二、美濃侵攻~険しき覇道
木曽川が長良川と合流する地点に、
古くから人の往来・軍事上の
信長の美濃攻略はなかなか進まず、斎藤軍にはよほどの
その信長は、両腕を組んで地形図を睨んでいた。
今にもその地形図に穴が空きそうなほどの剣呑な視線に、恒興は声をかけるが遅れた。
「佐久間さまは、苦戦しておられるご様子」
信長いわく、墨俣にあった砦を佐久間信盛に改修させているという。
だがこの墨俣砦は、もともとは斎藤側の砦だったらしい。しかも、稲葉山城から丸見えなのか、改修を阻止すべく斎藤軍がやって来るという。
「おそらく、妨害いる軍に斎藤龍興はいない」
「そうかも知れませんが――」
今川軍でも義元本人が直接出てきたのは大高・鳴海での攻防戦からで、近年の三河・松平との戦いでも松平元康は軍を率いてはいなかった。
「佐助の話では龍興という男、
佐助は今川に足軽としていた男で、信長とは旧知の仲だという。
そもそも
「あの男――、今度は美濃の斎藤家に紛れ込んでいるのですか?」
「あいつの異名は“七化けの佐助”と言ってな。幕府の役人でさえ、信用させてしまうから凄いものだ」
信長は何でもないことのように言っているが、佐助の裏稼業を聞かされた恒興は眉を寄せずにはいられなかった。どうりで、器用なはずである。
「殿……、その話、いま始めて聞きました」
「昔の話だ。気にするな、勝三郎」
このとき、信長は十九条という地にも砦を築かせているという。
だが――。
その十九条砦に、斎藤軍が攻めてきたという報せが届いた。
この砦を護っていたのは、信長の従兄弟・
この十九条には美濃から伊勢国へと流れる木曽川水系のひとつ、
五月二十三日――、信長と恒興たちは、援軍として清州城を出陣した。
増水した川を渡河し、十四条の地にて両軍は激突した。
◆
美濃の地で織田軍と斎藤軍が激突したという報せは、この男の耳にも届いていた。
犬山城は尾張国と美濃国の境にあり、木曽川沿いの丘に築かれた平山城である。
もとは尾張上四郡守護代・岩倉織田氏の砦を、父・織田信康が改修して築いた城で、信清が二代城主となった。
父の織田信康は、彼の兄である織田信秀(※信長の父)を支えて活躍した武将だった。
信康の戦死で跡を継いだ織田信清は、叔父・織田信秀とは距離を置いた。
元々信秀と信康の関係は同格の協力者に近いもので、父の跡を継いで尾張北東部を治めた信清は現地の利害を優先すべき立場にあり、織田信秀を敵視した他の織田諸家や美濃の斎藤道三との関係にも配慮する必要があったのである。
しかし織田信長とは関係を修復し、かつて父が支えた岩倉織田家の打倒にも協力した。
いま、信清の心は大きく揺れている。
このとき――、彼のもとに一通の密書が届いていたのだ。
「殿……」
家臣が、不安げに見つめてくる。
「このことは、アレには黙っていよ」
信清がいう“アレ”とは、正室・
その密書が誰から届きなにが書いてあったのか、退けるか否か心が揺らぐ信清にとって、彼女が書状の内容に賛同するとは思えない。
密書の送り主は、美濃の斎藤龍興――。
――我と協力し、信長を討たん。
いったい何処から、信長との確執があることが漏れたのか。
確かに、以前はそんなことがあった。
関係修復のため、犬山殿を貰い受けたが。
「殿――!!」
駆け込んでくる家臣に、信清は書状から顔をあげる。
「なにごとだ?」
「信益さまが……、討ち死にされた由」
信清の中で、揺らいでいた心の針が大きく傾く。
もし信長に万一のことがあれば――。
そう考えたとき、尾張の主となるのは己かも知れぬ。
信長の嫡男・奇妙丸(※のちの織田信忠)は、まだ四歳。
血筋は少し遠いが、彼も織田弾正忠家の人間なのである。
己の決断が、ようやく平穏になった尾張に再び火種を作るかも知れない。
だがもう、信清の心は揺れることはなかった。
◆◆◆
美濃・十四条で激突した織田軍と斎藤軍だが、信長は苦戦を強いられていた。
十九条城からの救援要請に信長はすぐに墨俣を出た。
信長が到着して両軍が対峙すると、従兄弟である織田信益が先陣を引き受け斎藤軍に切り込んだ。だがその信益は奮戦の挙げ句、討ち取られてしまった。
戦場ではいつも不敵に笑っていた信長が、このときは険しい顔をしていた。
「……一旦、撤退する!」
織田軍の、敗退であった。
しかし恒興の知る信長は、昔から負けず嫌いであった。
織田軍は、美濃・
「信益の仇は討ってやる……!」
床几に腰を下ろし、太刀を支えに顎を乗せた信長は、いつもの彼に戻っていた。
「来ると思いますか?」
恒興の問いに、信長が不敵に嗤う。
「向こうもこちらが諦めて帰るとは思っていないだろうさ」
そしてついに、夜になった。
信長の予想通り、斎藤軍は攻めてきた。
「恒興」
迎え撃つため馬を進める恒興の隣に、佐々成政が並んだ。
「佐々さま」
「負けず嫌いなのは、我々も同じだ」
「ええ」
主君に家臣が影響されるのはよくある話だが、この場合はいい意味で働くだろう。
「某は斎藤家家臣・稲葉又右衛門!」
名乗りを上げる敵将に、二人は向かっていた。
槍と槍がぶつかり、恒興は押されつつあった。
「恒興っ!!」
「ぐっ……」
稲葉又右衛門は、背後からきた佐々成政の槍を防げなかったようだ。
その隙をつき、恒興は前方から彼の腹を突く。
「おの、れ……っ」
稲葉又右衛門に、もう反撃の力はなかったようだ。
どっと馬から落ち、そのまま絶命した。
勝った――と、恒興は思った。
実際、この戦いは織田軍の勝利となった。
しかしもう斎藤義龍はいないというに、斎藤軍がこれほど手強いとは信長も予想していなかったようだ。
「どうやら、太原雪斎のような男が龍興の近くにいるようだな」
「その名を今さら聞くとは思いませんでしたよ」
清州城に帰城した日の夕刻――、かつて今川軍を率いていた男の名を口にする信長に、恒興は嘆息した。
「俺も今川を思い出すとは思わなかったさ。だがな勝三郎、尾張が今川に苦戦したのは太原雪斎が今川を率いていたからだ。幸い対戦することなく奴は死んだようだが、もし生きていれば義元は動かなかっただろうさ」
確かに太原雪斎が存命であれば、大高・鳴海での戦いに出てくるのは今川義元ではなく、彼だっただろう。
「ですが、そのような男が斎藤軍にいる気配はございません」
「おそらく、陣から動いてはいないだろう。斎藤龍興一人が、ここまで軍を統括できるとは思えん。助言している奴が側にいるはずだ」
「となればこの戦いは――」
「苦戦するだろうが、俺は諦めない。道三から託された美濃だ。約束は果たす!」
美濃の今後を憂いていたという、斎藤道三。
その遺志を受け継いだという信長は、美濃侵攻を目指した。
美濃の最大の敵は、越前の朝倉だという。
道三の時代から美濃に侵攻してきた朝倉孝景はもうこの世の人ではないらしいが、息子の義景が攻めてこないとは限らない。果たして息子たちは、そんな朝倉から美濃を守れるか否か。道三はそこを危惧したのだろう。
だが、信長のことをまたも裏切る人物が尾張から現れた。
報せてきたのは佐助である。
彼が放った矢文が、主郭まで飛んできたのある。
その文を開いた信長から、笑みが消えた。
「殿……?」
「信清どのが、斎藤龍興と手を組むかもしれない」
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