第六章 桶狭間

一、運は我にあり!

 それはまだ――織田信秀が健在で、信長の初陣があった翌年のことである。

「勝三郎――、俺は今川を駆逐くちくする」

「は?」

 思ったことをすぐ実行する信長の癖は、既にこの頃からあった。

 ゆえに恒興が巻き添えを食らうのは、いつものことである。

 

 やれやれ……、また厄介なことを――。


 嘆息する恒興に対し、信長が口を尖らせた。

「今川と、戦をするに決まっているだろう」

 この時、今川は駿河から三河に侵攻、西三河まで攻め上ってきている時期である。

大殿おおとのに、何れと言われたのでは?」

 そう、信長は信秀にも同じことを言ったのだ。

 しかし信秀に軽くあしらわれ、信長は部屋から出されてしまった。

「あのクソ親父、ちっともわかってくださらぬ」

 

 憤慨ふんがいする信長だが、まだ戦の経験が皆無に等しい。

 昨年の信長の初陣において、相手は今川ではなく、三河・大浜城主、長田重元おさだしげもとだったという。

 そのとき那古野城勢人数として八百、対する三河・大浜城には二千以上の兵がいたらしい。兵力差を知った傅役もりやくの平手政秀は、攻撃を見合わせるよう意見してきたそうだが、信長は反対意見を押し切り、那古野城を出陣したという。

 めでたく勝利とはいかなかったようだが、織田の相手は三河・松平氏から駿河・今川氏になりつつある頃である。

 おそらく信秀が信長のやる気を削いだのは、息子にとって未知なる今川と戦わせるのに経験不足であることを思ったのだろう。

「信長さま、もしかしてそこら辺の悪党に喧嘩を売りに行くとの同じ、と思っていませんか?」

 恒興が嘆息すると、信長の目が据わった。

「勝三郎、俺はそこまでうつけではないぞ」

 


 しかし今川を駆逐するといった信長の言葉は、信秀の死後に実行されることになる。決して巫山戯ふざけて言ったのでもなく、喧嘩を売りに行く軽い気持ちで言ったのでもない。信長の本気を、恒興は知ることになったのである。

 そしてついに永禄三年五月十八日、駿河・遠江・そして三河を領する今川義元が、ついに大軍を以て腰を上げた。

 その数、二万五千――。

 初陣がもともと多勢に無勢だった信長は、今川本隊の数を聞いて臆することなく嘲笑っていた。

 

 五月中旬の早朝――、清州城を出陣した信長に従う騎馬は五騎。

 織田軍は各地に配備されているらしいが、この出陣はいきなり過ぎた。

 清州城家臣は慌てて具足を身に着け馬に乗り、気がつけば肝心な主はもう走り出した後である。ようやく追いついた恒興たちだが――。


「妙に嫌な天候ですねぇ? 池田さま」

 騎乗の恒興の隣に、前田利家が並んだ。

「そうだな……」

 清州城を出たときから空は曇っていたが、その色は誰かが墨をぶち撒けたように白と黒を混ざり、なんとも言い難い空色となった。

 信長が率いる本隊は現在、熱田神宮に集結していた。

 

 清須城を出たときはわずか五騎だったが、熱田神宮にくる途中では榎白山神社えのきはくさんじんじや日置城ひおきじよう、日置神社、法持寺ほうじじにも立ち寄り、必勝祈願がてら兵を増やした。

 なかでも三種の神器・草薙の剣を祀るという熱田神宮は、伊勢宮に次ぐ大宮だという。

 古来より剣は権力の象徴かつ、強い意志の表れであるという。

 社の構造は本殿から祭文殿、拝殿を回廊で繋いだ左右対称の建築様式で、尾張地方独特の建築様式・尾張造おわりづくりである。

 

 かの剣を天照大御神とするという熱田宮の祭神は、集まる鎧武者たちをどう見ているのか。

 はた迷惑と思っているのか、それとも弱気になりかけている織田家家臣団を笑っているのか、はたまた天の加護を与えるかどうか考えいるのか。

 人間の分際で、神の御心を知ろうなど烏滸おこがましいとはわかっているが。

天候が怪しくなってきたことをみると、どうやら天はそう簡単にはこの戦を勝たせてはくれないらしい。

 しかし逆境こそ信長は楽しむ男である。

 恒興たち家臣のように、不安で心を満たしてはいまい。

 

 ――俺は、今川を駆逐する。


 少年の日に、そう言った信長。

 ついに、そのときがきたのだ。

 信長の表情は見えないが、またいつもように不敵に笑んでいるかも知れない。


               ◆◆◆


 鬱金色うこんいろに織田木瓜紋の旗印が風に翻る中、下は足軽から上は重臣まで、熱田神宮の境内に千近くの軍勢が集結した。

 おそらく、これまでにない激戦となるだろう。

 武将たるもの戦場いくさばでは死と紙一重だが、信長は己の首はもちろん、尾張を今川に渡すつもりはない。

 信長個人的には今川義元に強い恨みはないが、尾張の主となったからには侵攻してくる敵を叩くしかない。

 

 信長はこれまで坊主や宮司、伴天連ばてれん(※キリスト教宣教師)に会うことがあっても、神や仏の力を借りることはしてこなかった。

 今さら神頼みされも熱田の祭神は聞いてはくれないだろうが、今回の参詣は別だ。

 なんとしても、この戦いには勝たねばならぬ。

 湿った風に顔を撫でられ、信長は空を見上げた。

 鈍色にびいろに染まった空は、今にも泣き出しそうだ。

 

 必勝祈願を終えた信長は、甲冑の背に纏う外套がいとうの裾を右手で捌くと、振り返った。

「今川本陣の場所は掴めたか?」

「おそらく大高を出て、漆山うるしやまに向かったものと思われまする」

 漆山は小川道の西にある地だが、そこからは鳴海が一望できるという。

 

 辰の刻(※午前八時)――、使番から急報が来た。

「申し上げます……! 鷲津、丸根砦、陥落したとのこと……っ」

「殿……っ」

 家臣たちが引きった表情を寄越してくるが、信長は冷静だった。

 よく聞けば両砦を陥落させたその数は千ほど、この間に義元が移動しているとするならば本隊の数は千五百。

 勝てる――、と信長は思った。

 運は、こちらにある!

 

「鷲津と丸根を陥落させた敵将は誰だ?」

「松平元康という男とのこと」

 その名を聞いて、信長はかつて尾張に人質としていた竹千代を脳裏に浮かべる。

 聞いた話によれば竹千代は義元の近くで元服し、元康と名を改めたという。

「へぇ……、あいつか」

 生意気な少年で、信長にもつかかってきた。

 いつの日か、成長した彼と対戦することになろだろうとは思っていたが。

「信長さま、行きましょう。今なら本隊の数は半減しています」

 そんな信長の背後に、聞き慣れた声の主が立った。

 池田恒興である。

「勝三郎……」

 確かに恒興の言う通り、叩くなら今だ。

 鷲津・丸根砦を陥落させたという千の軍が、本隊がいるとされる漆山で合流する前に義元を討つ。

 そんなときだった。 

 神殿の奥深くから、何かの音が聞こえてきた。

 

「敵か……!?」

腰の太刀に手を伸ばす家臣たちだが、出てきたのは人間ではなく白鷺しらさぎだった。

 どうやら社殿の裏で羽を休めていたようだが、あまりの騒々しさに飛び出してきたらしい。だがこれが、必勝祈願の熱田祭神の答えならば、頼もしいことはない。

 もちろん、白鷺は本当に羽休めしていただけかも知れないが。

 

「これぞ熱田の神が我々を護り、勝利に導く印だ!! 運は我にあり!!」 


 信長の声に、集まった織田軍が一斉にときの声をあげた。


                  ◆


 漆山に陣をおいていた今川義元は、織田軍の鷲津・丸根砦を陥落したことに喜んだものの眉を寄せた。

 肝心な、信長が来ないのである。

「奴め、なにを考えておる……」

 そんな義元に、今川家臣・三浦義就みうらよしなりが口角を上げた。

「お屋形やかたさま、奴は我らが兵力に恐れ慄いているのでございましょう」

「信秀ほどの、男ではなかったということか……」

 

 義元は手元で蝙蝠扇かわほりおうぎもてあそびつつ、ふっと嘲笑った。

 三河争奪戦では、義元もかなり手こずった尾張の虎・織田信秀。

 はたしてその息子はどんなものかと思ったが、期待外れのようだ。

 

「もはや、ここに用はない。残りの砦も落とすぞ」

 このとき――、義元は勝ちを確信していた。

 彼は再び塗り輿に乗り、次の布陣場所を目指す。

「お屋形さま、高根山に布陣されるのは如何かと?」

 三浦義就いわく高根山は、善照寺砦、中島砦、鳴海城まで一望できるいう。

「うむ。残りの軍にも知らせよ」

「はっ」

 かくして義元と本隊は、高根山へ移動を始めたのだった。

 

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