三、信長の獅子吼! 敵を恐れるなかれ

 今川義元本隊がいるとされる桶狭間周辺は、南に延びる知多半島の付け根に当たる部分にあたり、西は伊勢湾に面している。

 そこは伊勢湾が内陸部まで入り込んでおり、鳴海・大高両城は船溜ふなだまりもある海城だった。

 この地域を流れる河川・扇川は、河口付近で幅広になり、あたかも桶狭間地域を南北に分かつ境界線のような役割を果たしていた。つまり今川方の鳴海・大高両城の間には、扇川と手越川てごしがわ、さらに大高城の北を流れる大高川の三つの中規模河川が横たわり、南北の連携が取りにくい一帯となっていた。

 中島砦は、そんな扇川と手越川が合流する地に築かれた砦である。


 善照寺砦から扇川を渡河とかして中島砦に辿り着いた織田軍だが、空はますます怪しくなるばかりで、ついに雷鳴が聞こえてきた。

 信長は中島砦に着いてから、ずっと前を見据えたままだ。

「さすがに殿も、もう無茶はされまい」

 黒母衣衆筆頭くろほろしゆうひつとう河尻秀隆かわじりひでたかが、恒興の隣に立った。

 黒母衣衆は馬廻うままわりから選抜された信長直属の使番で、黒母衣衆に対し赤母衣衆も織田軍にいた。

 もともと母衣は矢や石などから防御するための補助武具だったが、大将側近の近習や使番だけが着用を許される名誉の装飾具となった。それが母衣衆である。

 

「……だといいんですが」

「そなたは相変わらず心配性だな? 恒興」

 秀隆は苦笑するが、信長と子供の時からの付き合いとなる恒興は、その無茶に幾度も巻き込まれ続けたのだ。

 今回の出陣でさえ、早朝のことだ。

 善照寺砦からこの中島砦に来るときも、漆山にいる今川軍から丸見えになるかも知れないというのに異動してきたのだ。

 恒興はゆっくりと、信長に歩み寄った。

 

「殿、このぶんでは嵐になる恐れがございます」

「恒興、佐助の話だと義元は馬ではなく、輿に乗っているそうだ」

 信長は前を見据えたまま、嘲笑った。

「輿……ですか」

「更に三河守となったそうだ。とことん、見栄っ張りな男だな」

 

 今川の足軽として潜んでいた佐助いわく、今川家は足利一門の名家らしい。

 さらに三河守と任官され、三河の主となったようだ。

 義元が見栄っ張りかは恒興にはわかりかねるが、そう揶揄する信長も人の性格は言えないだろうと、恒興は思った。

 

「そういう殿は、負けず嫌いでいらっしゃる」

 今川義元が名乗っていた上総介を、信長が「三郎信長」から「織田上総介信長」と名乗るようになったのは、おそらく義元への対抗意識だろう。

「奴は、濡れるのは嫌だろうな?」

 おけはざま山に布陣しているとされる、今川軍本隊。

 もし分散している残りの軍を集結させる気なら、今川義元はもう移動することはないだろう。しかも、この空模様だ。

「おそらく、おけはざま山に留まっているでしょう。この空です。移動すれば途中で雨になる恐れがあります。義元公が見栄っ張りかどうかはわかりませんが、輿に乗っているとするならば間違いなく義元公はずぶ濡れになります」

 

 雨が降り出した場合――、馬に乗っていれば自ら手綱を捌いて雨を避けられる場所に向かえるだろうが、義元は馬ではなく、輿に乗っている。

 担ぎ手たちを急かすか、輿から降りて自分の足で向かうかの選択となる。だがこの場合、後者は考えにくい。

「濡れねずみになった姿も見たいもんだな」

 あくまで楽しげな信長に、恒興は嘆息した。

「その前に、我々も濡れ鼠です」

 

                 ◆


 おけはざま山に着いた今川義元は、分散している各地の兵に退却を命じた。

 この場で、一気に決着をつけるためだ。

 本陣があるのは、おけはざま山西側中腹である。

 そこからは、先陣隊がいる巻山、幕山、高根山が一望できた。

 陣幕のなかで盃を傾けていた義元に、今川家臣・由比正信ゆいまさのぶが片膝をついた。

 

「お屋形さまこの戦、我らの勝ちにございます。このまま残りの砦を陥落できましょう」

「だが正信、こうしておる間に尾張の小倅めが、今度こそ立ち塞がってこよう」

「清須に探りを入れている者の報せでは、織田軍は我らの半分にも満たぬ数とのこと」

「うむ」

 

確かに、信長が来ようと数では自軍が上、しかも勢いも自分たちにある。

 この天候では敵は動けまい。その間に、こちらは兵が戻ってくる。

 義元は、空を見上げて思った。

 勝てる――、と。


                 ◆◆◆


 ひるすぎ――、雷鳴が轟き湿った風が吹く。

 織田木瓜紋の旗印が風に靡き、甲冑に纏う信長の外套も煽られた。

 しかし天候の悪化を、信長は天の励ましと受け取った。


 攻めるなら今だ――、と。


信長は「よし」と覚悟を決め、進軍を家臣団に命じた。

 だが、彼らの顔は強張った。

 善照寺砦から来たばかりだというのに、今からすぐに進軍するとは思っていなかったらしい。

 

「と、殿! このまま、進軍されるといわれるのでございますか!?」

「そうだ」

「殿、この天候では無理にございます! ここは天候の回復を待ち――」

 

 彼らは天候悪化を口にしているが、内心は兵力の差が不安なのだろう。

 善照寺砦からこの中島砦に向かう際も彼らは信長を止めにかかったが、ここでも信長を止めに来た。

「その間に、本隊の数が回復する」

 明らかに、表情を変えた家臣たちである。

 

 確かに、今川軍は強い。

 三河をあっという間に制したというその力は、信長の父・信秀さえ押し戻せなかった。

 だが信長は、長いものには巻かれろのことわざなぞ、クソ喰らえである。

 尾張を何処かの属国にするつもりは毛頭もうとうなく、いまさら今川と和睦もありえない。

 本隊がいるとされる桶狭間は、低い山に囲まれた狭い盆地で大人数では展開しづらい土地である。

 ゆえに今川本隊は、軍を分けるしかなかったのだろう。しかも、桶狭間の地は湿地もある。


 ――今川義元、攻めてくる前にこちらの土地のことをよく掴んでおくべきだったな?


 高みの見物と洒落込むつもりだったのか、義元は輿に乗っているという。

 どうやら、自ら戦に躍り出るつもりはないらしい。

確かに大将たるもの、陣にどんと構えていればいいという意見もあるだろうが、信長の戦い方は違う。

 敵を知るには、この目でもなければわからない。


  ――吉法師、戦に勝つには相手を知ることから始まる。そして相手を油断させ、充分引き付けてそこを狙う。


 信長の脳裏に、亡き父・信秀の言葉が蘇る。

 信秀とともに訪れた鷹狩りの地――、そこで信秀に言われた言葉である。

 思えば、戦での戦い方を父から教わったのはその一度だけ。

 あとは勝手にしろという父ではあったが、その一度だけの教えが信長をここまで勝たせてきた。

やはり、本隊を叩くなら今しかない。

 信長は軍全体を見据え、口を開いた。

 

「皆の者、よく聞け! 今川軍の者どもは、徹夜で大高城へ兵粮を入れ、今朝は鷲津、丸根砦で戦い非常に疲れているだろう。それに対し、我軍は体力は充分にある。確かに我軍は、敵軍よりは兵数が少ない。だが、小軍なりとも、大敵を怖れるな!! 運は天にある! 敵が攻めてきたら退き、敵が退いたら追え。逃げる者を追ってひねり倒し、追い崩すことは容易いものだ。それから、分捕り(※倒した敵の甲冑や武具を奪い取ること)はするな。こり戦いに勝てば、各々の名は末代までの功名となろう!!」

 敵を恐れれば、そこで負けなのだ。

 

 信長の獅子吼ししく咆哮ほうこうに、真っ先に恒興が膝を折った。

「行くとは思っておりました」

 苦笑する恒興に、信長はまたも救われた気がした。

 なんだかんだといいながら、彼は昔から信長についてきてくれた。

「恒興……」

「この戦、なんとしても勝ちましょう!」

「ああ」

 そう、この戦なんとしても勝つ。

 かくして、桶狭間の地に向けて織田軍本隊は進軍を開始した。

 

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