二、 消えた信長

 弘治二年、夏――。

 この年、かねてより疑惑の人物――、林秀貞はやしひでさだがついに動いた。

 

 林秀貞は亡き平手政秀と共に、一番家老として信長付きの家臣となり、古渡城ふるわたりじようで行われた信長の元服では介添え役を務めるなど、信長の後見役と言える存在であった。

 だがしばらくすると弟の通具みちともとともに、信長の行いに眉を顰め始め、しまいには陰口を言い始めた。


 その報せが届いたのは那古野城の織田家家臣からで、林秀貞が数人と密談しているのを聞いたらしい。


 末森城の信行さまを弾正忠家当主として担ぐことにした――と。

 

そもそも秀貞は、信長が那古野城から清州城に移った際に、主君の留守中に諸事を采配する役目である、留守居役るすいやくを任せられていた男である。

 これに憤ったのが、佐久間信盛さくまのぶもりである。

 

 

「秀貞め……、許せん!」

 信盛は秀貞同様、先君せんくん(※先代の主君)織田信秀に仕え、信長の吉法師時代から重臣として側に仕えてからは信秀死後の家督相続問題でも、一貫して信長にたくしている。

 清州城主郭きよすじようしゆかく(※のちの本丸)広間には、佐久間信盛の他に池田恒興、佐々成政、森可成らが顔を揃え、皆同じように眉を寄せていた。

 

「恒興、殿はなんと?」

 成政に話を振られ、恒興は「特に気にされておられぬ様子」と答えた。

 そう、信長は秀貞に見限られても「放っておけ」と言うのだ。

 

 人の心が離れていくのは、この世では珍しくはない。

 己の野心、または生き残るためにはあるじにも背を向ける。

 いまや信長をうつけとは誰も言わなくなったが、織田家家臣は未だ二つに割れたままだ。

 ゆえに、森可成が眉間に皺を刻む。

 

「問題は、信行さまだ。末森城には殿とのの御母上と柴田どのがいる。お二人共、弾正忠家当主は信行さまとしているというではないか」

「確かに信行さまの性格上、周りに推されるままにお気持ちも動かれよう」

 可成の言葉に、信盛が続いた。

 確かに聞いた話では、信行は温厚で真面目な青年だが、人の意見に流されやすいという。そんな人間が当主となればどうなるか、彼らにはわかっているらしい。

「しかし、守護代・大和守の後ろ盾はもうないぞ」

「いや……、伊勢守さまが背後につけばどうなるかわからんぞ」

「まったく、厄介な方が出てこられたことよ」

 

 尾張にいるもう一人の守護代、織田伊勢守家――。

 なにゆえ、信長と協力し尾張の安定を求めようとはしないのか。

 恒興は信盛たちの会話に耳を傾けながら、膝の上で拳を握った。

 その伊勢守がどう想っているかはわからないが、敵対を始めたことは確かだろう。

だが問題はそのことではなく、信行がはっきりと敵対してきた場合だ。


 ――そうなれば信長さまは、信行さまと戦わねばならなくなる。


 信長は、恒興にもはっきり言っている。

 俺は信行と争うつもりはない――、と。


                    ◆


 蝉時雨が一層盛んになったひる――、守山城から異母弟・織田信時おたのぶときが信長を訪ねてきた。

以前の守山城主は叔父の信光だったが、大和守家ま断絶により信長は清州城に移ることになり、空いた那古野城を信光に譲った。

 だが信光は急死し、次にに守山城主となったのが、信光の弟であり信長の叔父でもある織田信次である。

 しかしこの叔父は、信長と信行と同じ同腹の弟・秀孝を、信光の家臣が弓で誤射するという事件を起こす。これにより信次は逐電ちくでん、その後守山城主となったのがこの信時である。


「ご無沙汰ぶさたしております。異母兄上あにうえ

 軽く笑顔を浮かべて面を上げたのぶときを、信長は上段の間から見下ろした。

「守山城の住心地はどうだ? 信時」

「まだ落ち着きませぬ」

 確かに城主が何度も変われば、落ち着かないのは最もだろう。

「俺も似たようなものだ」

 

 清州城に移ったのはいいが、尾張の状況は良くなるどころか、今度は伊勢守まで敵対してきた。

 

「いずれ、尾張は静かになりましょう」

「俺はそうしたいが、向こうがそうさせてくれなくてな」

「――林秀貞が、異母兄上を裏切ったと聞きました」

 林秀貞が自分のことをなんと言っていったか、信長は知らないわけではなかった。

 うつけよ、あれでは弾正忠家の跡取りとはいえぬと囁かれてきたことも、信長の耳にはちゃんと届いていた。

「嫌われることに子供の時から慣れてはいるが、頼りにしていた人間がこうも離れていくと、俺でも堪える」

 

 斎藤道三という大きな存在を失ったことが、信長を弱気にする。

 この先も、誰かを失う――信長は、そんな予感がしていた。

 

「珍しいですね? 愚痴など言われなかった異母兄上が……」

 信時が、憐れむような顔で見上げてくる。

 だが今、心を折られるわけにはいかないのだ。

 戦国の世を、生きていくためには。

「俺の気分転換はなにか知っているか?」

「え……」

信時は怪訝な顔をしていたが、信長はこのときある行動を実行しようとしていた。


                   ◆◆◆


 ――ようやく、おわったか……。


 恒興は清須城の書庫にて、半分埃はんぶんほこりまみれになりつつひたいの汗を拭った。

 広間での会議のあと、小姓達を総動員しての初の書庫整理である。

 書庫の扉は何十年も開けられた形跡がなく、積まれている書がどんな状況だったか況んや、である。


 ――しばらく治まっていたと思ったが、また始まったか……。


 恒興は大仰にため息をつくとともに、書庫を片付けろと命じた主を恨めしく思った。

 そう、書庫をかたづけろと命じたのは信長なのである。

 書でもお読みになるのかと問えば、「まぁな」という返事である。

 まるでいたずらを企てる子供のように笑う彼は、恒興が知る昔ながらの信長だが。

 だがこのとき恒興は、朝から嫌な予感がしていた。

 これまでも嫌な予感は覚えてきた恒興だが、今回のは会議中でも上の空になりかけるほど、心が落ちつなかい。

 そもそもなぜ信長は、今になってこの書庫を片付けろと言い出したのか。

 清州城に移って暫く経つが、書庫のことなど一度も口にしなかった彼が。


「池田さま……?」

 手を止めた恒興に、小姓の一人が訝しがって声をかけてくる。

「ここはお前たちに任せる」

 そういうや、恒興はその場を飛び出していた。

 

                  ◆


「――なぁ、勝三郎。俺がもしいなくなったらどうする?」

 木曽川の流れを見つめ、まだ十三歳の吉法師がそんなことを言い出す。

 そんな吉法師に小姓として仕える勝三郎も、まだ十一歳である。

 のちの織田信長と池田恒興の二人三脚は、子供の時から始まっていた。

「縁起でもないことを、言わないでください」

「今じゃなくても、戦となれば人の命などわからんだろう?」

 吉法師は笑っていたが、勝三郎は真面目に切り返す。

「吉法師さまは、私がお守りします。たとえ――なにがあろうと」

「こんなうつけを守っても、嗤われるだけだぞ?」

 確かに彼は勝三郎から見ても変わった少年だったが、彼にとっては主君である。

「勝三郎は吉法師さまの家臣でございます。主君を守り、いざとなれば盾となるのが家臣の務めと父から教わりましてございます」

 


 あれから十数年――、勝三郎こと恒興の思いは変わらない。

 主君である信長を支え、ときには盾となって主君を守る。

 尾張平定という信長の夢は、ともに歩むと決めた恒興の夢ともなった。

 

「失礼いたします。池田恒興にございます。殿」

 信長の部屋の前にきた恒興は、膝を折った。

 だが中からの声はない。

「――如何されましたか?」

 衣擦れの気配に振り向くと、帰蝶が不安げな顔をして立っていた。

「お方さま」

「なにか、あったのですか?」

「いえ、そういうわけでは――。殿はどちらにおられましょうや?」

「私は見ておりませぬ。またいつもように遠乗りでは?」

「それならば、誰かが気づくかと……」

 

 城を出るには、家臣たちの詰め所を通らねばならない。さらに馬に乗るにしろ徒歩にしろ、馬番や城番にも姿を見られる。

 しかも相手が主君となると、誰からが共として行動する。

 恒興はここにくるまで、全てに信長は何処かと聞いて回っている。なのに見つからない。

 

 ――なぁ? 俺がいなくなったらどうする?


 子供の頃の記憶が、恒興の脳裏に蘇る。

 今になり、何故思い出したのか。

 同時に、もう一つ思い出したものがある。

 

――信長さま……!


 誰にも見つからず、この城を出る方法が一つだけある。

 いつもなら堂々と城を抜けていた信長が、今回は何故そうしなかったのか。

 もし城を抜け出したのならその行き先は――。

「……っ」

 恒興は悲憤に唇を噛み締め、握った拳を揮わせる。

 そしてその感情のまま、恒興は馬屋へと向かっていった。

 

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