六、義元左文字~桶狭間後日譚

 美濃・稲葉山城――。

 

 今川義元率いる今川軍と、織田信長率いる織田軍がと桶狭間の地で激突したことは、現在いま一色義龍いつしきよしたつとなっている美濃国主・斎藤義龍にも伝わっていた。

 彼にすれば今川はまだ脅威ではなく、信長が討たれることを期待していた。

 亡き父・道三が遺したという美濃国譲り状――。

 もし信長がそれを実行すれば、美濃にとって脅威なのは尾張なのである。

 尾張の相手は、東海の覇者・今川義元。

 対して信長は、尾張を制したばかり。力の差はだれでもわかる。


 ――奴の首を拝めないのは残念だが?


 義龍はクククと嘲笑わらって、さかずきを口に運んだ。

 そんな義龍がいる広間に、嫡男・龍興たつおきが駆け込んでくる。

 

「父上……っ」

「騒々しいぞ。龍興」

 義龍の前で安坐あんざした龍興だが、その顔は強張っている。

「父上、尾張のことをお聞きになられましたか?」

「信長が、今川に討たれたか?」

「その逆です……」

「逆だと……?」

 胡乱に眉を寄せた義龍に、龍興は少し間をおいて告げた。

「今川義元公――、討ち死にされたよし」

「ばかな……」

 

 義龍の手から、盃が転げ落ちた。

 駿河の今川といえば、足利将軍家に連なる名門。駿河・遠江・三河まで領する、大名である。

 その今川義元が、討たれた――。

 義龍の中で、信長への脅威が強くなる。

 

「龍興、こうなれば我らもいよいよ尾張と戦わねばならぬ」

「ですが尾張には叔母上がおられまする」

 龍興がいう叔母とは、帰蝶のことだろう。

「アレはもはや、尾張の人間じゃ。よいか、龍興。信長を討たねばこの美濃は奴のものになる。それだけは決して防ぐのだ」

「はい。父上」

 まだ十三歳の斎藤龍興は、強く頷いた。

 


 永禄三年七月――、今川軍との激戦から二ヶ月が経っていた。

 だが恒興は勝ったという実感が、なかなか湧いてこない。

 二万五千の大軍相手に、二千の軍が打ち勝つなど誰が予想できようか。

 一番槍いちばんやりの功績を挙げた服部一忠とともに、義元の首級をあげた毛利新介によれば、そのときの義元は顔面蒼白だったらしい。


 ――なぜじゃ……? なぜ……。


 義元のその問いはこちらに向けられたものだったのか、それとも己に対してだったのか。

 おそらく信長の奇襲は予想外で、負けるとは思っていなかったのだろう。

 首実検のとき、討たれた義元の首は上目を向いていた。

 恐らく、首が刎ねられる前に空を見上げたのだろう。

 彼の目に、最期の空はどう映ったのか。

 この日の空は、あのときと同じ晴れ間が雲から覗いていた。

恒興が馬屋の前を通りかかると、足軽の佐助と話す木下藤吉郎(※のちの豊臣秀吉)がいた。

 

「しかし大軍を前に、我らは良く勝てたな」

 佐助の言葉に、藤吉郎は答えた。

「それはおみゃあ(※それはお前)、熱田の祭神が殿に力を貸したから勝てたがや」

「藤吉郎、戦は人がするものぞ」

「たーけたこと言わんでちょーよ(※馬鹿なことを言わないでください)、殿には天運があるがや」

 久々に聞く尾張訛おわりなまりに、恒興の気も和んだ。

 確かに、桶狭間の戦いでは天候が味方した。

 雨音が進軍する織田軍の足音と気配を消し、降雨は視界も遮ってくれた。お陰で今川軍本陣まで敵に気づかれずたどり着けたのである。


 なぜ――?


 今川義元の最期の問いに、天が味方したのだと答えたら彼は納得しただろうか。

 馬屋を通り過ぎ主殿の広間に向かうと、信長は上段の間で一振りの太刀をしげしげと眺めていた。

 

宗三左文字そうざさもんじ……ですか?」

 宗三左文字は南北朝時代に筑前国・博多(※現在の福岡県西部)にて活躍した刀工一派・左文字派の祖である左文字が鍛えたものという。

 左文字派の祖・左文字源慶さもんじげんけいは通称を左衛門三郎というそうで、それを略して「左さ」または「左文字」と呼ばれたという。

 刀工・左文字の刀は、「左衛門三郎」の略と伝わる「左」の一字を銘に切ったことから左文字と称されるようになったらしい。

 

「ああ。義元の首がこいつに化けてな」

 恒興の問いかけに、信長はそう言って嗤う。

 宗三左文字の太刀は、今川義元の太刀であった。

 信長がいう、首が太刀に化けたという話はあながち冗談ではなく、実際そうなった。

 といっても首が本当に太刀に化けたのではなく、首の代わりになったのだが。

 

 桶狭間の合戦後――、大高城は取り戻したものの、鳴海城は未だ今川の家臣が粘っていた。鳴海城にいた今川家臣は岡部元信といい、主君・今川義元が織田信長に討たれた後も抵抗し続け、信長が差し向けた部隊をことごとく撃退したらしい。

 宗三左文字はその頃は既に信長の手元にあったが、まもなく岡部元信が主君・今川義元の首と引き換えに開城を申し入れてきた。

義元の首を、丁重に葬りたいという。

 そして宗三左文字の太刀だけが、信長に残った。

 

 岡部元信いわく、宗三左文字は畿内を支配していた三好政長みよしまさながから、甲斐守護・武田信虎(※武田信玄の父)へ贈られた刀だったらしい。

 その翌年、信虎の娘が今川義元へ嫁ぎ、引き出物として信虎から宗三左文字は贈られたという。信長は桶狭間の戦いの記憶を忘れぬためと、銘を刻ませたらしい。


 織田尾張守信長、永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀えいろくさんねんごがつじゆつくにちよしもとうちとらえるときひのしよじのかたな――と。


 尾張に対する、今川の脅威は去った。

 だが恒興には、気になることがある。

「信長さま、大高城にいた松平元康どのですが――」

 噂に寄れば松平元康は、今川義元が討たれたことにより今川との縁を切り、岡崎城に戻ったという。

 

「奴は三河の主となるだろうな」

「いずれ我々と……?」

 かつて亡き織田信秀が三河に攻め入ったとき、対立していたのが松平氏である。

 信長としては、彼と対戦するのが楽しみな様子だが。

「元康に尾張と一戦交える気があればだ。ま、とりえず今川の脅威はこの尾張から消えた。まだ美濃の義龍がいるが」

「信長さまは、天下をおとりになるおつもりですか?」

「……勝三郎?」

 恒興の言葉に、信長が瞠目する。

 

 信長には、やりたいことが三つあるという。

 一つは、尾張平定。二つ目し、今川の尾張侵攻を止めること。三つ目はなにかと問えば、天下でも取るかと笑っていた。

「義元公を討たれたことは、諸国に知れ渡っておりましょう。そして彼らは、どう思うか――」

「俺が攻めに行くと……? 勝三郎、俺はそんなに欲張りじゃないぞ。第一、京には幕府がある。国の政を行っているのは将軍・義輝公だ。幕府まで敵に回すほど、俺は戦いたい訳じゃない」

 

 そう京には、室町幕府と足利将軍家がある。

 天下を取るということは、幕府を倒すという意味になりかねない。

 確かに信長は、これまで他国に攻め入ることはしていない。

 今川義元のように他国に領を求める欲があれば、既に動いていよう。 

「だが――」

 不意に、信長がいいかけた。

 しかしそのあとの言葉はなく、彼がなにを言おうとしたのか、恒興にはわからなかった。


◆◆◆


 天穹を星漢せいかん(※天の川)が横断したこの夜――、帰蝶は楓を伴って清州城主殿の廊を歩いていた。

 楓は忍ではあるが、普段は侍女となって帰蝶の世話をしている女である。

 ふたりとももう故郷・美濃に未練はないが、ふと見上げた空に横たわる星漢に、木曽川の姿が重なる。たまに水を溢れさて暴れるが、その木曽川を命がけで越えてきたのは今となっては懐かしい記憶である。

 

 そんな二人の歩が、廊の角を曲がって止まる。

 数歩先に、信長がいたからだ。

 紅海老茶べにえびちやに染められた小袖に濃紺の平袴、総髪に束ねた髪が風に揺れている。

 どうやら彼も、空を見上げていたようだ。

 出会ったときはともに十代半ばだったが、今や二十半ば。

 一段と精悍な面立ちとなった夫に、帰蝶は思わず釘付けになる。

 

 本来ならば、尾張と美濃の和睦の証しとして嫁いだ帰蝶である。しかし父・道三は異母兄・義龍に討たれて美濃と尾張は再び対立、帰蝶は正室として信長との間に子も成していない。ゆえに、美濃に返されるのが筋なのだろう。

 だが信長は、帰蝶を帰すつもりはないという。お前は俺の妻だと言い切った信長に、帰蝶も織田家の女となる覚悟を決めた。

「楓、お前は下がりなさい」

 帰蝶の言葉に、楓が無言で頭を下げる。

 そんな帰蝶の声が聞こえたのか、信長が振り返った。

 

「帰蝶」

「殿も星に願い事をされるのでございますか?」

 帰蝶が苦笑すると、信長が首を傾げた。

「なぜそう思う?」

「今宵は七夕でございます」

「帰蝶――、もし俺が美濃を攻めると言ったらどうする?」

 視線を空に戻した信長は、そう帰蝶に聞いてきた。

「異母兄・義龍と戦うのであれば、私に気兼ねは必要はございませぬ。殿のやりたいようになされませ」

「俺は美濃が欲しいわけじゃない。ただ、お前の父・道三との約束は果たす」

 

 亡き父・斎藤道三が義龍との戦いの前、信長に書状を送ってきたという。

 それには、美濃を託すと書かれてあったらしい。

 美濃には義龍がいる。なのになぜ道三は信長に美濃を託したのか、帰蝶には殿方の考えていることはわからないが、夫・信長は尾張平定を成し遂げた。

 おそらくこの男なら、美濃も強くできると思ってのことだろう。

 

「ならば父も、同じことを申しましょう。殿、私は殿と馬で越えた木曽川を今でも覚えております。あのとき殿が迎えに来なければ私はどうなっていたか……」

 婚礼の日、賊に木曽川で襲撃された帰蝶は、信長によって窮地を脱した。

 一つの馬に乗って初めて触れた男の背は、なんと頼もしく思えたか。

「そんなこともあったな……」

「殿、私はもう離縁してほしいとは申しませぬ。また再び木曽川を越えることがあれば、それは殿と一緒のとき……」

 帰蝶の言葉に、信長も決心したようだ。

「帰蝶、お前の覚悟、確かに受け取った」

 

 

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