五、稲葉山燃ゆ! 完結、美濃制覇

 永禄十年――夏、小牧山城の主郭しゆかくにて、信長が恒興の顔を見るなりこう言った。

「老けたなぁ、勝三郎」

「は?」

 恒興としては二歳上の男から言われたくはないが、恒興は三十二歳となっていた。

 おそらく長引く美濃侵攻に、己の歳と比較して揶揄やゆしたものだろうが、なにもこちらまで引き合いに出さなくてもと、恒興は半眼になった。

 

此度こたび浅井長政あさいながまささまとの同盟が無事になされ、祝着至極しゆうちやくしごくにございます」

「勝三郎……、お前のその顔、喜んでいる顔には見えんぞ?」

 喜んでいるのは本当なのだが、からかわれたことが顔に出ていたようだ。

 

 浅井氏は北近江きたおうみの主だが、近江国は美濃同様、東国の諸大名が上洛をするのに通る国でもあった。

 信長は妹・市を浅井長政に嫁がせて同盟を成立したが、近江には南に六角義賢ろつかくよはかたという男がいるという。

 思えば十歳で信長に仕えて二十年余り、ともに夢を追い続けてきた恒興は貫禄を増して男盛りとなった信長を見て、性格が変わらぬ彼にほっとしている。

 新しもの好きで、負けず嫌い、人を驚かせるのがなにより好きな彼は、これからどんなことをして驚かせてくれるのだろう。

 

「ふっ」

 思わず漏れた笑みに、信長がなんとも嫌そうな顔になった。

「気色悪いやつだな……」

「――ついに、稲葉山城攻めですか」

 恒興は、視線を空に運ぶ。

 晴れ渡る空に雲はなく、今年も蝉時雨が盛んだ。

 

 昨年――、河野島がわのとうの戦いで木曽川が氾濫はんらんし、織田軍は手痛い敗戦を喫した。

そんな信長が思いついたのが、美濃と国境を接する北伊勢侵攻である。

 北伊勢は南美濃と国境を接しており、北勢四十八家と呼ばれる豪族が割拠しているという。なかでも長島には、一向一揆いつこういつきが存在しているという。

 

 一向一揆は浄土真宗本願寺(一向宗)の信徒たちが起こした、権力に対する抵抗運動の組織らしい。

 そうした豪族や一向一揆がいつ信長に反旗を翻すとも限らず、お互い手を結ばれると、美濃攻略にも支障が生じるため、信長は美濃攻略を進める上ですぐにも北伊勢を制圧する必要があるという。

 

 二月――、信長は蟹江城にいた家臣・滝川一益たきかわかずますに、北伊勢侵攻の大将として長島を迂回して北伊勢を侵攻するようにと命じた。

 だがこの戦いは調略がうまくいき、北勢四十八家も従ったという。

 もし戦わずして相手が陥ちるならそれにこしたことはないが、美濃攻略が捗らないのは向こうに話し合いに応じる意思はなく、徹底抗戦の現れだろう。

 

 はたして亡き斎藤道三は、尾張と美濃の対立をあの世からどう見ているのだろうか。

 孫の背を押しているのか、それとも義理の息子となった信長の背を押しているのか。

 主君を倒すという下剋上をなし、美濃の主となった道三。しかし道三自身も、息子・義龍によって討たれ、彼の血筋は稲葉山城の孫・龍興と、織田軍家臣・斎藤利治だけとなった。美濃斎藤家にとって、存続の危機である。

 美濃の必死さが、ここまで織田軍の美濃侵攻を長引かせることになったのだろう。

 ただ、ある斎藤家の家臣が三人、織田側についた。


「……意外だな」

 信長は上段の間に立て膝で座し、やってきた三人を前に嘲笑った。

「信用できないのは最もでございます。ですが――、龍興さまに斎藤家を維持していくのはもはや無理にございます」

 信長の前にいたのは、美濃三人衆と呼ばれているというた稲葉良通、安藤守就、氏家直元の三人である。

 

「どこの家も、考えることは同じだな……」

 安藤守就とは面識がある信長は、彼の言葉に嘆息する。

「は?」

「気にするな。こちらのことだ」

 家臣が主君を見限る――、うつけと呼ばれ、織田弾正忠家後継者としては不適格と家臣に背を向けられたことがある信長にとって、龍興の気持ちがわかるのだろうか。

 


                  ◆◆◆


 斎藤龍興は、焦っていた。

 美濃三人衆、稲葉良通、安藤守就、氏家直元の三人が織田家に寝返ったのだ。

「殿! 城を包囲されましてございます……!」

 八月十五日――、稲葉山城の周囲に織田軍が鹿垣を作ったという。

 龍興にもはや、有力な家臣はいない。

 美濃三人衆に加え、軍師・竹中半兵衛も龍興を見限った。

 

 斎藤龍興は、政に無関心過ぎた。織田軍の執拗な侵攻にも何ら具体的な策は打たず、家臣頼みで、耳障りな意見を言う家臣は遠ざけた。

 家臣が背を向けるのは、もっともである。

 

「殿……、ご指示を!!」

 龍興には、織田軍を相手にどう戦えばいいのかわからなかった。

 以前みた、光景が脳裏に蘇る。

 燃えるように赤く染められた美濃の山々――、一瞬の幻と化した光景ではあったが、今思えばあれは予言だったのではないか。

 稲葉山城陥落――、という。

 

「……逃げるのだ……」

「殿……っ」

 龍興は、数人の家臣と供に騎馬で稲葉山城を脱出した。

 道三が築いた美濃国主・斎藤家は、ここに終止符を打つ。


                  ◆


「――終わったな……、勝三郎」

 落城させた稲葉山城の櫓にて、信長は感慨深げであった。

「この城が半月で落ちるとは予想外でした」

 稲葉山城を攻めるため出陣したのが一日、それから十五日に龍興の逃亡によって稲葉山城は陥落した。

 

「蝮の予言が当たったな……」

 亡き斎藤道三は、美濃を憂いていたという。

 我が子孫では、何れ美濃は他国のものとなる――と。

 義龍がいた頃はまだ良かったようだが、龍興が家督を継いでからがいけなかったらしい。

 彼に君主としての才があれば良かったが、離反していく国衆や家臣たちを止められなかったようだ。

 

「道三どのは、ほっとされておりましょう」

「自分の孫が、尻尾を巻いて逃げ出したのにか?」

 恒興は、斎藤道三と会ったことはない。

 しかし、信長という男の才を見抜いていたという。それゆえに、美濃を託すと決意したのだろう。

「もし美濃を制圧したのが信長さまではなく他国だったら、道三どのはあの世で憤慨しましょう」

 美濃を任せると遺言されたとはいえ、美濃を攻める形となった信長は、成し遂げた美濃制覇になにを想うのか。

 桶狭間の戦いから七年――、信長はついに美濃を平定した。

「勝三郎、俺が以前言ったことを覚えているか?」

「三つの夢……ですか?」

 信長の、三つの夢――。

 一つは尾張平定、二つ目は今川義元の打倒。

 だが恒興は、もう一つの夢ははっきり聞かされていない。天下でも取るかと信長はそのとき笑ったが。

 

「そうだ。これから長く続くもう一つの夢だ」

「まさか、天下を本気でお取りに?」

「だめか?」

「いまさら私に聞く間でもないでしょう……」

 恒興はもう、信長を制することはしなかった。

 ただ天下を制することは、敵も増える。

 甲斐の武田、相模の北条、越前の朝倉、越後の上杉――、彼らはこの信長の夢を阻んで来るだろう。



 稲葉山城落城より一年後――、信長は生まれ育った尾張を離れた。

 天下を目指すため、上洛に際し京にもっとも近い美濃・稲葉山城へ移ることを決断したのである。

「まさか、このような形で戻るとは思っていませんでした」

 そういったのは、信長の正室・帰蝶だった。

 それはこの男も、同じだったようだ。

 

「――ご無沙汰しております」

「お前も老けたな? 宗恩」

 まだ少年だった信長の教育係となったという臨済宗僧侶・沢彦宗恩に対して、信長は恒興にも言った言葉を放った。

 だがさすが御仏に仕える男で、にっこりと笑んで低頭した。

 

「それが行きているという証しにございます。人は訳があって生かされているのでございます。その訳を見つけるか否かで、運命も変わりまする」

「お前のその話、懐かしいな」

「信長さまは、その訳を見つけられました」

「まだわからんぞ?」

「して――、拙僧をお召しの訳は?」

 宗恩の問いに、信長はついに三つ目の夢を明かしたのである。

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