第四章 尾張の覇者

一、 無念の撤退! 道三、長良川に散る

 弘治二年四月、――美濃。

 斎藤義龍は長良川を挟んで、鶴山の方角を見据えていた。

 鶴山には、隠居した父・斎藤道三の本陣がある。

 鶴山は背後に眉山びざん、街道を挟んで百々ヶ峰ももがみねの西に位置しているらしい。

 これから実の息子と戦わねばならぬ男は今、なにを想うのか。

 

 ――こうなったのは、あなたの所為だ。父上。

 

 もはや修復不可な、父子関係おやこかんけい

 斎藤家嫡子さいとうけちやくしとして度々父に助言するも、父・道三は「愚か者」と評してくる。

 弟たちは評価され、なにゆえ自分は軽んじられねばならぬ。

 義龍の道三へのいきどおりは、日増しに募った。

 

 しかも、末弟の喜平次には「一色右兵衛大輔いつしきうえもんのすけたいふ」と名乗れと言ったという。

 末弟には名門一色氏の姓と官途かんとを与え、次弟の孫四郎を嫡子とするならば、義龍はこのままでは廃嫡される恐れがある。

 昨年の十一月二十二日、義龍は動いた。

 二人の弟を、叔父・長井道利ながいみちとしの協力を得て謀殺したのである。

 

 道三は稲葉山城を退いてから鷺山城さぎやまじようにいたが、この報せに大桑城おおがじように逃れたという。

 こじれに拗れた関係はついに、決戦へと至った。

 

「殿――、全軍準備が整いましてございます。あとは殿の下知げち(※命令)を待つばかり」

 義龍はこのとき、勝ちを確信していた。

 家中のほとんどは義龍を支持、義龍軍は総勢一万七千五百に膨れ上がった。

「出陣だ! 狙うは斎藤道三の首!!」

 もはや義龍に、父を討つ迷いはなかった。


                  ◇


 尾張・清州城――、春告はるつどり(※うぐいす)が去り、城下の桜が散り始めた頃だった。

 今川勢侵攻に備えていた信長の元に、思わぬ報せが飛び込んできた。

 書状を開いたところに帰蝶が侍女を伴って敷居を跨ぎ、眉を寄せた信長に帰蝶もつられて顔を曇らす。

 

「――美濃の舅どのからだ」

 帰蝶に気づいた信長が、帰蝶が「どなたから?」と聞いたわけでもないのに、そう告げた。事態は、緊急を要していたからだ。

「父上から……?」

「義龍どのと、戦をするとのことだ」

 帰蝶の顔が、一瞬にして強張る。

 当然だ。帰蝶にすれば義龍は腹違いとはいえ兄、その兄が父・道三に対して挙兵したのだから心中は複雑だろう。

 

「殿、たとえ両者のどちらかが斃れたとしても、私はもう織田家の人間にございます。肉親であれ、戦わねばならぬのがこの世ならば致し方ないこと」

 さすが、蝮の娘である。肝が据わっている。

 書状に寄れば義龍軍一万七千五百に対し、道三の軍勢は二千七百。

 信長の決断は早かった。

 

「恒興!」

 信長の声に、恒興が敷居の外で膝を折る。

「お呼びでございますか?」

「すぐに家臣たちを集めろ! 斎藤道三救援のため、出陣の用意だ!!」

 

                    ◆


 弘治二年四月十八日――、長良川を挟んでかの父子は向かい合った。

 だが道三の軍勢は、あまりにも少ない。

 皮肉にも、彼が美濃の主となるまでの行いが今になって響いたようだ。

「狙うは斎藤道三なり!!」

 義龍軍先手は、竹腰道鎮たけごしどうちんという男が率いる五千の手勢であった。

「たわけっ! この首はそう安々とはやれぬわ!!」

 道三の一喝いつかつで竹腰軍はじ、竹腰は討ち死にした。 

これを見た義龍が、自ら軍を率いて川を越え陣を固めた。


 ――来るか、義龍……!


 道三は優勢に戦いを進めるものの、やはり数では劣る。そんな道三の前には義龍勢が押し寄せてきた。

 道三軍はついに崩れ始め、一人の武将が道三めがけて駒を進めてきた。

「道三の首、この小牧源太こまきげんた頂戴致ちようだいいたす!!」


 ――あの小牧か……、皮肉よの。


 小牧源太はかつて、道三の家臣であった。

 美濃屈指の槍の使い手と言われていたが、どうやら道三のやり方に不満があったらしい。途中からその姿を見かけなくなった。まさか、義龍のほうにいたとは。

 一介の油売りが美濃の主となって十四年――、悔いがあるとすれば、美濃をさらに強くし、広い海を見たかったが。

 道三は空を仰ぐ。


 ――わしの婿殿むこどのなら、それを成すだろう。この美濃を強くするというわしの夢を。


 向かってくる小牧源太に視線を戻し、道三は笑った。

 やれるものならやってみろ――と。

 

                  ◆◆◆

 

 清須城を出陣した信長率いる織田軍は、木曽川・飛騨川を舟で越えて大良おおら(※現在の岐阜県羽島市)に陣を構えていた。

 しかしこちらが来ると呼んでいたのか、義龍軍の一部が雪崩込んできた。

 織田軍は大良から北、及川へ向かった。

 信長としては一刻も早く道三のもとに行きたかったが、義龍も蝮の子である。これが思った以上に手強い。土方喜三郎ひじかたきさぶろうらが討ち死に、尾張下四郡守護代であった信友を討ったという森可成もりよしなり(※のちに信長の小姓となる森蘭丸の父)も負傷した。

 

「殿、道三どのが――」

 伝令の報せは、非常に残念なものだった。


 ――斎藤道三、死す。


 息子・義龍たちによって首を取られたという。

 さらに、尾張からも報せがきた。

 なんと尾張上四郡守護代・織田伊勢守信安おたいせのかみのぶやすが、清須城近くの村に火を放ったという。

 まさか、もうひとりの守護代まで敵対してくるとは――。

 状況は更に悪化し、道三に勝った勢いのままに義龍軍勢が向かってきていた。

 

「殿……!」

「撤退するぞ!!」

 道三の仇を取れないのは悔しいが、尾張も気になる。

 なにゆえ、まだ同族で争わねばならぬのか。

「追え! 次は尾張の信長の首ぞ!!」

 義龍軍からの声に、信長は持参していた火縄銃たねがしまを構えた。

 

「殿!」

 先頭からいきなり後尾に方向を変えた信長に、家臣たちに動揺が広がる。

「お前たちは先にいけ」

「なりませぬ、殿! 御自おんみずから、殿しりがりになられるなど……!」

「心配するな。俺は死なん」

「ですが、殿……!!」

「早くいけ! これは命令だ!!」

 躊躇ちゆうちよしていた家臣団は、信長一人を川岸に残し、川を渡っていく。

「いたぞ!!」

 義龍軍が迫ってくる。

 だが信長は、笑っていた。

 

「さぁ来い。この信長が相手だ」


 相手は信長一人――、簡単に討ち取れる。

 義龍たちは、そう思っていたのだろうか。

 刀を振り上げ、馬を踊らせた彼らにその音は届いたことだろう。

 

 火縄銃たねがしまの、怒りの銃声を――。

 

 まだ火縄銃たねがしまが戦で重要視されていないこの頃、当然美濃にも導入されていないだろう。もし導入されていれば、彼らも使っていただろうがその形跡はない。

 以前の村木砦の戦いでもそうだったが、義龍軍も慣れぬ銃声音と威力に動揺し始めた。

 しかし道三の死によって、美濃とは再び対立を余儀なくされるだろう。

 こうなると一番辛いのは、信長の正室・帰蝶である。

 この戦いのあと、思わぬことを口にしてきた。


 

「――今、なんと言った?」

 清州城・寝所にて、帰蝶が告げてきた言葉に、信長は眉を寄せた。

「私を離縁してくださいませ。殿」

「お前まで、俺から離れるのか?」

 

 父・信秀が去り、父にも等しい平手政秀も去り、弟・信行の心まで離れようとしている。今度は妻・帰蝶まで去ろうという。

 

「我が兄・義龍は、殿に戦を仕掛けて来るでしょう。和睦が崩れた現在、私はもはや無意味」

 項垂れる帰蝶の顔は、長い黒髪に閉ざされる。

「本気でそう思っているのか? 帰蝶」

「殿……」

 帰蝶は弾かれるように面を上げた。その目に、涙を浮かべて。

「お前は以前、俺にこう言った。たとえ両者のどちらかが斃れたとしても、自分はもう織田家の人間だと。あれは偽りか?」

「偽りではございませぬ」

「離縁はしない。それに俺は、お前が和睦の代償などとは思っていない。結果的に義龍とは戦うことになるが、それとこれは別だ」

 

 そう、帰蝶は離さない。

 たとえ義龍が、妹を返せと戦を仕掛けてきても。

 

 だがこれで、敵対勢力が今川に加えて二つ出来てしまった。

 美濃の斎藤義龍と、尾張上四郡守護代・伊勢守家である。

 いや――、末森城の信行はどう思っているだろう。

 弟のはらがみえぬ、信長であった。

 

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