四、天が味方せり! 桶狭間への道

 桶狭間一帯は、なだらかな丘陵の間を縫うようにして、北から鎌倉街道、五畿七道ごきしちどうの一つである東海道(※旧東海道)、大高道という三本の街道が、ほぼ東西に走っている。

 鎌倉街道と東海道が伊勢湾に達しようとするところに鳴海城が、同じく大高道の終点に大高城が築かれていた。

 中島砦を発った信長率いる織田軍本隊は、そんな東海道を手越川沿いに進んでいた。

 この先は、鎌研かまとぎと呼ばれる地である。

 問題は鎌研が、高根山のふもとだということだ。

 

 高根山に義元率いる今川本隊がいないことはわかっていたものの、兵を残しているかもしれない。そこを堂々と正面突破すると断言した信長に、恒興はやれやれと呆れつつ、その背に従った。

 おそらく高根山に残っているだろう今川軍からは、織田軍は丸見えとなるだろう。

 だが、ついに天が沈黙を破った。

 雷光らいこうが雲の中を走り、激雷げきらい(※激しく鳴る雷)に誰もが天を見上げた。


「うわぁっ!」

 声を上げたのは、前田利家である。

 疾雷閃電しつらいせんでん(※突然に発生した激しい雷と閃く稲妻)に驚いたのか、彼を乗せた馬が前足を上げたのである。

 柴田勝家が、そんな利家を見て嘆息した。

「利家……、こんなところで落馬するなよ」

「言ってくれますねぇ、柴田さま。これでもこの前田利家、赤母衣衆せきほろしゆうの一人。今回もこいつで奴らの腹を突いてやりますよ」

 

 そう言って利家は、朱色に塗られた三間半さんげんはん(※約メートル30センチ)の派手な長槍を掲げる。

 槍の名手となった利家は、槍の又左とも呼ばれているらしい。

威勢いせいはいいがお前、拾阿弥じゆうあみどのの一件で殿のお許しはでておらんだろうに……」

 拾阿弥は将軍の近くで雑務や芸能にあたった同朋衆どうほうしゆうの一人で、信長とは昵懇じつこんの間柄であった。この拾阿弥を、利家は手にかけてしまったのである。

「奴はこうがいで、殿を殺そうとしたんです」

 本人はそう主張しているが、目撃したものはいない。

 信長は利家を出仕停止処分にしたが、今回の戦にちゃっかり紛れ込んでいたから驚きである。

 利家の首が飛ばれなかったのは、おそらく利家の言い分に思うことがあったのだろう。

 信じてきた人間に裏切られるのは、これまで幾度もあったという。

 

 だが天災は雷に続き、豪雨が背後を突く。

 恒興は思わず、信長に呼びかけていた。

「心配するな、恒興。天は、俺たちにこのまま勧めと言っているのさ」

 信長の言葉に、恒興は瞠目どうもくした。

「あ……」

「――そういうことだ。勝三郎」

 

 振り向いた信長は、にっと笑っていた。

 二人のやり取りは、雨音にかき消されて家臣たちには聞こえてはいないだろう。

 主従という関係から幼馴染みに戻れば「信長さま」「勝三郎」と呼び合う仲である。お陰で、相手の意図もわかるようになっていた。

 降り続く豪雨は背中から叩きつけてくるが、向かうおけはざま山はこの雨に対し正面なのだ。雨を避けるために木陰などに移動するかも知れないが、陣は動かさないだろう。

 さらに豪雨は、視界も悪くしたようだ。

 高根山から、今川軍がやってくることはなかったのである。

 

「義元は、この尾張を甘く見すぎだ」

 信長はそう言って、不敵に笑った。

 もし地形に詳しい敵将相手なら、ここまで順調にはいかなかったというのだ。

 しかも桶狭間一帯はなだらかな低丘陵地帯で、泥湿地でいしつちに葦などの茂った深いやぶが広がっているという場所だった。

 もはや信長には、この豪雨より今川本隊しか見えてはいないだろう。

 

                  ◆◆◆


 未の刻――、おけはざま山の今川軍本隊は混乱していた。

 雨になるであろうとは義元も予想はしていたが、その前は陣の正面からである。

 まるで敵の矢を食らっているかの降雨と、奔雷ほうらい(※激しく鳴る雷)に人も馬も動揺したのである。

 これにより、義元の思惑が狂い始めた。

 幸い義元は、小姓が差し向けてくる傘の下にいた。

 お陰で家臣たちよりずぶ濡れになるとまでいかなかったが、さすがに苛立ちは隠せない。 本来なら、早く戦を終わらせるはずだったのだ。

 義元は、眉間に力を入れて唸った。


「他の兵はまだつかぬのか?」

 義元の問いに答えたのは、近くで待機していた家臣・蒲原氏徳かんばらうじのりである。

「お屋形さま、この雨で視界が困難になっているやも知れませぬ」

「ふむ……」

 氏徳の言葉に、義元は再び眉を寄せて唸った。

確かに、この本陣でも豪雨によって視界は悪い。

 下手に動けば、道を誤る。しかし逆に、敵もこの雨で動けぬということになる。

「氏徳、しばらく休息致す」

「はっ」

「ところで――奴は現在、何処にいるとみるか?」

「奴と言われますと……?」

小癪こしやくにもが名乗った上総介を名乗る、尾張の小倅じゃ。このまま大人しゅう尻尾を巻いて退散すればまだ可愛げがあるがの」

 

 義元は蝙蝠扇を口に当て、そう嘲笑った。

 義元には、足利将軍家に連なる今川家当主という誇りがある。

 家格でも身分でも、そして国の大きさでも自分が上――、従うならまだしも、歯向かうとあらば義元としては潰したくなるのだ。

 

「お屋形さま、まもなく尾張は降伏致しましょうぞ」

 氏徳の言葉に、義元から不安は一層された。

「ふふ、奴の首を見ながらの酒は美味かろうの? 氏徳」

  

                    ◆


 鎌研を越えた織田軍本隊は、沓掛峠に差し掛かっていた。

 雨は止む気配はなく、大粒の雨粒が激しい音を立てて地面を叩き、霧のように飛沫をあげている。

 

 家臣団の意見では高根山を迂回し、今川軍本隊の横から奇襲をかける案がでたが、信長はその案を却下した。

 ここは正々堂々と、正面突破で行きたかったのである。

 もちろん、成功するかしないかは運次第である。

 ただ、激しく打ち付けてくる雨が、ここまで信長たちを導いてくれた。

 普通ならばこの豪雨の中、進軍しようとは思わないだろう。

 しかも、これから戦という時に。

 

 高根山にいたであろう今川軍は、そう思ったに違いない。

 雨が降り視界も悪い。まさか真下を織田軍が通るとは思わず、一旦雨を避けた。まずそんなところだろうか。

 

 だが織田軍も、ただではすまない。

 高根山の今川軍が「織田軍は通過しない」と思い込んでくれたお陰で戦闘は免れたものの、甲冑を纏っての行軍である。雨に濡れた躯は熱を取られ体力を消費するだろう。

 ゆえに、一気に勝負をつけねばならない。

 本隊の顔ぶれは河尻秀隆、佐々成政、毛利新助ら黒母衣衆。前田利家、毛利秀頼がいる赤母衣衆。かつては敵対していた柴田勝家や林秀貞、そして昔から信長の近くにいた池田恒興をはじめとする、佐久間信盛や森可成、そして丹羽長秀。

 さらには、信長が自ら集めた親衛隊も参戦している。

 信長の半生において、これまでなんどか裏切りには遭っては来たが、ここに集う彼らと目指すのは打倒、今川。


「と、殿――!!」

 すぐ近くにいた木下藤吉郎(※のちの豊臣秀吉)が、声を上げた。 

 彼の視線を辿れば、前方にくすのきの大樹があった。しかも、見事に横倒しにされて。

 楠の大樹は、どう見ても倒れるような細さではない。

「これは熱田の加護だ!」

 信長は、そう感じた。


 尾張・熱田大宮に祀られている草薙の剣は、またの名を天叢雲剣というらしい。

 草薙の剣は、素戔鳴尊すさのおうのみことが出雲国で八岐大蛇やまたのおろちを退治した時に、大蛇の体内から見つかった神剣だという。

 熱田大宮の起源はヤマトタケルから宮簀媛命みやずひめ (※ヤマトタケル妻)と尾張氏が尾張国で祀り続けたことから始まるという。

 信長が見たそれはまさに、大蛇が倒されたかのような大楠であった。


 今川軍本陣まで、もうすぐである。

 決着のときは、迫りつつある。

「雨が上がり次第、突入する!!」

 まさに今川軍正面、信長は自軍に向かって命じた。

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