第五章 打倒! 今川義元

一、将軍・足利義輝からの使者

 永禄元年――晩秋ばんしゆう

稲葉山では紅葉が始まり、銀杏いちようの木も黄蘗色きはだいろに染まった。

 稲葉山の名の由来は諸説あるそうだが、神代の頃に皇孫・天津彦彦火瓊瓊杵尊あまつひこひこほのににぎのみこと天下あまくだるとき、稲穂をもって雲露うんろを払い、この稲穂が美濃国に飛んできたことから、稲葉山になったという。

 

 深更しんこう(※夜ふけ)の美濃・稲葉山城――。

 父・斎藤道三を倒し、美濃の主となっていた斎藤義龍は、城のいただきで腕を組むと天を見上げた。

 

 雄大な星漢せいかん(※天の川)が、南南東に横断している。まるで信濃からこの美濃を通り、伊勢湾に向かう木曽川のように。

 木曽川の向こう側は、尾張である。

 一旦は和睦により縁を結んだ美濃・斎藤家と、尾張・織田家。

 道三の死後、義龍はその縁を切った。

 

 信長に嫁いだ異母妹いもうと・帰蝶は美濃に帰ってくるだろうと義龍は思っていたが、どうやら帰ってくるつもりはないらしい。

 そんな信長を倒そうと、尾張守護代だという織田信賢おだのぶたか調略ちようりやくした義龍だが、信長にあっさり大敗したという。

 それならばと信長の弟だという織田信行も調略してみたが、これも失敗した。

 そんな義龍の側に、家臣の一人が片膝をつく。

 

「殿、幕府より書状が参りましてございます」

「来たか」

 

 義龍は幕府からの報せを、ひと月前からまだかまだかと待っていた。

 彼の目当ては、室町幕府十三代将軍・足利義輝あしかがよしてるとの謁見えつけんである。

 義龍はこれまで、幕府に上洛じようらくの許可を求めてきた。書状が来たということは、ようやく上洛が許されたのだろう。

 

 ふと、座敷に向かう義龍の歩が止まる。

(待てよ。これは使えるかも知れんな……)

 彼の中に、ある策謀さくぼうが生まれる。

 大胆かつ、相手の隙をつく一手を。


               ◆


 秋の深まりも頂点を極めようとする頃、浮野の地で織田軍と戦った尾張上四郡守護代にして岩倉城主・伊勢守信賢は、数ヶ月の籠城ろうじようの末に城を落ちたらしい。

 聞いた話によれば美濃に向かったそうだが、信賢は美濃の斎藤義龍と繋がっていたのだろうか。

 あとは尾張・笠寺かさでらにしぶとく残る、今川側の人間である。

 

 笠寺の地は、半島のように伊勢湾に突き出ているという。しおが引くと下道したみち(※鎌倉街道)が出現するらしく、鳴海なるみと熱田をつなげているという。

 この笠寺に、今川勢が侵攻してきたのは天文十九年のことであった。

 織田信秀が病に臥せったのを機に、笠寺の地に侵攻してきたようだ。お陰で笠寺の半数が今川のものとされたという。

 

 このとき笠寺にいた国衆くにしゆう(※地元の有力武士)たちは、今川方と織田方に別れたらしい。 記憶に新しいのは、山口教継やまぐちのりつぐだろう。

 元々織田側だった人間で、信秀の死後なんと今川に寝返った男である。

 


 永禄元年、師走――。

 今年も尾張の地を、雪が覆った。

 弟・信行の死からまだ一月も経っていなかったが、信長に悲しんでいる余裕はないようだ。すぐ近くまで、今川が攻めてきているからだろう。

 

「笠寺の城は、ほとんど我軍が奪い返しました」

「残るは鳴海城と大高城おおだかじようか……」

 

 池田恒興の報告に、信長が両腕を組んで眉を寄せる。

鳴海城は山口教継が城主だった城で、教継の裏切りで今川側の城となった。大高城もまた教継の調略で、今川方の手に落ちた城である。

 

「聞くところによりますと、鳴海城主はかの二人(※山口教継とその息子)ではなく、今川家家臣・岡部元信おかべもとのぶという人物とのこと」

 これを聞いて、信長が鼻を鳴らした。

「山口教継らは、恐らく消されたな」

「生きてははいないと?」

「ならば彼らは何処に行ったんだ? 逃げようなどすれば、それこそ義元に殺される。だがこれで、義元が尾張侵攻をまだ諦めていないとわかった」

「ですが鳴海を突破されますと、こちらは不利となります」

「そこはちゃんと考えてあるさ。勝三郎」

 

 信長はそう言って、不敵に笑った。

 そして間もなく信長は、鳴海城周辺に三つの砦を築きにかかった。

 これが信長が考えていると言った、今川侵攻を許さぬための策だろう。

 もはやこの尾張で信長に敵対する勢力は、今川勢だけとなった。

 信長の夢の一つ――、尾張統一は叶い、信長は尾張の主となったのである。


 そして――。


「――織田上総介おたかずさのすけどのはどちらか?」

 

 永禄二年一月――、清州城の城門を直垂ひたたれ(※武家の礼装)姿の人物が潜ってきた。

 聞けば幕府の人間で、信長に会いたいという。

 

「幕府の人間が、わざわざ京からなにをしにきたんでしょうね? 池田さま」

 馬屋で馬を磨いていた前田利家が、その手を止めて恒興を振り返る。

「尾張守護・義銀さまを追放されたのだ。そのことは幕府に伝わっているだろう」

 

 多くの大名は足利将軍や朝廷から守護職や官位を受けているという。使者を介して京との連絡は保っていたようだが、尾張を追われた斯波義銀はもうそれができない。

 幕府としては、なにゆえ守護が尾張を去ったのか知りたいのだろう。

 

「まさか、おとがめを受けるなんてことは……」

 利家が困惑げに眉を下げたが、恒興は否定した。

「詳細も聞かず、それはないだろう」

だがこのとき、恒興の嫌な予感がまたも首をもたげたのだった。


              ◆◆◆


 清州城・大広間――、幕府の使者を前に信長は、どう答えようか思案していた。

 なにしろ、足利一門に連なる尾張守護・斯波義銀を放逐ほうちくしたのだ。

 

 幕府と言えば、尾張に劣らず内紛が続いたらしい。

 なんと六代将軍・足利義教あしかがよしのりが殺害され、それ以来将軍の権威は低下したという。管領細川氏、細川氏の家臣・三好長慶みよしながよしに実権を奪われ、その間に将軍は何度か変わったらしい。

 現将軍・足利義輝もまた一旦は京を追われて近江朽木おうみくちきにいたそうだが、この年に帰京したという。


 使者は上段の間に座る信長を見据え、口を開いた。


御所ごしよさま(※将軍)のめいをお伝え致す。織田上総介信長、上洛して尾張での仔細しさいを聞かせよ――とのこと」

 使者が告げる言葉に、信長は瞠目どうもくした。

 

 ――やれやれ……。

 

 信長は、視線を天井に運ぶ。

 今川や美濃の斎藤義龍がいつ尾張に攻めてくるかわからないというのに、京まで行かねばならぬとは。

 

 幕府の使者が去ってしばらくして、恒興が信長の前に座った。

「ご上洛、めでたきことにございます」

 恒興が低頭したが、信長の心は複雑だ。

「ちっともよくない。堺までなら行ったことはあるが、京となるとさらに遠い。今川に留守を狙われる恐れがある」

「ですが、公方くぼうさま(※将軍)の命ならば逆らえませぬ。それに、ご上洛は尾張の覇王はおうとなられたことを示すことにもなりまする」

 恒興の言葉に、信長は笑った。

大袈裟おおげさだな? 勝三郎」

「いいえ殿は……、信長さまはついに、亡き大殿おおとの(※信秀)が成し遂げられなかった尾張統一を成し遂げられたのでございます」

 

二人の尾張守護守護代を倒し、尾張守護も尾張から消えた。

 弟・信行を失ったことは痛いが、信長は弾正忠家の正式な当主にもなった。

 現在の室町幕府が弱体化していることは、信長もわかっていた。

 恒興いわく、みかどや将軍が在住する京に軍勢を連れて上洛し、将軍を保護する立場になれば、大きな権威を得るという。

 


 信長は夜になっても、上洛に悩んでいた。

 そんな信長の前に、正室・帰蝶がやって来た。

 

「殿――」

「帰蝶、まだ起きていたのか?」

「さきほど、かえでが参りました」

 楓とは道三が使っていた女忍おんなしのびで、帰蝶いわく友だという。

「忍に侵入されるとは、ここは無用心な城だ」

 信長はそう笑ったが、帰蝶の顔は強張っている。

「殿、兄・義龍がまたなにか企んでいる様子……」

「まさかこの清州城に刺客を潜りこせている――、なぁんていうんじゃないだろうな?」

 

 そうなると、忍に侵入されて笑っている場合ではない。

 侵入してきた忍は敵ではないため信長は笑ったのだが、刺客に侵入されては即見つけなければにらない。

 

「兄はそこまで器用な男ではございません。ただ、兄も上洛するようでございます」

 帰蝶曰く義龍は、将軍足利義輝より一色の姓を許されて改名、この年に治部大輔じぶたいふに任官されたという。

 刺客が潜り込んでいなかったのは幸いだが、義龍とも決着はつけねばならないだろう。

 

 美濃の末を案じていた義父、斎藤道三のためにも――。


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