四、智将・米五郎左! 丹羽長秀
永禄八年、八月――、信長は清州城から
小牧山は濃尾平野北東部に位置し、さらに小牧山城は
この前年――、三河の主となっていた
元康は従属していた今川義元が討たれたことで、今川氏からの離反を決意したという。
それから、今川氏の支配下に置かれていた岡崎城を奪還したらしい。
これに今川義元の嫡男・
一方の信長も、美濃・斎藤氏と交戦中で、美濃の攻略を遂行するためには、背後となる三河からの侵攻を防ぎ、安全を確保する必要があったようだ。
だが織田氏と松平氏は、信長の父・織田信秀と元康の祖父・
三河との憂いをなくした信長だったが、美濃攻略はなかなか進まず、苦戦を強いられていた。
美濃攻略は亡き道三の想いを叶えたいという動機もあるが、上洛するとなった際は美濃を通るか迂回せねばならない。永禄二年の上洛のときは義龍を警戒して迂回したが、今後再び上洛となれば美濃をなんとかする必要が出てきたと信長はいう。
さらに信長の従兄弟にして犬山城主・織田信清が離反、美濃侵攻と合わせて合戦に持ち込むには清州城からは遠すぎるようだ。
そこで築城されたのが、小牧山城である。
「犬山城の信清さまの行方、知れぬと聞いております」
恒興の問いかけに、信長が口の端を緩めた。
「ほうっておけ。俺は逃げ出したものを探し出してまで討とうとは思わん」
織田信清が楽田城を奪取したとき、織田軍は楽田の西に位置する信清方の支城・小口城を攻撃したが落城できなかった。
だが小牧山に城を築いた信長軍の圧力で、信清はその小口城を放棄する羽目になったらしい。
さらにこの年の八月、犬山城の西にある黒田城などの調略に成功。これを以て織田軍が犬山領へ侵攻し、織田信清は犬山城を捨てて逃亡したという。
信長にとって、これで尾張に敵対するものはいなくなったが、身内と家臣に背を向けられ続けた信長の心境は計り知れない。
そんな二人の前に、
「長秀、
信長の賛辞に、長秀が頭を垂れる。
「ありがたき幸せにございます。殿」
丹羽長秀も恒興と動揺、古くから信長に仕える家臣である。
信長の一歳下で、信長いわく長秀は、友であり兄弟であるという。
この小牧山城を築城したのも、長秀である。
信長の半生で、少年時代から家臣や身内の裏切りは絶えなかった。
丹羽長秀は背を向けることなく信長に従い、桶狭間の戦いでも参戦している。
長秀の別名は
なんでも丹羽長秀という人物は、様々なことを器用にこなし、米のように身分に関係なく必要とされた存在だったためについた名だという。
猿啄城は美濃と尾張の境、木曽川の北に位置する城らしい。
信長の命を受けた長秀は、東美濃攻略を開始。丹羽長秀の先鋒であった
だが美濃ではこちらを警戒してか
「殿……」
恒興は信長を振り返ったが、その信長は不敵に笑んでいた。
「美濃は、なかなかしぶといな」
「そうでもございません」
長秀の言葉に、信長が胡乱に眉を寄せた。
「……というと?」
「佐藤忠能どのが、こちらに組するとのこと」
聞くところによると、加治田城主・佐藤忠能の調略も長秀がしていたようだ。
だが盟約に加わった関城主・長井道利と堂洞城主・岸信周は佐藤忠能が許せなかったようだ。彼らは加治田城を奪取しようと、出陣したきたという。
かくして、八月二十八日――、いわゆる堂洞合戦が始まった。
◆◆◆
堂洞城は濃尾平野の北、加治田城から目と鼻の先にある。
信長は、
「まずは、関城の軍勢を退かせる」
信長の作戦に、丹羽長秀が口を開く。
「それから兵を西と南、北に分けるのですな? 殿」
「ああ」
信長の作戦では、堂洞城を西と南より丹羽長秀・河尻秀隆・森可成、北の加治田より佐藤忠能軍が攻めるとい寸法である。
信長はさっそく動いた。
堂洞・関間を分断し、関城からの長井道利の援軍が
信長としてはこれ以上、美濃攻略に時をかけたくはなかった。
日の傾きかけた中、吉報が届いた。
それによれば、北の佐藤忠能が陣頭に立った攻撃軍が山道を攻め上がると、敵側の大将・岸信房が幾度の応戦の末に自刃。南からの攻撃軍は、
そしてついに河尻秀隆・森可成が天主構へ乗り入り、丹羽長秀も本丸に攻め込んだという。かくして、堂洞城は落城した。
しかし攻める側に立つと、国を護る者の思いがよくわかる。
かつての尾張は、今川の侵攻という脅威にさらされていた。
今川と和睦を考えるもの、織田を見限り今川と手を結ぶもの、戦っても勝てぬと弱気になる者、今川という強敵を前に家臣たちの士気は下がり、尾張は三河に続き今川の属国となる羽目になる。
信長は美濃を尾張の属国とする気はないが、斎藤家のしぶとさは国を護る側としては当然だろう。
堂洞城落城の夜、信長は加治田城の佐藤父子の屋敷に一泊したが、犬山へ帰る途中に思わぬことが起きた。
関の長井道利勢と、斎藤龍興軍が織田軍を攻撃してきたのである。
「
信長は、全軍に撤退を命じた。
織田軍は手勢が八百ばかりしかなく、合戦は無理であったのである。
「殿この際、関城を一挙に占領しませんと、後々まで美濃攻略のさまたげになるかと――」
信長にそう進言してきたのは、
斎藤利治は道三の末の息子で、斎藤龍興にとっては叔父にあたる男である。
そして正室・帰蝶とは同腹で、父・斎藤道三が長良川の戦いにて討ち死にした時、彼は美濃を脱出し、帰蝶の縁を頼って織田家にやってきた。
実は信長に道三の遺言状を届けて寄越したのが、この斎藤利治だった。
信長は利治の言葉を受け入れ、援軍を決意した。
九月――、関城の攻略が開始され、利治は加治田勢を率いて東から、信長からの援軍は南と西から攻撃した。
対して長井道利は関城の周りに築城した砦などより防いでいたようだが、頼みとする斎藤龍興援軍は間に合わななかったらしい。ここに、関城も陥落したのである。
◆
美濃・稲葉山城では、完全に余裕をなくした斎藤龍興が蒼白な顔で座っていた。
新加納の戦いでは竹中半兵衛の活躍もあって織田軍を破ったが、その半兵衛とその舅であり西美濃三人衆の一人人・安藤守就によって飛騨守を殺害され、居城の稲葉山城を占拠されてしまうと事件が起きた。
龍興は鵜飼山城、さらに祐向山城に逃走したあと、美濃の領主として復帰したものの、もはや亡き祖父・道三や父・義龍の時代のような力は斎藤家にはなく、東美濃では国衆である市橋氏、丸毛氏、高木氏などが織田家についた。
さらにこの年には、織田家に降った加治田城主・佐藤忠能により、堂洞城主の岸信周が討たれ、関城主であり国内の押さえとなっていた大叔父の長井道利も、織田家の武将となっていた叔父・斎藤利治に敗れ、中美濃までもも信長の勢力圏に入ってしまった。
――どうすればよい? どうすれば……。
龍興はこのとき、ようやく気づく。
もっと家臣たちを信頼し、耳を傾けていればこんなことにはならなかったと。
櫓に登った龍興は、外の後継に愕然とした。
周りの山々が、赤く染まっているのである。
秋の紅葉でもなければ、夕日によるものでもない。
「こ、これは……」
しかしそれは一瞬のことで、見慣れた景色がいつものように開けた。
斎藤家を継いでまだ五年、これからが美濃国主としての龍興の踏ん張りどころである。
たとえ織田家に叔母と叔父がいようと、龍興は美濃の主。国は守らねばならぬ。
そう決意した、斎藤龍興であった。
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