川流清巳の場合(少量の血表現あり)

 赤く染まった刃の先からぽたりぽたりと雫が滴り、床に小さな水溜まりを作っている。

 手にしたナイフで空を切ると刃から飛んだ雫があちこちに飛び散った。

 軽く袖で拭いて、折りたたんでポケットへ。

 その男は下手な鼻歌まじりで踵を返す。

 あとに残ったのは赤い水溜まりに倒れ伏した物言わぬ女の骸だけ。

 ……そのはずだった。

 男はふと視線を感じて骸の方へ振り返る。

 骸の側には見知らぬ女が立っていた。少女と言ってもいいくらい幼い顔立ちをしている。

 女は悲しそうに瞳に膜を張って眉を下げ、物言わぬ女を見下ろしていた。

 真っ白なワンピースが血に汚れるのも構わず、そっと女の側に膝をつき、耳元で何事かを囁く。男にはその姿が教会や美術館で見るような絵画の一枚に見えた。

 目の錯覚か、ふわりと女の周囲に純白の羽毛が舞う。

 ふと真っ白な女が男を見た。立ち上がって、今にも泣きだしそうな顔で男を見上げている。


「今に、天罰が下ります。貴方は魔界スィスィア・サアーダに堕ちることでしょう」

「……は、」


 男は乾いた笑いを漏らす。

 魔界? そんなもの、あるわけがない。


「そんなもん、怖くもなんともないさ」

「なんてこと……」


 女の目が悲し気に伏せられる。

 男はくつくつと喉の奥で笑った。

 天罰だなんて。あるものならば下してみろ。俺を裁いてみろ。

 そう言わんばかりに男の笑いは止まることがなかった。


「主は貴方を見ておられます」


 悲しそうに呟く女の背から大きな白い翼が広がる。

 その姿を見てなお、男――川流かわながれ清巳きよみは笑い続けていた。

 清巳は薄ら笑いを浮かべて彼女を見返す。

 色白の肌に白い布のシンプルなワンピースは倒れた女の血どころか染みひとつない。背中には同じくらい真っ白な大きな翼がはためいており、風に色素の薄い髪がなびく。天使の輪っかなんてあからさまなものはついていなかったが、明らかにただの人間ではないことがわかる。

 装飾らしい装飾は左の二の腕に嵌まった蛇を模ったような金の腕輪くらいのもの。よく見れば下は裸足だ。しかも数センチほど地面から浮いている。

 そんな常軌を逸した存在を前にしても、清巳はいつもと変わらない薄ら笑いを浮かべて女に相対していた。

 くつくつと嗤いながら女に向かって首を傾げる。


「それで、アンタは誰だい? 俺はもう何年も前から、こうして気に食わない奴らを何人も何人もぶっ殺してきた。今更なにを言い出すんだか」


 大袈裟に肩をすくめて見せると、女は悲し気に伏せていた瞳をゆっくりと清巳に向ける。空を写し取ったかのような、鏡のような、なんとも言い難い色をした瞳に清巳は思わず口端を上げる。

 知れず、清巳の足は女に一歩、近付く。

 女は動じることなくひたと清巳を見上げている。


「わたくしはフィズィ。貴方の守護天使です」


 清巳はぱちりと目を瞬かせた。

 また一歩、女――フィズィに近付く。

 風が吹いてフィズィの肩までの髪が揺れる。それに清巳は手を伸ばし、ひと房すくい上げた。


「守護天使?」

「ええ。主の命により、貴方の魂を守護する者。それがわたくしです」

「魂、ねぇ」


 少しだけ強く髪を引くと、フィズィは小さく眉をひそめた。

 それを見て清巳はぞくりとした、言い表せないような背徳感に唇を歪める。


「それで? そのシュゴテンシサマとやらが今更忠告に来たって?」


 いいえ、とフィズィは首を振る。


「これは忠告ではありません、最後の警告です。貴方の所業は主が見ておられます」

「生憎とカミサマは信じてないんでね。それで……魔界、だったか。堕ちたらどうなる?」

「悪魔の餌となるでしょう。わたくしはそうならないよう、貴方に警告を……」


 フィズィの髪を指に巻き付けて、清巳はくすりと笑みをこぼした。


「堕とせるもんなら堕としてみればいい。罰が下るなら下してみればいい」


 はっとフィズィは口を噤む。目を見開いて唖然とした顔で清巳を見た。

 そしてまた清巳はくつくつと嗤う。

 にんまりと弧を描いた唇を愉快そうに歪め、目を細めてフィズィを見下ろす。


「カミサマなんてくそ食らえだ」


 はははと嗤う声が路地裏に小さく反響した。




 清巳は全国指名手配されて久しい連続殺人鬼である。

 手口はいつも鮮やかで、雑な現場だろうと証拠が一切残らず警察関係者の頭を悩ませる一端だ。監視カメラには映っているのに足取りが全く掴めないことから一部では『足のない奴スネイク』なんてあだ名で面白おかしく呼ばれている始末。

 その様子を見て清巳は喉の奥でくつくつと嗤うのだ。

 そんな清巳を見た天使は清巳の側で悲しそうに眉を下げる。

 今日も清巳は嗤っている。

 だがいつもと様子が違うのは、


「悪魔なんて言ったって、所詮はイキモノなんだなぁ」


 手の上で愛用のナイフを弄びながら、清巳はくくと嗤った。

 周囲には物言わぬ骸となった異形たち。

 黒く艶めくつるりとしたフォルムの悪魔と呼ぶのが相応しそうな形をしたもの、人のシルエットをしているが頭だけが異様な姿となっているもの、巨大な植物に似た形をしていて根や触手を動かしていたもの、二足歩行の獣のようなものなど、たくさんいた。

 だがそのほとんどがぬらぬらと光を飲み込む水溜まりに沈んでいてこと切れている。一部は小さく呻いて震えているが、それも時間の問題かもしれない。

 清巳は肩をすくめて背後のフィズィを肩越しに見やった。

 フィズィは目を見開いて、手を口に当てて絶句している。


「なんだったか……ああ、魔界に堕ちると悪魔の餌になる、だったか?」

「……」

「堕ちたが餌にはならなかったなぁ?」


 フィズィは言葉もない。ただただ目の前の惨状を唖然として見つめるばかりだ。

 天使は痛ましそうに目を細める。

 その様子を見て清巳はまた嗤う。暗い欲望に背筋がぞくりと震えるのだ。

 手を伸ばして天使の白い頬に指を滑らせる。指先に黒血が跳ねていたせいで陶器のような肌が赤く汚れたが、それがまた清巳のなけなしの背徳感を刺激する。


「なぁ、テンシサマ」


 呼べば透き通った二つの宝石が清巳を真っ直ぐに見上げる。そこに恐怖や嫌悪はない。

 この穢れを知らなそうな無垢な女はただただ真っ直ぐに清巳を見る。人を殺すな、人を傷付けるな、魔界に堕ちてしまうと言いながらも一度たりとも実力を持って清巳を阻んできたことはない。

 いつもこうして美しい瞳で清巳を見上げるだけだ。

 力がないのかと思えばそうでもないようで、言っていることとやっていることのちぐはぐさが清巳には面白くて堪らない。

 湖面のような双眸に嗤う清巳の姿が映っているのが見える。

 白磁の肌を汚す赤を指先で撫でると擦れて伸びた。天使の瞳に映る男がうっそりと喜悦の色を浮かべて嗤う。


「アンタが俺にテンバツとやらを与えてくれよ」


 親指で薄桃の下唇を撫でると女はわかりやすく肩を震わせた。

 それでもその瞳に恐怖はない。

 ただ、あるのは――、


「――わたくしが、貴方に?」


 驚きに見開かれた瞳。

 考えてもみなかったと天使は目を瞬かせる。

 無垢な瞳が清巳を見上げ、男の顔を映す。男は目を三日月のように細めた。


「ああ……」


 女の顎を軽く掴んで引き寄せる。抵抗はない。


「アンタになら裁かれてやってもいい」


 耳元に唇を近付けると天使はくすぐったそうに身をよじる。


「アンタは俺のシュゴテンシサマなんだからな」


 はっと振り返ったフィズィの青い瞳に映る清巳の目は蛇のような光を宿していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スィスィアの箱庭~異類戀奇譚~ 伊早 鮮枯 @azaco_KK

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ