二、おけはざま山
その後、織田信秀の支配下となり
そんな鳴海城の東には、
聞いた話によると尾張丘陵は、木曽川南側の犬山から南東方向へ伸び、
そこからは南西方向へ向きを変え、
信長たちが辿り着いた善照寺砦は、そんな尾張丘陵の東端に築かれた。
鳴海城の東にある砦ゆえに、その砦からは鳴海城が一望できた。
「殿……っ」
片膝をついた使番の表情を見て、信長は悪い知らせだなと瞬時に判断した。
表情が強張っているのだ。
「どうした?」
「
これを聞いて表情を強張らせたのは、政次の実弟である
佐々成政には、兄が二人いる。
佐々成政の長兄・佐々政次は、信長の父・信秀の代から仕え、小豆坂の戦いで功名を得たという。
次兄・佐々孫介も政次と共に小豆坂に参戦したが、稲生の戦いで討ち死にした。そして今度は政次である。二人の兄を失った成政が、表情を強張らせるのは無理はない。
「今川本隊の動きは?」
信長の問いに、使番は硬い表情のまま告げる。
「既に漆山を移動している様子」
善照寺砦と漆山は、目と鼻の先である。
二万五千の軍を分散させたままなら、本隊の軍勢はまだ半減状態だろう。
好都合なのはもう一つ、向こうは昨日からの連戦で体力を消費していることだ。
さて、義元はどう動くか。
鷲津・丸根砦を落としたことに満足し、織田軍など大したことはないと軽視しているか、それともさらにすべての砦を叩くべく軍を押し進めてくるか、義元の目的が大高・鳴海城を死守するためならば、本隊はこの善照寺砦とはそんな遠くないところに陣をおいているだろう。
それは何処か――。
信長の眼下には、地形図が広げられている。
「勝三郎、お前が義元ならどうする?」
すぐ近くにいた池田恒興が、信長の問いかけに答えた。
「私なら、一番見晴らしのいい場所を選びます。おそらく義元公は、さらに軍勢を分けていると推測いたします」
「信盛、お前の意見は?」
善照寺砦を守っていた佐久間信盛は
「同感です、殿」
と答えた。
「そうなると……」
信長は、再び地形図に視線を落とした。
信長の視界に入ったのは、高根山である。
だが義元が佐々政次らを討ち取った自軍の戦いを見ていたのなら、彼はもう高根山にはいないだろう。あくまでも、勘だが。
そんな今川軍から、善照寺砦にやって来た一人の足軽がいた。
織田家臣団はこちらに寝返って来たのかと思ったようだが実はこの足軽、信長とは旧知の仲であった。
まだ信長がうつけと蔑まれていたころ、那古野城下で知り合った
一足買ったのをきっかけに意気投合し、信長が那古野城だと知ると彼はこう言った。
――おいらも、信長さまの家臣にしてちょうよ(※~してほしい)
そのとき、信長は笑ったが。
「駿河に商いに行くとは聞いてきたが、まさか今川軍に紛れ込んでいたとはな。義元はお前の草鞋を高く買ってくれたようだな? 佐助」
信長の家臣になることを断念したのか、佐助がそれ以降「家臣にしてくれ」と言ってくることはなく、駿河に行ってしまった。
「おいらの草鞋は、とても役に立つんですよ。信長さま」
にっと笑うその顔は昔のままで、佐助の思いは決して変わっていなかった。
――ならおいらは、信長さまの足になるでよ。
最後に佐助に会った日、佐助は信長にそう言った。
その意味が、ようやくわかった。
今川を倒すという信長の目的は佐助にも話しており、おそらく信長の役に立つために義元の側で足軽となったのだ。
足になる――、それは今日という日を彼も待ち続け、間者として義元の動きを告げる足となること。
「殿、この者は」
信盛が警戒心を露わにしていたが、信長は佐助を信じることにした。
「心配はいらん。こいつは俺に、義元の場所を報せに来たのさ」
どうやら今川軍は、足軽一人が抜け出しても気づかないようだ。
「義元公は――、おけはざま山におります」
佐助は、そう告げた。
◆◆◆
今川義元率いる本隊は、漆山から
しかしここで、重臣が二人討ち取られたという報を受けた。
一人は巻山を守っていた遠江国・
そしてもう一人は三河・尾張方面の遠征軍指揮官にして忠義の臣、
「ふむ……」
義元は塗り輿の上で、眉を寄せて唸った。
空を見上げれば、天候が思わしくない。
義元は、さらに陣を移動させた。
桶狭間村に入ると、おけはざま山と呼ばれる山にさらに進み、巻山、幕山、高根山が一望できる西側中腹に布陣した。
「お屋形さま、どうやら信長は出てこない様子。この戦い、勝ったも同然」
そう言ってきたのは家臣の一人、
「織田軍を率いておるのは奴ではないと?」
「噂ではかの信長、以前は相当なうつけであったとのこと。戦のやり方を知らないのでございましょう」
「だが信置、そう侮るのも如何なものか。笠寺の地を奪い返し、西三河の国衆まで手懐けた。そして今度は砦を築いて、こちらを
「案ずることはございませぬ。天は我らに味方しましょう」
信置にそう言われ、義元は再び曇天を見上げた。
敵も、雨中の合戦は望むまい。
この戦、早々に決着を見るだろう。
「ここでしばらく残りの軍が来るまで待つ」
「はっ」
信置は片膝をつき、低頭した。
◆
義元率いる本隊がおけはざま山にいるとわかった織田軍は、善照寺砦から中島砦へ進軍を開始した。
中島砦は海と川に挟まれた場所にある砦だが、そこまでの経路は脇が泥の深い田で、道幅も狭い。さらに、高根山にいる今川軍から丸見えとなるという悪条件である。
恒興はもう少し待ったほうがいいのではと進言したが、こうと思ったら動くのが信長である。
「奴らは鷲津・丸根砦を落として浮き足立っているだろう。そこを突く。目の前を堂々と進んでやるのさ。尻尾を巻いて逃げ出していく軍に見えたらこっちの勝ちだ」
「そう見えなかったら?」
「おけはざま山に行く前に、
信長は、そう言って笑った。
しかしこの策は、上手くいったようで合戦とはならなかった。
天候は回復せず、むしろ悪化しそうな雲行きである。
濡れ
甲冑の重みに加えて水分を含めば、体力の消費は一段と早まる。
「やはり、多すぎる……」
家臣団の中から、そんな声が漏れる。
誰が放った声かわからなかったが、中島砦に辿り着いた織田軍の表情は今川本隊の数を知らされた時と同じだった。
鷲津・丸根砦を落とされ、討ち死にしたものも出た。
本隊の数が半減していると言っても、四散している今川軍がいまごろ本隊と合流しているかも知れない。
おそらく、彼らはそう思っているのだろう。
――不味いな……。
恒興はどうすべきか、曇天を見上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます