五、今川義元の誤算
――
懐かしい名で呼ばれ、今川義元は目を開けた。
雨が降っている筈なのだがその音は聞こえてこず、近くいた家臣たちも消えている。
なによりも目の前に、とうの昔に亡くなった異母兄・
同腹の二人の兄・
そう、もともと義元は今川家当主となる予定ではなかったのだ。
今川義元の父は足利将軍家の傍流にして駿河守護、
五男として生まれた芳菊丸(※義元の幼名)は四歳で出家し、
芳菊丸はこのまま僧籍に身をおくだろうと思っていたが、兄・今川氏輝が急死。同じく兄の今川彦五郎までもが同日に亡くなった。
急死した兄二人と母が同じだった芳菊丸は
これに異を唱えたのが、眼前にいる玄広恵探である。
玄広恵探は、有力家臣・福島氏と結託して、義元たちに反旗を翻す。
花倉の乱と呼ばれるお家騒動に発展するが、玄広恵探の自害により終結。こうして義元は、今川家当主となったのである。
――かような場に迷い出られるとは、いまさら何用か?
義元は無言で佇む、異母兄・玄広恵探を見据えた。
三人の兄の死により、今川家当主候補となった義元。
だが順序からいえば、正室の子から家督を継ぐ権利がある。
玄広恵探は兄ではあるが庶子、これにより義元に権利がきたのだ。
――消えられよ。亡者の相手をしている暇はない。
玄広恵探は意味深に笑むと、溶けるように義元の視界から消えた。
すると義元の耳に、雨音が蘇ってくる。
どうやら、少し眠ってしまったようだ。
降りしきる雨音は小さく、もうすぐ雨は止むだろう。
それにしても――。
――こんなときに、異母兄上と会うとは……。
夢の中とはいえ、義元の胸に不安が広がる。
「織田軍に、動きはないか?」
「いえ、ございませぬ」
「そうか……」
家臣の言葉に
「なにごとじゃ!?」
「お、お屋形さま……っ」
陣幕に駆け込んできた家臣の顔は蒼白だった。
「なにが起きた!?」
「織田軍の奇襲にございます……っ!!」
「な……、んだと?」
義元には、その報せを素直に受け入れられなかった。
勝ちを信じていた義元は甲冑を脱いで、
ありえぬ!!
さきほどまで、視界も危うい豪雨だったのだ。
それをどうやって、ここまでたどり着けたのだ。
――予は、まだ夢をみているのか……?
このときは夢であってほしかったが、陣幕を出た義元が見たものは丸の内に二つ
(まさかあの雨の中を、ここまで来ていたというのか……!?)
しかし織田軍は、正面からやって来ている。
義元の位置からはまだ遠いが、向かって来るその織田軍の中央で緋色の外套を靡かせる男がいた。
義元は織田信長の顔は知らないが、おそらくそれは――。
(尾張の小倅め……っ)
雨上がりの中、義元から余裕は完全に消えた。
織田信長という男を、義元は甘く見ていた。
こんなとき、
太原雪斎はもともとは僧だったが、幼かった頃の義元の教育係となった男である。
以後、政治・軍事の両面で全面的に補佐した。
その手腕はもともと僧侶だったとは思えぬ働きで、三河侵攻は彼がいたからこそ成し得たと言っていい。
雪斎ならば、この状況をどうしたか――。
「お屋形さま、どういたしましょう?」
窺ってくる近習の顔も蒼白である。
義元の脳裏に、夢で会った異母兄の嘲笑った顔が蘇る。
「……ここは一旦、退却じゃ……! 軍を立て直す」
冷静さを失えば敵の思うつぼ、ここでまともにやりあっても勝てぬ。
義元にとって敵を前に引くのは屈辱的だったが、ここは退却し、冷静になる必要がある。
「退却じゃ! 山を降りよ!」
義元の下知に、今川軍はおけはざま山の麓へと退却を開始した。
◆◆◆
織田軍が、今川軍本隊に奇襲をかける一刻ほど前――。
織田軍本隊は、雨の中を進軍していた。
幾度か
まるで
足が届かぬとあれば肩に乗れと味方を促し、それは身分問わず行われた。
「頼もしいですね、殿」
恒興の言葉に、信長も頷いた。
心を合わせて国を護る――、これが信長の目指した尾張・織田軍だった。
現在は今川を倒すという目標だが、一つの目標のために一致団結したその絆はなによりも勝ると信長は信じてきた。
それが、目の前にある。
今川義元は、突然現れた織田軍にどんな顔をするだろう。
まさか、豪雨の中を近くまで来ているとは思ってはいまい。
普通は、視界を遮るほどの雨中を進軍することはありえないのだろう。たとえ地形を把握していたとしても、濡れた躯は体温を奪われ、正確な判断ができるだろうか。
しかもこの桶狭間は、泥湿地帯なのだ。
この戦いの前――、信長は兵法書『呉子』を読み漁った。
――武侯、問いていわく、若し
【呉子兵法書~応変第五より】
これによればその意味は、平地で戦うのは避け、狭い場所で敵を待ち受けよとある。
一の兵力をもって十の兵力を持つ敵を攻撃するなら狭い場所が最もよく、十の兵力をもって百の兵力を持つ敵を攻撃するには、山が切り立っている険しい場所が最もよく、千の兵力をもって一万の兵力を持つ敵を攻撃するなら、山などが折り重なっている場所が最もよいという。
少数の兵でも奇襲をしかければ、相手は大軍であっても驚き動揺するだろうと。
まさに、桶狭間はその名の通りの狭い場所だったのである。
そして――、ついに雨が上がった。
今川軍本隊は、まだこちらの存在に気づいてはいない。
「狙うは今川義元の首! かかれ!!」
信長はそう叫ぶと、差配を振り下ろした。
今川軍本隊は思った通り、その数は五千。
どうやら残りの二万は、合流出来なかったようだ。
突然現れた織田軍に、今川軍は大混乱に陥ったようだ。
「今川義元を探せ! 奴は輿に乗っている筈だ!!」
信長は長槍で敵を倒しつつ、馬上で叫んだ。
「殿、敵は退却を始める模様――」
「今川義元を見つけろ。奴は必ずいる!」
混戦となる中、五千の今川軍本隊は次第にその数を減らしていく。
やはり、突然現れた織田軍に動揺し、まともな動きができないらしい。
そんな今川軍本隊の中で、違う動きをしている者たちがいた。
その者たちは戦いに加わろうとはせず、退却しているのだ。
(今川義元……!)
信長は、そう確信した。
おそらく、その中に義元はいる。
「いたぞ! 今川義元はあそこだ!!」
「殿、一番槍のお許しをいただけますか」
信長の騎馬に、馬廻の
「相手は今川義元だ。油断するなよ」
「はっ」
――この戦い、勝った!
信長は、馬上で空を見上げた。
まだ今川義元を討ってはいないが、桶狭間の地形と天候が信長に味方した。
泥湿地帯に逃げ込んだ今川兵は泥濘にはまり、義元を護る兵も少くなっていく。
そして――、ついにそのときはきた。
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