四、天が味方せり! 桶狭間への道
桶狭間一帯は、なだらかな丘陵の間を縫うようにして、北から鎌倉街道、
鎌倉街道と東海道が伊勢湾に達しようとするところに鳴海城が、同じく大高道の終点に大高城が築かれていた。
中島砦を発った信長率いる織田軍本隊は、そんな東海道を手越川沿いに進んでいた。
この先は、
問題は鎌研が、高根山の
高根山に義元率いる今川本隊がいないことはわかっていたものの、兵を残しているかもしれない。そこを堂々と正面突破すると断言した信長に、恒興はやれやれと呆れつつ、その背に従った。
おそらく高根山に残っているだろう今川軍からは、織田軍は丸見えとなるだろう。
だが、ついに天が沈黙を破った。
「うわぁっ!」
声を上げたのは、前田利家である。
柴田勝家が、そんな利家を見て嘆息した。
「利家……、こんなところで落馬するなよ」
「言ってくれますねぇ、柴田さま。これでもこの前田利家、
そう言って利家は、朱色に塗られた
槍の名手となった利家は、槍の又左とも呼ばれているらしい。
「
拾阿弥は将軍の近くで雑務や芸能にあたった
「奴は
本人はそう主張しているが、目撃したものはいない。
信長は利家を出仕停止処分にしたが、今回の戦にちゃっかり紛れ込んでいたから驚きである。
利家の首が飛ばれなかったのは、おそらく利家の言い分に思うことがあったのだろう。
信じてきた人間に裏切られるのは、これまで幾度もあったという。
だが天災は雷に続き、豪雨が背後を突く。
恒興は思わず、信長に呼びかけていた。
「心配するな、恒興。天は、俺たちにこのまま勧めと言っているのさ」
信長の言葉に、恒興は
「あ……」
「――そういうことだ。勝三郎」
振り向いた信長は、にっと笑っていた。
二人のやり取りは、雨音にかき消されて家臣たちには聞こえてはいないだろう。
主従という関係から幼馴染みに戻れば「信長さま」「勝三郎」と呼び合う仲である。お陰で、相手の意図もわかるようになっていた。
降り続く豪雨は背中から叩きつけてくるが、向かうおけはざま山はこの雨に対し正面なのだ。雨を避けるために木陰などに移動するかも知れないが、陣は動かさないだろう。
さらに豪雨は、視界も悪くしたようだ。
高根山から、今川軍がやってくることはなかったのである。
「義元は、この尾張を甘く見すぎだ」
信長はそう言って、不敵に笑った。
もし地形に詳しい敵将相手なら、ここまで順調にはいかなかったというのだ。
しかも桶狭間一帯はなだらかな低丘陵地帯で、
もはや信長には、この豪雨より今川本隊しか見えてはいないだろう。
◆◆◆
未の刻――、おけはざま山の今川軍本隊は混乱していた。
雨になるであろうとは義元も予想はしていたが、その前は陣の正面からである。
まるで敵の矢を食らっているかの降雨と、
これにより、義元の思惑が狂い始めた。
幸い義元は、小姓が差し向けてくる傘の下にいた。
お陰で家臣たちよりずぶ濡れになるとまでいかなかったが、さすがに苛立ちは隠せない。 本来なら、早く戦を終わらせるはずだったのだ。
義元は、眉間に力を入れて唸った。
「他の兵はまだつかぬのか?」
義元の問いに答えたのは、近くで待機していた家臣・
「お屋形さま、この雨で視界が困難になっているやも知れませぬ」
「ふむ……」
氏徳の言葉に、義元は再び眉を寄せて唸った。
確かに、この本陣でも豪雨によって視界は悪い。
下手に動けば、道を誤る。しかし逆に、敵もこの雨で動けぬということになる。
「氏徳、しばらく休息致す」
「はっ」
「ところで――奴は現在、何処にいるとみるか?」
「奴と言われますと……?」
「
義元は蝙蝠扇を口に当て、そう嘲笑った。
義元には、足利将軍家に連なる今川家当主という誇りがある。
家格でも身分でも、そして国の大きさでも自分が上――、従うならまだしも、歯向かうとあらば義元としては潰したくなるのだ。
「お屋形さま、まもなく尾張は降伏致しましょうぞ」
氏徳の言葉に、義元から不安は一層された。
「ふふ、奴の首を見ながらの酒は美味かろうの? 氏徳」
◆
鎌研を越えた織田軍本隊は、沓掛峠に差し掛かっていた。
雨は止む気配はなく、大粒の雨粒が激しい音を立てて地面を叩き、霧のように飛沫をあげている。
家臣団の意見では高根山を迂回し、今川軍本隊の横から奇襲をかける案がでたが、信長はその案を却下した。
ここは正々堂々と、正面突破で行きたかったのである。
もちろん、成功するかしないかは運次第である。
ただ、激しく打ち付けてくる雨が、ここまで信長たちを導いてくれた。
普通ならばこの豪雨の中、進軍しようとは思わないだろう。
しかも、これから戦という時に。
高根山にいたであろう今川軍は、そう思ったに違いない。
雨が降り視界も悪い。まさか真下を織田軍が通るとは思わず、一旦雨を避けた。まずそんなところだろうか。
だが織田軍も、ただではすまない。
高根山の今川軍が「織田軍は通過しない」と思い込んでくれたお陰で戦闘は免れたものの、甲冑を纏っての行軍である。雨に濡れた躯は熱を取られ体力を消費するだろう。
ゆえに、一気に勝負をつけねばならない。
本隊の顔ぶれは河尻秀隆、佐々成政、毛利新助ら黒母衣衆。前田利家、毛利秀頼がいる赤母衣衆。かつては敵対していた柴田勝家や林秀貞、そして昔から信長の近くにいた池田恒興をはじめとする、佐久間信盛や森可成、そして丹羽長秀。
さらには、信長が自ら集めた親衛隊も参戦している。
信長の半生において、これまでなんどか裏切りには遭っては来たが、ここに集う彼らと目指すのは打倒、今川。
「と、殿――!!」
すぐ近くにいた木下藤吉郎(※のちの豊臣秀吉)が、声を上げた。
彼の視線を辿れば、前方に
楠の大樹は、どう見ても倒れるような細さではない。
「これは熱田の加護だ!」
信長は、そう感じた。
尾張・熱田大宮に祀られている草薙の剣は、またの名を天叢雲剣というらしい。
草薙の剣は、
熱田大宮の起源はヤマトタケルから
信長が見たそれはまさに、大蛇が倒されたかのような大楠であった。
今川軍本陣まで、もうすぐである。
決着のときは、迫りつつある。
「雨が上がり次第、突入する!!」
まさに今川軍正面、信長は自軍に向かって命じた。
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