三、池田恒興、激怒す!
まだ八月だというのに、もう秋風らしいものが周囲の木の葉を揺すぶり、樹木で鳴いているのも
信長は馬を止めて、尾張を一望する丘にいた。
雄大な濃尾平野に、尾張三山、四季折々に変化するこの自然の中で、人々は反目し合う。
だがもうそれは、終わらせなければならない。
「本当に――、良かったのでしょうか……?」
共にやってきた異母弟・信時が、気遣わしげに問うて来る。
「良くは……、ないだろうな。今頃、清州城では騒ぎになっているだろう」
当然だ。誰にも告げず、城を抜け出したのだから。
清州城に移ってまもなく、信長は抜け穴を発見した。
主郭のある部屋に入った時、床板が微妙にずれていたのだ。
清州城の前の主は、今は亡き尾張下四郡守護代・織田信友である。彼の家臣だった酒井大膳は、そんな主を見捨てて逃亡したという。
誰もその姿を見ていないというゆえ、おそらく床板をずらしたのは彼だろう。
抜け穴を用意したのは信友か、それとも酒井大膳か定かではないが。
その抜け穴を発見したとき恒興も一緒で、疑わしい目を信長に寄越してきた。
まさか、使うつもりはないだろうなと言いたいようだ。
このとき信長は、そんな気はなかった。
抜け穴を使うようなことは起きないと、笑って答えた。
――勝三郎の奴、怒っているだろうな。
信行と同じ二歳下の恒興とは、子供のときから一緒だった。
真面目過ぎるのが玉に
その恒興にも告げす、信長は清州城を抜け出した。
信時は巻き添えを食らった形になったが、さすがに信長一人で行かせられないとついてきた。
抜け穴は、清州城から少し離れた枯れ井戸に通じていた。
これから向かう場所は、十年以上も過ごした那古野城。
おそらくそこには、信長を見限ったという林秀貞がいるだろう。信長は彼らを責めるつもりはないが、突然の信長の来訪をどう思うだろうか。
信長は、弾正忠家後継者を信行にしたいのであれば、そうすればいいと思っている。
そもそも亡き父・信秀は、はっきりと後継者はお前だと信長に告げてはいない。
信行は温厚で、優しい男である。彼なら、二つに割れる織田家家臣を纏められるだろう。
ただ、信行は戦は不慣れだ。
尾張を、今川などから守れるだろうか。いや、戦わずして和睦に至るかも知れぬ。
信長が聞いた話では、今川と手を組んだほうがいいという家臣がいるという。
信長は、尾張が第二の三河となりそうで不安だった。
三河は、今川の
三河・松平家は今川の下につき、現在も今川勢として織田と敵対している。
今川と手を組むなど、信長には絶対ありえないことなのだ。
「――と、殿……!?」
那古野城についた時、林秀貞は蒼白だった。
「久しぶりだな? 秀貞」
「いったい如何されたのでございますか?」
やはり秀貞は、突然やってきた信長に困惑していた。
「俺が来たらいけなかったか?」
「いえ、そのようなことは……」
林秀貞は、明らかに動揺していた。視線が何度か外され、しきりに奥を気にしている。
おそらく、弟の通具でも隠れているのだろう。
「遠乗りの途中で立ち寄っただけだ」
「家臣をお連れにならず――、でございますか?」
信長の意図を探ろうしている秀貞に、信長は笑って答えた。
「そんなこと、昔もあったじゃないか。よくお前に睨まれたが」
「殿はもう、あの頃とは違いまする」
「いや、俺は今でもうつけさ。だがな、秀貞。俺にはこれからやることがある。ゆえに――」
信長は視線を、秀貞の背後に向けた。
秀貞の弟、通具が隠れているその場所に。
「この首をやるわけにはいかないんだ」
その言葉に、秀貞が
信長は二人が命を狙ってくるとまでは思っていなかったが、秀貞の反応から何かしらの策謀があったようだ。
しかし二人が信長を狙ってくることはなく、信長は那古野城をあとにした。
もうこの那古野城に、戻ってくることはないだろう。
懐かしい少年時代に別れを告げて、信長は清州城へ駒を進めた。
「信長さまっ!!」
そう呼ぶ声に、寒蝉が鳴くのを止める。
「勝三郎……?」
そこには、恒興がいた。
◆◆◆
池田勝三郎恒興の母・
恒興が末森城に召されたのは、天文十四年のことであった。
まだ十歳の子供だった恒興はわけがわからぬまま連れてこられ、できることなら逃げ出したい心境だった。
「――これ勝三郎! 殿の御前ぞ」
「構わぬ、政秀。相手はまだ子供じゃ。それにコレの相手に歳も丁度よい」
信秀にコレ扱いされたその人物は、信秀が座る上段の間の下に座り、なにが面白いのかにっと笑っていた。おそらく恒興と、さほど歳は変わらないだろう。
ただ奇妙な出で立ちはしていたが。
「吉法師さまのお相手が務まりまするかどうか――」
平手政秀の話半分で、その少年が立ち上がった。
「父上、お話が終わったようなのでこれで失礼致しまする。来い! 勝三郎」
「え……」
突然腕を掴まれ、恒興はその場から拐われた。
「吉法師さまっ! 本題はこれからにございます!!」
「お前の話は、いつも長過ぎるんだ。爺」
それが――恒興と、信長の最初の出会いであった。
恒興は、幾度となく信長に振り回された。
恒興が泳げないと知ると、川に突き落とされたこともある。
それでも恒興は、信長に対して抗議はしても怒りをぶつけることはしなかった。
「貴方はどうして、こうも勝手なんですか!?」
恒興は、怒っていた。
本気で、信長に怒っていた。
「さすがに、愛想をつかしたか? 勝三郎」
「それができるくらいなら、とっくにしています! ですが、今回は最悪です!!」
恒興にとって信長は乳兄弟だが、主君なのである。
たとえなにがあろうと、側にいようと決めた主なのだ。
それなのに――。
「私は、信長さまの家臣として頼りになりませんか!? 信じられませんか!?」
清州城から信長が消えて、恒興の心は張り裂けそうだっだ。
子供の頃、恒興は信長に言った。
――勝三郎は吉法師さまの家臣でございます。主君を守り、いざとなれば盾となるのが家臣の務め。
それは、今でも変わることはない。
なのに信長は、そんな恒興を欺いて城を抜け出した。
それが悔しくてならない。
この世は家臣だろうと主に刃を向ける下剋上、那古野城の林兄弟が刀を抜かないとは限らない。そんな敵陣にも等しい中に、信長は向かっていった。
それでは誰が、信長を守る? 誰が盾となる?
信長は無事に帰ってきたが、死んでいた可能性もあったのだ。
「勝三郎……」
「貴方はこの尾張を平定すると言われた。それが夢だと。だったら、なにゆえ身を危険に晒すようなことをされるんです!? なにかあれば、その夢は叶わないのに!」
「初めだな。お前が怒ったのは」
「私を怒らせるのは、これを最後にしてください!」
怒るだけ怒ると、自然に涙が溢れた。
張り詰めていた心が解け、主君の無事な姿を前に視界が涙で霞む。
「悪かったな……。勝三郎」
信長の無謀は、おそらく治りはしないだろう。
それでも恒興は、彼に背を向けることはしない。
なぜなら、そう決めたのだから――。
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