第三話 開戦前夜! 頼みの綱はあの男
天文二十三年一月――、尾張の地を今年も雪が覆った。
尾張は西部から南部にかけての一帯は平坦で、木曽・庄内の両川が濃尾平野を、矢作川が岡崎平野を、豊川が豊橋平野をそれぞれ形成し、豊橋平野からは渥美半島、濃尾平野の東側は尾張丘陵からなり、南に延びて知多半島となる。
渥美半島と知多半島南部は黒潮の影響を受けて温暖だが、濃尾平野の北西から西にかけては、伊吹山地・養老山地・鈴鹿山脈などがあり、冬となると大陸方面からの伊吹おろしで雪となる。
この日、
この書状がのちに今川勢との激戦に繋がるとは、書状を信長のいる場所に届けた恒興も、上段の間にて
書状に目を通し始めてまもなく、信長が眉間に
「水野さまはなんと?」
「今川勢が、刈谷城に攻めてくるらしい」
水野信元は尾張国知多郡東部および三河国碧海郡西部を領する大名で、先代である彼の父・忠政は松平氏とともに今川氏についていた。
しかし家督を継いだ信元は織田側に協力し、信元は三河の松平氏とは敵対関係となったらしい。しかしこれが、織田側には功を奏したようで――。
「確か亡き大殿の三河侵攻は、水野さまのご協力があってとのことと聞いておりますが?」
「ああ。元々は、仕掛けてきたのは向こう(※三河側)だったらしい」
信秀の三河侵攻のきっかけ――、それは
その後の天文十六年九月、岡崎城を攻め落とし、城主の
この三河侵攻の折、協力したというのが水野信元らしい。
ただ、信元が三河・松平家と対立する立場となったことで、
一時、織田側で人質となっていた、松平竹千代(※のちの徳川家康)である。
松平広忠の正室が信元の妹で、竹千代の母だという。
叔父・信元が今川と対立する織田に傾いたことで、父・広忠は母を離縁したという。
その後、竹千代は織田・今川と人質として渡り歩く羽目になった。
水野信元の書状によると、今川勢は兵を西三河に進めて
信元にすれば重原城は今川方に攻略され、緒川城は今川側となった寺本城・
「どうやら今回も、今川義元は高みの見物ときた」
書状を読み終えて、信長は
「軍を率いているのは、義元公ではないと?」
「駿河守護が
確かにこれまでの今川との戦いで、今川義元らしき人物が敵陣にいたという報はない。
今回、今川勢が攻略しようとしているは水野兄弟の緒川・刈谷城だったが、信長はこちらへの
重原城が織田側だったというのもあるが、周辺の城まで今川についた。
今川は間違いなく、尾張を狙っていると信長は言う。
「出陣なさるのですか?」
「威嚇されて、黙っている俺だと思うか? 勝三郎」
不敵に笑む信長に、恒興は軽く嘆息した。
「いえ……」
「問題は――」
信長が再び眉を寄せる。
「清須の守護代さまですか……」
尾張下四郡守護代・織田信友は、織田弾正忠家の家督相続にも口を出し、二度も信長の命まで狙ってきた。さらに、萱津戦である。
「これまで那古野城を出陣で空けたことはあるが、信友どのが敵意を示してきた現在、この機に清須勢が襲撃してくるかも知れん。帰ってきて城が奪われていたなど、笑うに笑えん」
「ではどうされるのでございますか?」
恒興の問いに、信長が口の端を上げる。
「
◆◆◆
那古野城から緒川城まで、陸路で五里と少し。
信長率いる織田軍は、熱田神宮に集っていた。
だが緒川までのその陸路を、今川についた寺本城主・花井氏によって塞がれた。やはり、那古野城から信長が出てくると思っていたようだ。
空は薄墨色に染められ、湿った風に織田木瓜紋の旗印と信長が纏う真紅の外套を揺らす。
「殿、ここは様子を見られては如何かと」
ここにきて、
那古野城の一番家老として信長が幼い時からいる家臣だが、兄弟揃って信長の行動に眉をひそめている。
「秀貞、珍しいな。いつもは何も言って来ないお前が」
「これはしたり。何もいわぬのは家臣として差し出がましいかと思ってのこと」
よくいう――と、信長は心の中で嘲笑った。
「陰口はよくても、か?」
思わず口を出た嫌味に、林兄弟の顔が引き攣った。
「……っ」
だが二人の顔は、更に変わった。
空になる那古野城内の守りを、信長はある男に援軍を頼んだ。
その援軍を率いていたのは
「殿! 那古野城内の守りを、美濃の者に任せられると言われまするか!?」
「納得がいきませぬ!」
林兄弟が、ここまで吠えてくるのは珍しい。
しかし、信長は道三からの援軍に満足していた。
恒興に言った「那古野城の援軍を頼める人間」とは、斎藤道三のことだったのである。
問題は、緒川城までどうやって行くか――、である。
陸路を進んで今川方の
かと言って、緒川城主・水野信元の要請も無視はできない。そんなことをすれば、尾張国内の国衆達が次々と今川に下ってしいかねない。
――陸路が不可ならば、海路しかないか。
だが――。
「船を出せって!? たーけた(※あほな)こと言わんでちょーよ!!」
船着き場で、水夫たちが織田軍を前に吠えていた。
「これから戦なのだ」
「それはそちらの勝手だがね。船がこわけたら(※壊れたら)どうしてくれるんじゃ!」
吹いていた湿った風は徐々に強まり、この中の渡航は危険だと水夫たちは言うのである。
しかし、ここで押し問答をしている暇はない。
ふと信長は、沢彦宗恩から以前聞いた、源平合戦の逸話を思い出した。
「――かの源義経公は屋島の戦いの直前、
穏やかに微笑む宗恩の顔を脳裏に浮かべ、信長は嗤う。
――宗恩め、本当にただの坊主かわからなくなってきた……。
敵武将ならば、さぞ手強い相手になっていただろう。
かくて信長率いる織田軍は、熱田湊から出航した。
時に天文二十三年、一月二十二日のことである。
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