三、十面埋伏陣(じゅうめんまいふくのじん)の必策! 天才軍師、竹中半兵衛

 永禄四年六月――、美濃・稲葉山城。

 墨俣すのまたでの戦いでは織田軍に勝利した斎藤軍だったが、軽海かるみの地での戦では撤退を余儀なくされた。

 稲葉山城広間では城主・斎藤龍興さいとうたつおきをはじめして、誰もが浮かぬ顔であった。

 しかしこの敗戦を、斎藤飛騨守さいとうひだのかみ嘲笑わらった。

 

「殿、言った通りになりましたな? 竹中どのではもう勝てぬと――」

 はっきりと聞こえてくる罵詈ばりに、美濃三人衆と呼ばれる稲葉良通いなばよしみち安藤守就あんどうもりなり氏家直元うじいえすなおもとらは、今にも斎藤飛騨守に掴みかからんばかりの形相になった。

 しかし主君・龍興の前とあって、彼らは耐えた。

 

 斎藤飛騨守のいう竹中とは、竹中重治たけなかしげはること竹中半兵衛のことである。

 半兵衛がまだ十八歳という若さゆえか、それとも自身のほうが勝るという現れか、その傲慢な態度は斎藤家家中では知らぬものはいない。

 その斎藤飛騨守を重用した龍興にも、彼らは納得していないようだ。

 だが半兵衛の頭にあるのは、次の戦をどう勝つかである。

竹中半兵衛の父・竹中重元は、斎藤道三の家臣であった。

永禄元年――、父・竹中重元と共に美濃にある岩手氏の居城・岩手山城を攻略し、その場所に菩提山城を築いて竹中氏の新たな居城にした。

 半兵衛の初陣は、斎藤道三と義龍が激突した長良川合戦である。

 しかし、岩手山城攻略からわずか数年後の永禄三年、父・竹中重元が亡くなる。

 かくして半兵衛は家督を継いで菩提山城城主となり、斎藤龍興に仕えるようになるのである。

 

「飛騨守、そなたの策はどうだのだ?」

 龍興の問いかけに、飛騨守は上段の間に視線を戻して恭しく頭を垂れる。

「さきほど、尾張より報せが参りしてございます」

「犬山城の調略、上手く言ったようだな? 飛騨守」

「はっ。これで織田の足止めになりましょう。殿」

「流石じゃ。飛騨守」

 龍興の賛辞に、飛騨守の視線が家臣たちに向いてにっと嗤うと大仰に低頭した。

「お褒めの言葉、ありがたき幸せ」

 

 

 龍興とともに広間を出ていく飛騨守に、稲葉良通の忍耐が切れた。

「おのれっ、飛騨守め。殿のご寵愛をいいことにいい気になりおって……っ」

 氏家直元が、あとに続いた。

「殿も殿じゃ。我らより、あのような男を側におくとは……」

 すると、安藤守就が沈黙を貫いていた半兵衛を振り返った。

「半兵衛、奴にこのまま言わせておいてもよいのか?」

 安藤守就は斎藤道三の時代から斎藤家に仕え、道三の命にて出陣した信長が留守になる、那古野城を護ったという。さらに彼は、半兵衛の義父だった。

  

「飛騨守どの策は、一時的なものとなりましょう。調略したと言ってもその相手は織田に近しいものとのこと、瞬く間に手の内を見破られるかと」

 聞いた話によれば、尾張・犬山城主の織田信清が龍興と協力するらしい。

「して、そなたの策は?」

「明国(※当時の中国)の文献に、十面埋伏の計という策がございます」

 十面埋伏じゆうめんまいふくけいとは、敵が通ると予想される場所に、あらかじめ伏兵を仕込ませて置き、敵兵が通り過ぎるのを待って、背を向けたところを全方位から攻めるという手法である。

 半兵衛は兵法書を学び、十面埋伏の計も兵法として書かれている策だった。

 

「その策を使うというか?」

 守就が目を細めた。 

「はっ」

 若き軍師は、自信をもって彼に頷いた。


               ◆◆◆


 この年――、尾張ではまたも信長を悩ます事態が起きた。

 従兄弟である犬山城主・織田信清おだのぶきよが美濃・斎藤龍興と手を結んだのである。

 この世では裏切りは珍しくはないが、どうも織田一族は争うのが好きな血筋らしい。他に目を向ければいいものを、今度も信長に敵対してきた。

 

「俺は信清どのに、恨まれる覚えはないんだが……」

 犬山城を望む高台で、信長は腕を組んだ。

 いったいなにが信清を刺激したのか信長は知らないが、これはさすがに意外過ぎた。

 信清が敵対したと同時に、信清に嫁いでいた信長の姉(※犬山殿)は離縁され、清州城に戻ってきた。

 さらに織田信清は、信長方の楽田城を奪取したという。

 楽田の地は濃尾平野の東部、犬山の南・小牧の北に立地し、尾張の中心部と信濃の木曽を結ぶ木曽街道が通る近辺にあった。

 

 信長は楽田の西に位置する信清方の小口城を攻撃したが、この戦いで家臣の岩室長門守いわむろながとのかみが討ち死にした。

 犬山城との結果は、信長の敗戦である。

 尾張に信清という敵対勢力を生んだ信長は、同時に美濃・稲葉山城へも攻め入った。

 だが、斎藤軍は手強い。

 美濃攻略は、亡き斎藤道三の想いを叶えるための戦いでもあった。

 このとき信長は、北近江きたおうみ(※当時の滋賀県東部)の浅井長政と手を結びか否かも考えていた。浅井長政は勢力を拡大し、美濃西部にも侵攻していたらしい。

 もし浅井氏と同盟となれば、美濃侵攻が今より楽になるかも知れない。

 

「殿……!」

 足軽の佐助が、信長で前に片膝をついた。

「佐助! 敵の総大将は斎藤龍興か?」

「はっ。ですが策は別の人物にございます」

 どこにでも潜り込んでは相手を探ることを得意とする佐助は、そういう。

「やはりな。奴は戦の経験が殆どないだろう。で、その人物とは?」

「竹中半兵衛重治という男でございます。若輩ながら、兵法に長けていると評判でございました」

 

 信長は思った。自軍にもし竹中半兵衛のような実材がいれば、どんなによかっただろうかと。

 人は追い込まれると焦り、冷静さを失っていく。

 信長はまだ焦ってはいなかったが、既に自軍は兵の数を減らしている。このまま戦うのは、どう考えても不利である。

 またも美濃に背を向けることになるが――。

「撤退する」

 信長の命令に、織田軍は撤退を開始した。


 だが――。


撤退し始めた背後から、斎藤軍が襲撃してきた。

「と、殿……!」

「防げ!」

 どうやら、敵が潜んでいたらしい。

 さらに、四方からも斎藤軍に襲われ、織田軍は追い詰められた。

信長はまたしても、斎藤軍に惨敗したのである。


                  ◆


 斎藤軍では、尾張に去っていく織田軍にかちどきの声が上がっていた。

「さすがじゃ、半兵衛」

 義父・安藤守就の賛辞に、竹中半兵衛は答えた。

「これぞ、十面埋伏陣じゆうめんまいふくじんにございます。義父上」

「しかし織田は、これで諦めまい」

「はい」

「ただ、問題は我が殿じゃ。最近では我らの意見をまともに聞いてはくださらぬ。このままでは織田に攻められる前に、斎藤家は内側から崩れる。大殿の思ったとおりじゃ」

 

 安藤守就いわく、亡き斎藤道三は美濃の今後を憂いていたという。

 己が亡きあと、はたして美濃は安泰か否か。

 義龍の代にはなんとか持ちこたえたが、龍興は古来の重臣を遠ざけ始めた。

 半兵衛たちがどんなに戦で功績をあげようと、主君が傾けば国も傾くというものだ。

 おそらく義父・安藤守就の心は、今後の己の振る舞いをどうするか揺れているのだろう。

 しかし半兵衛の心は、まだ尾張との戦いに向いていた。

 義父の言う通り、織田軍は翌年にもやって来た。

 撃退したが、主君・龍興の態度はますます酷くなっていた。

 龍興は酒色に溺れ、政から義父たちを遠ざけ、斎藤飛騨守は増長し始めた。


 ――もはや、これまでか。


 半兵衛は義父・安藤守就とともに、稲葉山城へ向かった。

 これに驚いたのが、龍興である。

「は、半兵衛、それに守就……っ」

「殿、獅子身中しししんちゆうの虫とはこの者たちのこと」

 斎藤飛騨守が、このときも嘲笑っていた。

「飛騨守、それはお主のことじゃ」

 安藤守就の言葉に、斎藤飛騨守が太刀を抜く。 

「なんだと……っ」

「ひ、飛騨守!」

 敢えなく絶命した彼に、龍興は座したまま後退った。

 そして半兵衛は、静かに告げた。

「殿、かような事態になり、嘆かわしゅうございます」

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