかった。
そんなある日、この地域をこれまでに経験したことのない程の大きな嵐が襲った。
上流にある集落の民は恐れを感じ長の下に全員が集まった。
すると長は目を閉じ、周囲から聞こえてくる物音にじっと耳を傾けた。
沢を激しく流れる水の音。
そしてそこに転がる岩の音を聞いた。
やがて長は大きく空気を吸い込んだ。
土と枯葉と青草の混じった普段では嗅ぐ事の無い臭いが鼻を突いた。
長はこれらの状況に底知れぬ危機を感じた。
神は一体我らに何を怒っておられるのか。
地が揺れている!
まだ長はこれらの言葉をもっていなかったのだが、つまるところこのような感覚を覚え、恐怖心が全身を覆った。
一刻の猶予もないと判断した長は全員に高台に避難することを伝え、また沢に近づくことを禁じた。
大人は共同して赤子を抱え幼子は手を引いて高台に急いだ。
ところが、退去に急ぐそんな中で一人の男が住居の方へ戻って行くではないか。
長は大声で一緒に避難するよう促したがその男は言うことを聞かなかった。
その男にとってなによりも大事な釣り針を取りに戻ってしまったのだ。
さらに長が大声で叫んだその時、恐れていたことが起こってしまった。
土砂を大量に含んだ泥流が沢伝いに激しい勢いで流れ下ってきたのだ。
あっという間だった。
住居もろともその男は泥流に押し流されてしまった。
長は焦心し、その場にしばし立ちすくんでしまったが、気を取り戻し高台へと急いだ。
高台に避難した一行は洞穴に身を寄せ嵐の過ぎ去るのを待った。
取り急ぎの避難であったため食料などはない。
火もない。
やがて寒い夜がやってきた。
嵐はまだまだ止む気配がない。
長は幼子らを真ん中にして全員が身を寄せ合うように指示した。
一行は長い時間、恐怖の中で震えながら朝が来るのを待つしかなかった。
しかし時はいつもよりゆっくり流れているように感じる。
長は寝てしまいそうなものを見つけては肩を揺さぶるなどして眠らないように促した。
寒さの中で暖もなく寝てしまうと凍死してしまうことを経験則として知っていたのだ。
長い長い時が過ぎ、やっと朝がきた。
嵐は過ぎ去り太陽の日差しがさんさんと降り注いでいた。小鳥のさえずる声が聞こえる。
助かった!
長は胸をなでおろした。
そして全員を引き連れ集落の有った場所に戻った。
住居は跡形もなかったが、長は皆を励まし住居の再建にとりかかるとともに、泥流に流されてしまった男の探索を試みた。
再建の作業をしながらのため集落からの遠出はできなかったが、それなりに下流まで足を運んだ。
しかしその努力が報われることはなかった。
住居再建は流木が大量にあったことから思った以上に順調に進んだ。動物の死骸も散見され当面の食料となった。
集落民に笑顔が戻ってきた。
沢の下流の集落でも被害はそれなりに出ていたが、上流の集落ほどではなかった。
嵐が過ぎ去って数日後、下流の集落の男衆は獲物を探しに川を上流に向かって進んだ。
しばらく進んだその時、一人の男が大声を出し急に走り出した。
泥流が流れ着いた土砂から突き出した人の腕を発見したのだ。
その突き出した腕は手をしっかりと握りしめていた。
走り寄った男衆は顔を見合わせた。
男衆はこの腕が上流から流されてきたことをすぐに理解した。
男衆の一人が握りしめられた手をこじ開けると、その手の中には幾つかの曲がりくねった針があった。
縫い針のことは知っていたが釣り針をまだ持たないこの男衆はそれが何なのか、どのようにして使うものなのか、この時点では理解できなかった。
しかししっかり握り絞められていたことから、その針は何らかの価値のある道具だろうことは想像できた。
狩りを終えた男衆は集落に戻った。
激しい嵐の後であったため死んだイノシシなどの収穫が多かった。
集落民は大喜びで男衆を迎えた。
その日、集落民全員が腹いっぱい肉を食べた。
翌日、釣り針を手にした男がその集落の長のところにやってきて、これは何かと尋ねた。
長も首をひねってしばらく考えた。
針先を下にして手に持つとイメージが広がった。
その時何かをひっかけるものだろうことに気が付いた。
長は更に考えた。
すると脳裏に魚の姿が浮かんだ。
魚は虫を食う。この虫を針先に着けて川に垂らせば魚はこの虫を食いに来る。すると魚はこの針に引っかかる。
イメージは完成した。
これは魚を釣るための道具と結論付けた。
この集落では、木の枝や竹などの先をとがらせ
長は早速試してみることにした。
そうこう試しているうちに魚がかかった。
釣れたのだ。
川の中に入らないでも魚が取れることに驚いた。
凄いものを手に入れたと長は感心した。するともっと釣り針が欲しくなった。しかし作り方が分からない。
どうしたらいい。
長は男衆に釣り針を手に入れた時のことを尋ねた。
そうか。川の上流にこの針を作れるものがいる。ならばそこに行ってこの技術を手に入れようと考えた。
この当時、片言の言葉しかない集落同士のコミュニケーションなどあるはずもない。知らないヒトを見れば敵と判断するのが常である。
したがって力ずくで手に入れる。これしかないのである。
長は男衆を集めて川の上流に向かった。男衆の手には銛が握りしめられていた。
日も暮れてきたが上流の集落までたどり着けなかった。
しかし一行は諦めようとしない。
どうしても釣り針の作り方を手に入れたかった。
野宿をして次の朝早くにはまた上流の集落を目指した。すでに川は細く足場は険しくなっていたが更に上へと分け入っていく。
しばらく進むとやや開けたところに出た。
するとそこにヒトの気配だ。
一行は息を殺し、身をかがめ、銛を構えて様子をうかがう。
そこには女と子供がいた。
一行は女と子供の動きを追った。
とうとう集落を発見した。
次は集落の様子をうかがう。
年よりがいて、男はそんなに多くない。あとは女と子供だ。
これなら勝てると踏んだ一行は一気に襲い掛かった。
不意を突かれた男たちは瞬く間に銛で突き殺された。
一行は長に銛を突きつける。
長は女たちを守ろうと身構えたが、太刀打ちできる状況ではなかった。
一行の中の一人の男が長に釣り針を見せた。
作り方を教えろと迫った。
長にその意が伝わると長は首を振った。
銛が長の喉元に迫る。
そして横を向けと。
その先には女子供に銛が向けられていた。女子供を人質に取ったのである。
この一行はそのような戦法をすでに持っていた。
長はなす術がなかった。
やむなく釣り針を実際に作って見せた。二度三度と繰り返し作った。
作り方の要領をつかんだ一行は、一行の長からの指示を受けた。
その指示は「殺せ!」だった。
男は子供も殺された。
一行は釣り針を作る道具と食料と若い女を連れて自分たちの集落に戻っていった。年老いた女だけが取り残された。
やがてこの集落は当然のごとく消滅する。
平穏な集落が、ある日それこそ唐突に急変を余儀なくされてしまった。
これは防御が至らない場合の典型である。
過去の長い間、あちこちに存在した人類の在り様なのである。
ただこの集落の長は極度の憎しみから大きな恨みをもった。このため長の私念は強力に残留する。
瞬く間に殺された男衆もしかり。
取り残された女衆は死期を迎えると恨みの塊のような私念を残すことになる。
そこに淀みが発生する。
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