二、上洛! 都に翻る織田木瓜紋

「織田が鳴海城周囲に――、砦を築いているだと……?」

 

 駿河・今川館いまがわやかた――、今川家家臣・松井宗信まついときのぶからもたらされた報せは、今川義元の心を不快にさせた。

 尾張・織田との因縁は織田信秀の頃から続いているが、どちらかと言えば勝機しようきは今川にあった。でなければ、尾張・笠寺かさでらまで侵攻できていないだろう。

 それが奪取した笠寺の地はほとんど織田に奪い返され、残る鳴海城と大高城が危ういという。

 ただでさえ鳴海城は山口教継から、城主を配下の岡部元信に変えたばかりだ。

 

「お屋形さま……」

 宗信が、不安げな顔を寄越よこしてくる。

「雪斎を失ったことは大きいのう……」

 

 これまで今川軍を率いていたのは太原雪斎たいげんせつさいである。

 尾張・織田との因縁は天文十五年十月、織田信秀が西三河に侵入してきたことから始まる。

 

 それまで三河の地は応仁の乱後、松平郷から起こった松平氏が西三河一帯に勢力を拡張したという。しかし三河国岡崎城主・松平清康まつだいらきよやすが、尾張・春日井郡森山の陣中において、家臣の阿部正豊あべまさとよに暗殺された事件を機に、松平氏の勢力は瓦解がかいしたらしい。

 これにより、織田軍が安祥城を占拠。松平広忠の救援を受け、義元は雪斎に大軍を率いて西三河に向かえと命じた。三河小豆坂で織田信秀率いる織田軍を破ったのも、雪斎である。

 その雪斎は病となり、今や黄泉の国の人と化した。

 

――やはり、わしが動かねばならんか……。

 

 扇子を開き、義元は一人の青年を見据える。

 松平元康まつだいらもとやす(※のちの徳川家康)――、かつて竹千代と名乗っていた少年は、今や立派な若武者である。

 昨年の永禄元年、織田方に寝返った加茂郡寺部城主かもぐんてらべじようしゆ鈴木重辰すずきしげるたつを元康は攻めた。

 これが彼の、初陣である。

 

「元康。そなた、信長に会うたことがあると以前、申していたな? 如何いかなる男じゃ?」

「変わっている人物でございます」

「変わっている、か……。奴に勝てるか?」

「戦ってみないことにはわかりませぬ」

 元康は三河との同盟の折に人質としたが、義元は成長した彼に期待していた。もしかすれば、太原雪斎を凌ぐ武将になるだろうと。

「お屋形さま。岡部どのの話では軍の士気が下がりつつあるとのこと」

「わしがいかねばなるまいのう」

「お屋形さまのご出陣とならば、織田は震えあがりましょう」

 義元は宗信に告げた。

「元信に伝えよ。わしが行くまで、なんとしても鳴海城を死守せよと!!」


                  ◆


 永禄二年二月――、室町幕府十三将軍・足利義輝の求めに応じ、信長が腰を上げたまでは良かったが。

 

「本当に、これだけでいくつもりですか?」

 

 池田恒興が出立間際しゆつたつまぎわになって、信長に不満をぶつけてきた。

 恒興がいうには、もっと軍勢を連れて行ったほうがいいらしい。

確かに上洛に際し、供は池田恒興、前田利家、佐久間信盛、佐々成政ら重臣と、長槍を携えた兵、織田木瓜紋の旗印をもつ旗持ちの足軽など凡そ五百名である。

 信長は戦をしにいくならともかく、将軍に謁見するのに大軍はいらないだろうと思ったのだが、恒興は一旦不満を口にするとこれがしつこいのだ。

 

「お前なぁ……、いい加減に納得しろ」

 恒興の性格は充分知っている信長だが、このままでは京に行くまで何日かかるか。

「もし敵に襲われればなんとしますか? それなのに――」

 視線を流す恒興につられて信長も視線を運ぶと、嬉しそうな前田利家と目が合った。

「は?」

 二人の視線を同時に受けて、利家が一驚いつきようする。

 恒興が、ため息をつく。

「――利家……、京には物見遊山に行くわけではないんだぞ」

「ですが池田さま。京の都は帝と公方さまがおられます。きっと華やかなんでしょうね?」

「…………」

 

 利家の言葉に、今度は額を押さえる恒興であった。

 楽天家な利家に、呆れているのだろう。

 そんな恒興の肩をぽんと叩き、佐久間信盛が口角を上げた。

「まぁまぁ、恒興。お前の心配性は今に始まったことではないが、敵の目を避けるにはこれもありではないか。のう? 殿」

 同意を求められた信長は、答えた。

「ああ」

 このときの信長たちの出で立ちは、小袖袴こそでばかまに袖なしの羽織、頭に菅笠すげがさを身につけ、網袋あみぶくろ(※荷物入れ)を背中に肩から腰にかけて背負うというものだ。

 信長としては少人数で上洛するのは意図したものではなかったが、確かに信盛のいうとおり、敵の目にはつきにくいだろう。

 それに信長は上洛と言うより、挨拶がてらの状況報告ぐらいしか思っていなかった。

 尾張から山城国やましろのくに(※現在の京都府)までは、馬で二日あれば着くだろうか。

 

「行くぞ!」

 信長は手綱たづなを引き、山城国は京の都を目指した。


                ◆◆◆


 京における幕府設立のきっかけは、配流先の隠岐おきから京都に戻った後醍醐帝ごだいごていが、「建武の新政」と呼ばれる政治改革に着手したことから始まるという。

 その政策は帝中心で、武士をないがしろにする内容であり、武士の間で不満が募っていったらしい。


 そこで足利尊氏が挙兵し、京都を制圧したという。

 後醍醐帝に退位を迫った足利尊氏は光明帝を擁立し、幕府を開いたという。

 これが現在の、室町幕府である。

 だが朝廷は南北に分かれ、その対立は六十年間も続いたらしい。

 そして今度は、応仁の乱だ。

 しかもこの応仁の乱の火の粉が、尾張まで飛んできた。

 織田一族が分かれるきっかけが、この応仁の乱だからだ。

 お陰で尾張では同族同士が対立するまでになり、信長も大事なものを失った。


 ――兄上。尾張の覇者に……。


 弟・信行の最期の言葉が、信長の胸を熱くする。


 見上げた空は好天こうてんではなかったが、信長は次なる目標を見定めていた。

 おそらくかの男――今川義元も、同じだろう。

 決着をつけるべく、必ず彼は出てくる。

 信長は、そう信じていた。

 

 京へ向かうには、西美濃から関ケ原を通らねばならない。

 そうなると、斎藤義龍が黙っていないだろう。それこそ、合戦である。

 五百の軍勢で斎藤軍を迎え撃つのは、いくら信長でも無理である。しかもそうなれば恒興に、だからもっと軍勢を増やせと言ったのだと言われかねない。

 そこで信長は、伊勢から大和路を奈良に進む路をとった。 

 途中、堺にて鉄砲の師・橋本一巴と落ち合い、信長は新たに数百挺の火縄銃たねがしまを依頼した。

 家臣たちは見慣れぬ南蛮船に驚愕きようがくしていたが、京の都はさらなる衝撃を与えたようだ。


 幾つも連なる寺社仏閣、縦横に走る大小の路、幕府が置かれる以前から帝が座すもとの都だという。

 永禄二年二月二日――、信長一行は京に入った。

 だが信長たちを見る京の民の目は、訝しげだ。

 応仁の乱がどういうものだったか知らなそうな者でも、誰かから伝え聞いているのだろう。また都で、戦が始まるのではという目を寄越してくる。

 もちろんすべての者が、そう思っているのではないだろうが。


足利将軍家は以前は花の御所に在していたが、現在は二条御所に在しているという。

 花の御所は三代将軍・義満の代、その庭内に鴨川から水を引き、各地の守護大名から献上された四季折々の花木を配置したことから花の御所と呼ばれるようになったという。

 やがて現将軍・足利義輝によって、二条御所が将軍の座所となったらしい。

 そんな二条御所を目前にして、直垂姿の男が信長たちの前に立った。

 

「織田上総介どの、お待ちしておりました」

 立礼する男に、信長は見覚えがあった。

 信長が幕府の人間と会うのは、清州城に使者としてやってきた男とこれで二人目だが、それ以前から目の前の男と会っているのだ。

 対し目の前の男は、こちらが気づいているとは知らないようだ。

 

「――殿」

 恒興も気づいたようだ。

 目の前の男が、幕府側の人間ではないことに。

 

「どうやら、待っているは将軍ではなさそうだな」

 帝と将軍が座すこの都で、随分と大胆な策を講じたものだと、信長は男の裏にいる存在を鼻で笑った。

 

 

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