八、遺言~尾張の覇者

 弟・信行との久しぶりの再会――。

 嬉しいような、怖いような複雑な想いと葛藤かつとうしつつ、信長は暮れる夕日を見ていた。

 彼には他にも弟はいたが、信行は信長にとっては一番近い弟であり、初めてできた弟でもあった。

 特に子供時代――、信長は何度、信行に心を救われてきたか。

 信長は一人、遠い日の追憶ついおくふけった。

 

  

「吉法師さま、お待ち下さい! 吉法師さま!!」

 追いすがってくる家臣を振り払い、吉法師は勝幡城しよばたじようの廊下を進んでいた。

 この勝幡城は祖父・織田信定おだのぶさだの代から織田弾正忠家の居城で、吉法師こと信長は、この城で生まれた。

 吉法師はこのとき未だ八歳だが、この勝幡城を出て那古野城で暮らすようになっていた。

 父・信秀が今川方の那古野城を落とし、吉法師が受け継いだのである。

 

「母上!」

「なんです? 吉法師。騒々しい……」

 吉法師の母・土田御前は、やってきた我が子に眉を寄せた。

 きつい表情の母に、吉法師は口を結んだ。

 そんな彼女とは逆に、文机で筆を握っていた少年が嬉々として声を上げる。

 吉法師の二歳下の弟、勘十郎である。

「兄上、これから勘十郎に弓を教えてください」

 しかしその求めは、土田御前に遮られる。

「いけません、勘十郎。弓などそなたには早すぎます。吉法師、その分ではまた寺から抜け出して来たようですね? そなたはこの弾正忠家の跡取りとしての自覚がなさ過ぎます」

 この頃の吉法師は、手習いなどを清須にある寺で学んでいた。

 今日は書の師に褒められ、その報告にやってきたのだが、話す機を逸してしまった。

 恐らく報告しても、母は喜んではくれない。

 嫡男として当たり前、そんなことを自慢するなどと言われるのだ。

 母の諌めに、吉法師の傅役・平手政秀が口を挟む。

「お方さま、吉法師さまはまだ御年八歳にございます」

「政秀どの、幼齢だからとこの子はもう那古野城の主。子供扱いはおやめなさい」

 彼女の剣幕にさすがの政秀も、口を閉じてしまった。

 


「兄上……」

 那古野城に戻ろうと城門へ向かう吉法師を、勘十郎が追いかけて来る。

 まだ六歳ながら、母と吉法師の関係に心を痛めているのだろう。その顔は今にも泣きそうで、必死に堪えているのがわかる。

「気にするな、勘十郎。母上が俺に厳しいのは、俺が那古野城主として頼りないからだ。だから、母上を憎んではならぬ。いいな?」

 勘十郎の頭に手をおいて、吉法師はそう慰める。

 

 それから間もなく、父・信秀は末森城を築城する。

 勘十郎も母とともに末森城に移ったが、吉法師は末森城にも行っている。

勘十郎の笑顔が、吉法師の心を癒やした。

 兄上と、甘えてくる彼が愛おしかった。


 だが元服し初陣を迎えると、尾張がどういう状態かわかるようになってくる。

 しかもこの世は、騙し騙されの乱世。

 いつ誰かが裏切るか、わからないという。

 誰が敵で、誰が味方か――。

 ゆえに吉法師改め信長は、うつけになった。

 ともに行きていく者を見定めるため、彼は『うつけ』を演じた。

 まさか、勘十郎と対立することになるとは思いもせずに――。



いったいなにが、悪かったのか。

 信長はただ、信行と二人で尾張を立て直したかっただけである。

 信行なら理解してくれると思っていたのは、信長の独りよがりなのだろうか。

 それを彼は今夜、確かめる。

 ただここにきて、またも信行を欺かねばならないことに、信長は複雑である。

 まるで誘き出すような手を使ってまで、弟に会わねばならぬとは――。



「――信行を……誘き出すだと……?」

 信行に逢いたいという信長の想いに対し、池田恒興が応えた。

「はい。信行さまは殿が逢いたいと言われましても、警戒されて来られないと存じます。故に、殿には病ということになっていただき、信行さまを末森城から誘い出します」

「そのようなこと――」

「躊躇われるのは百も承知にございます。殿が信行さまをどんなに想ってきたか。この策が卑怯なことも存じております。なれど、他に方法がございましょうや」

 確かに恒興のいう通り、他に会う手立てはなかった。

 信長が末森城に行けばいいが、それもかえって警戒されると恒興は言う。

 信行が信長のことを警戒しているのなら、病と知ってものこのこと見舞いにはやってこないだろう。

 だが、それから間もなく信行から書が届いた。

 信行が会いに来る、信行は昔に戻ったのだ。

 病のことを気遣うその手に、信長の心は震えた。

 


 なのに――。

 

 やり直せると思っていた信長の思いは、信行の殺意で砕け散った。

 

                  ◆◆◆


「兄上――!!」

 清州城・信長の部屋に、信行の声が響く。

 信長は、信行の気配に最初から気づいていた。

 背後で鞘から刀を抜く音も、はっきりと聞こえていた。

 当然だ。信長は眠ってなどいなかったのだから。

 

――勘十郎、それがお前の答えか?


「信行っ!!」

 あと一歩遅ければ、信行が振り下ろしたものは信長の心の臓を貫いていただろう。

 寸前で飛び起きた信長に、信行が嘲笑った。

「さすがは兄上、人を欺かれるのがお上手だ……」

 信行のその顔は、信長を慕っていた頃の穏やかで優しく、温かいものではなかった。

「そんなに、俺が憎いか?」

「ええ。私がどんな想いだったかなど、ご存知ないでしょうね。私をこんな風にしたのは兄上、貴方だ!」

 

 睥睨へいげいし憎悪を向けてくる信行に、信長はまだ信行とやり直せると思っていた。

 同じ腹から生まれた兄弟なのだ。もつれた糸は何れ解ける。今は無理でも、きっと。

 

「俺はお前と争うつもりはなかった!」

「もう手遅れです、兄上」

「俺は――、死ぬわけにはいかないんだ……!」

 

 父・信秀が成し得なかった尾張平定――、同族の対立をなくし、尾張を強くするという信長の夢。

 その夢のためにうつけを演じ、それゆえに何人犠牲にしてきたか。

 そうだ、信行。おまえを変えてしまったのは俺だ。

 信長は信行と対峙しつつ、自身を責めた。

 

「今度はなにをされるおつもりです? この尾張を我が物にするおつもりですか? 斯波さまを追い出した次は、今度はこの私まで追い出すと?」

「違う!! 尾張守護は今川をこの尾張に引き入れようと画策したゆえ、追放にした。それに俺は尾張を手に入れようなど思ってはいない」

「詭弁です、兄上。守護代・伊勢守さまが斃れれば、兄上がこの尾張の主」

「伊勢守に何を言われたかは知らんが、仕掛けて来たのは向こうだ」

「もうどうでもいいんです、兄上」

 

 信行の表情が、ふっと解ける。

 信長には、このときの信行の心がわからなかった。

「どういうことだ……?」

「決着をつけましょう、兄上。あなたが消えれば、私こそ尾張の主となる。ふふ、母上は喜ばれましょう。昔から母上は、私を良く褒めてくださりましたゆえ」

 再びきつく睨んでくる信行は、短刀を握り直した。

「信行……」

「さらばでございます。兄上」

 信行が短刀を振り上げ、畳を蹴った。

 


 ◆  

 

「のぶ……ゆき……?」

 信長は自分がそのときなにをしたか理解出来ていなかった。

「兄上……」

 信行は信長のすぐ近くまで来ていた。短刀を振り上げたままで。

「お前――」

「これで……やっと終わる……」

 

 信長は、そこで自分がなにをしたのか理解した。

 おそらく、自衛本能が働いたのだろう。

 枕元にあった脇差しを抜いていたようだ。しかもその刃は、信行の腹を深く捕らえていた。真っ赤に染まる信行の小袖に、信長は悟る。

 

「なぜ――、何故避けなかった!? 勘十郎!!」

 信行も、織田信秀という武将の子である。相手が刀を向けてくれば躱す術を知っているだろう。敢えて真ん中に突っ込んでくるのはよほどの命知らずか、死を覚悟した者のみ。

 信行は、死ぬつもりだったのである。

 敢えて信長を挑発して、脇差しを抜かせた。

 

「よう、やく……、勘十郎と呼んでくださいましたね。昔のように……。どうか……ご自身を責めないでください、兄上。こうするしかないんです。私が消えれば、もう誰も私を担いで兄上の邪魔はできなくなります。理解っていたんです。私に弾正忠家の当主は務まらないと。人の顔色ばかり見て、評価されることを期待していました。結果、戦まで引き起こしました」

「お前の所為じゃない」

「兄上、私を許してはなりませぬ……、け、して――」

 

 そこまで言って、信行が激しく吐血する。

「勘十郎!」

「父上は本当に凄い人です。兄上のことをきちんと理解しておられた。なのに私は――、兄上を信じらませんでした。兄上、どうかこの尾張の――」

「もうなにも言うな」

「兄上、約束です。必ずこの尾張の覇者に。この尾張を納められる方は、兄上だけなのですから……」

 信行の手が、震えながら信長に差し出される。

「わかった。だからもう……」

「あに……うえ……、かなら、ず……、尾張の覇者に……、なって……」

 

 そのあとの、信行の言葉は続くことはなかった。

 弛緩する信行の躯が、信長にその重みを伝えてくる。

「勘十郎っ!!」

 冷たくなっていく信行の躯を、信長は強く掻き抱いた。

 織田弾正忠家三男・織田勘十郎信行――、享年二十二歳。

 すれ違い続けてもつれた兄弟の糸は、最後に漸く解け、結び直された。

 しかしそれは、あまりにも遅すぎた。 


――約束する、勘十郎。俺は必ずこの尾張を平定する!


 白み始めた東の空に向かい、信長はそう誓った。

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