第二話 海道一の弓取り
この年――、尾張・
今川は、着々と織田の防衛圏を狭めてきている。
なにせ尾張の隣・西三河は、駿河の守護大名・今川の
信長にとっては今川と、尾張下四郡守護代を相手に戦わねばならない。
さすがに信長といえど、両方同時には戦えない。
だがこの時、信長が見ているのは、西三河の方角でも清州城の方角でもなかった。
馬を飛ばしてやってきた平原は青草が茂り、風が撫でるように吹き抜ける。
――お前はもう、俺のことが信じられないか? 勘十郎。
この尾張のために共に力を合わせていきたいと願う弟・信行は、文を送っても返事が来ることはない。末森城主となって忙しいのだろう。
信長の想いは、はたして信行に届いているだろうか。それとも、兄のこれまでの
信長は、手にしていた弓に矢を
かつて父・信秀とともにやってきたこの鷹狩りの地、
矢は目標目がけて飛んだが、兎のほうが
いち早く危険を察知したのか兎は逃げ、獲物を失った矢だけが地へ向かっていく。
「――俺は、まだまだだな……」
いつの日か、信行を誘ってここに来よう――。
そう思って数年、周りの環境が兄弟を裂いていく。
――俺とお前とは、争わねばならないのか?
未だ二つに割れる、織田家家臣団。
末森城の織田家家臣が信長に対して敵意を示してきたことはないが、疎まれていることは確かだろう。それはいい。
信長の中には、無邪気に駆け寄ってくる幼い弟の記憶しかない。
まだ吉法師と名乗っいた頃――、末森城で弟や妹に会うのが信長は楽しみであった。
その頃は尾張をなんとかしようなど思ってもおらず、ただひたすらに父・信秀の背を追っていた。
しかし信秀が信長を振り向くことはなく、母・土田御前には疎まれ、彼を慕ってくるのは幼い弟・信行と、妹の市だけだった。
――人は、変わるもの。
信長の趣味の部屋には南蛮人からもらった
成長した信行が、今何を考えているかなど。
この先――、何人の血を、この尾張に染めねばいけないのか。
空を飛ぶ鷲も、信長の心の問いに答えてくれることはなかった。
◆
「――なかなか、進まぬようだの?
背後には足利一門を意味する、丸の内に二つ
男の名を、今川義元という。
今川氏は、
今川家は足利一門において名門とされ、足利将軍家の親族としての
足利宗家(室町将軍家系統)の血脈が断絶した場合には吉良家は、足利宗家と征夷大将軍職の継承権が発生する特別な家柄であった。
その吉良家の分家である今川家は、守護や
代々、駿河守護家を継承する今川家十一代当主・義元は、今や
そんな義元についた名は、
だが、そんな義元の前に立ちはだかったのは尾張・織田信秀であった。
義元が
「尾張は、なかなかしぶとうございます」
尾張攻めに於いても、雪斉の力は大きい。
「もう織田信秀はおらぬ。尾張を攻めるは今ぞ?」
そう、義元を手こずらせた織田信秀は、もうこの世にはいない。
ゆえに義元は、尾張攻略がすぐに終わると思っていた。
「既に尾張守護代・織田大和守らは、我らに
「ふん。そやつ、わしの首を狙わぬであろうの? 聞けば、尾張守護・斯波義統を襲ったというではないか?」
「ご安心を。御屋形さまに指一本触れさせませぬ」
頼もしい雪斉の発言に笑んだ義元だが、すぐに眉を寄せた。
「残るは信秀の
信秀の小倅――、その名を織田信長。
既に彼が率いる軍とぶつかっている今川軍だが、一月の戦いでは大敗を強いられた。
だが、尾張攻めを諦める義元ではなかった。
義元は薄く笑った。
――信秀、お前の倅の首を前に酒を呑もうぞ。
◆◆◆
「信長さま、如何されましたか?」
那古野城広間にて書状一通一通に目を通していた信長が渋面になり、一緒にいた恒興が視線を運ぶ。
八月――、今年も
ここ何日か
「……悪寒がする……」
そう言って眉間に
「夏風邪でも召されましたか」
「いや、違うな……。何処ぞの誰かが俺の噂をしてるんだろうよ」
「と申されますと?」
「守護代か、それとも……、今川義元か」
確かに二人に噂されているとすれば、いい気はしないだろう。
「そういえば義元公は、海道一の弓取りと呼ばれているとのこと」
「たいそうな名だな」
信長が嘲笑った。
なんでも『海道一の弓取り』の海道とは東海(※現在の静岡、愛知の一部)を意味し、弓取りは国持大名のことをいうという。つまり今川義元は東海の覇者ということである。
「信長さまは、なんと言われているのでしょうね?」
「ろくな呼ばれ方をしていないだろうさ」
「この那古野城には、信長さまをもう『うつけ』と呼ぶ者はおりませぬ。人を驚かすのは、相変わらずですが……」
「どちらにしろ、また戦になる」
恒興も、それは否定はしない。
いまは平穏を保っている尾張だが、嵐の前の静けさと考えると、恒興も眉を顰めたくなる。
今川義元が海道一の弓取りと言われているというのを思い出した恒興は、同時にある人物の言葉を思い出していた。
それは信長の教育係であった臨済宗僧侶・
「信長さまは何れ、この尾張の覇者となられましょう」
幼い時から信長の側にいる恒興とも知らぬ仲とあって話したのか、宗恩は静かに語った。
「信長さまが……?」
「
そう問われて、恒興は「是」とも「否」とも言えなかった。
確かにそうなったら、どんなにいいか。
「勝三郎――」
呼ばれて恒興は、はっとして肩を震わせた。
視線を上げると怪訝そうな、信長の目と合う。
「珍しな。お前がぼうとするなど」
「申し訳ございません。ただ先の戦では、多くの兵を失いました」
恒興はそういうと、視線を外へ運ぶ。
「そうだったな……」
それは今年の一月に起きた、今川勢との戦である。
きっかけは、尾張国知多郡東部および、三河国碧海郡西部を領している刈谷城主・水野信元(※徳川家康の伯父)を討たんと、今川勢が攻めてきたことに始まる。
――世にいう、
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