第八話 織田信長、うつけにあらず!

「帰蝶、万が一のときは信長の首、取れ」

 

 それは――、帰蝶が尾張に嫁ぐ前の晩であった。

 美濃国・斎藤道三は彼女に、一振りの懐剣を渡した。

 夫なる信長が美濃に対し、反逆の心があれば殺せと命じたのである。

 

 美濃・稲葉山城――、道三は天守から尾張の方角を見据えていた。

 尾張と和睦を結んだものの、それが守られるかは定かではない。この戦国の世はだまし騙され、主君と言えど家臣に首を狙われる下剋上。

 実際道三も、そうして美濃の主に伸し上がった。

 

 美濃とて、今川は牽制けんせいすべき相手である。尾張がおちれば、今川は木曽川を越えて美濃に攻め入って来るだろう。ただ、好敵手だった織田信秀が亡くなり、帰蝶を嫁がせた信秀の息子はうつけと評判の男、道三の心は和睦を締結させたのは誤りではなかったのかという思いに駆られ始めた。

 

「だから言ったのです、父上。この和睦には反対だと……!」

 

 道三の嫡男・義龍は、そう抗議してきた。

 しかし、尾張が美濃に対して動いたとの報はない。

 そんな道三の傍らに、一人の男がひざを折った。


「殿……」

光安みつやすか」

 

男の名は明智光安(※明智光秀の叔父)――、天文四年、美濃国明智城主の家督を継いでいた兄・光綱みつつなが若くして亡くなったという。その子・光秀はまだ幼く、隠居していた父・光継みつつぐに光秀の後見を命じられ、光秀が元服した後も明智家の家政を担ったらしい。

 やがて光安は道三に仕え、妹を道三の正室にしている。

 この妹の名を小見おみかたといい、帰蝶の母である。

 彼にとっても、姪である帰蝶が気になるところだろう。

 

「殿が尾張の織田信長に、会いに行かれると伺いましてございます」

婿殿むこどのがはたして真にうつけかいなか、見てやろうと思っての」

「ですが草の者(※忍び)の報せでは、城を抜け出すのは日常茶飯事、家臣も弟のほうに傾いているとのこと」

「その弟、如何いかなる人物か?」

「温厚で真面目と。ただ――」

「ただ、なんだ?」

「人の意見に流されやすいのが欠点」

 

 道三はそれを聞いて嘲笑わらった。

 兄弟揃ってその様では、織田弾正忠家はいずれ崩壊する。いや、美濃の危険も増す。

 だが、あくまで噂だ。

「光安、那古野城に書状を送れ。富田とみた聖徳寺しようとくじで、このまむしが首をもたげて待っているとな!」

  


 天文二十一年四月――、那古野城。

 一通の書状を読み終えた信長が、口の端を緩めた。

 書状の送り主は、美濃の斎藤道三である。

 

「殿、美濃からはなんと?」

 かたわらにいた正室・帰蝶が柳眉りゆうびを寄せる。

「俺を脅してきた」

 そう言ってわらう信長に、帰蝶の顔が強張る。

「まさか……」

「蝮が首を擡げて待っている……ときた。面白い会見になりそうだ」


 脅されているのに、それさえも楽しみに変えてしまうのはさすがといえるが、帰蝶には不安なようだ。

「父・道三は滅多に冗談などいわぬ方。なにか思惑があってのことと存じます」

「蝮の毒にやられるかも知れないと?」

「父は下剋上の世を一代で伸し上がった男でございます。歯向かうものには容赦はしないでしょう」

「まるで俺が、しゆうとどのに喧嘩を売りに行くような言い方だな? 帰蝶」

 そこは蝮の娘であった。最期はにこりと笑ってこう言った。

「脅されて黙っている殿ではございますまい?」

「まぁな」

 この若夫婦のやり取りに、笑っていられないのが恒興であった。

 会見に乗じ、信長を抹殺まつさつしにかかるかも知れない。

 

「殿……!」

「ちょうど国友から、五百挺ごちやくちよう火縄銃たねがしまが届いたばかりだ」

 どこまでも楽しそうに笑う、信長であった。

 さらに、である。

 

 

「本当に、そのお姿で行かれるのですか……?」

 恒興はなかあきれつつ、眉を寄せた。

 これから斎藤道三に会いに行くというのに、肝心かんじんな信長はかぶいた姿のままだったからだ。

 信長は平然と、声を返してきた。

「悪いか?」

 悪いに決まっているでしょう――とは言えず、軽い頭痛を覚えた恒興は、眉間を指で押さえた。止めないのか? と他の家臣たちが視線を寄越よこしてくるが、言って聞くようであればこれまで苦労はしていない。


 

 同時刻――稲葉山城を出た斎藤道三は、富田の聖徳寺へ向かう前に質素な小屋に入った。 付き添っていた家臣・稲葉一鉄が、不安げな視線を寄越す。

 

「殿、聖徳寺へは向かわれませぬので……?」

「まぁ見ておれ。この道を、信長も通る筈じゃ」

 連子窓れんじまどからのぞけば、通りが良く見えた。

 わざわざ小屋に潜んでまで信長の顔を見なくても会見の場で逢えるのだが、道三はその前に噂の真相を確かめておきたかった。

 尾張との和睦に応じた己の判断が、はたして正しかったか否か。

 

娘・帰蝶の文に寄れば、信長は一緒にいて楽しい方――とあった。

 帰蝶にすればそれでいいかも知れないが、美濃・尾張の話となると別だ。

 和睦が決裂すれば、尾張は敵となる。いや、和睦を続けたとして、織田家がかたむけば今度は今川が美濃に攻めてくる。

 楽しい方――、では戦乱の世は生きては行けぬ。知恵を働かせ国を守り、どう戦うのか、その度量がなければ国は滅びる。


 ――戦を甘く見るなよ、小僧……!


 うつけと呼ばれる信長。

 噂が真実であれば、敵に首を取られる前に舅の自分の手でとさえ、道三は思っていた。

 

「殿っ、あれを――!」

 その声に視線を上げると、織田木瓜紋の旗印の中を進む信長がいた。

 姿は噂通りの傾奇者かぶきものではあったが、問題は彼が従えていた八百と思われる軍勢である。

 火縄銃を抱える五百の足軽、長槍を抱える兵も五百はいるだろうか。

「これは……」

 さすがの道三もこれには驚き、うなった。


 ――信長め、いつの間にあのような軍勢を……。


 自軍にはない戦力を前に、道三は歯軋はぎしりをした。


◆◆◆


 富田は、尾張中島郡にある土地である。

 聖徳寺は尾張国の葉栗郡にあったそうだが、木曽川の洪水などで何度も移転を繰り返したという。

 

 聖徳寺に先についたのは、信長たちである。だが恒興を始めとする家臣団は、主の行動に唖然あぜんとされていた。

 いち早く立ち直ったのが、恒興である。

 これまで幾度となく信長の行動に振り回され、今や多少のことでは動じなくなった。

 ゆえに、呆れたというのが恒興の心境だ。


 ――相変わらず人を驚かせるのがお好きな方だ……。


 恒興はふっと笑った。

「美濃・斎藤山城守利政さいとうやましろのかみとしまささまが、ご到着のよし

 その報せに、信長がきびすを返した。

「行くぞ」

「はい」

 恒興は頭を下げたが、家臣団はまだ困惑している。だがこれで、彼らはさとるだろう。自分たちが仕えるべき主君が、誰なのかを――。

 

◆◆◆


 斎藤道三は一人、通された座敷で茶をすすっていた。

 しかも、二杯目を――。

 その心境は疑惑といきどおりで満ち、茶を運んできた寺小姓が「ひっ」と飛び退いたほど、その眼はすさまじかったようだ。


  ――このわしを待たせるとは……っ。


 控えの間には当然のこととして、稲葉一鉄ら美濃家臣が待機している。寺の者には悪いと思う道三だが、この際は致し方ないと思っていた。

 だが、信長が連れていた八百の軍勢が気になった。

 ここは尾張領内である。

 この座敷で乱闘となった場合、はたして稲葉山城に無事に帰れるかどうか。

 道三は、再び唸った。

 

「申し上げます。織田上総介さまがお見えになりました」

 その報せに、道三は入り口のふすま睥睨へいげいした。


  ――ようやく来たか……。


 しかし次の瞬間、道三は瞠目どうもくした。

「なっ……」

 現れた信長は道三が小屋の中から伺っていた姿ではなく、前髪を撫でつけ、小刀を差した素襖すおう(※武家の正装)姿だったのである。

 信長は道三の前に座ると、低頭した。

「織田弾正忠家・織田上総介信長にございます」

「……斎藤――……、利政じゃ」

 顔を上げた信長が、にやりと口の端を吊り上げた。


 ――こやつ……!


 全ては信長の策だと知った時、道三の中に信長をどうかしようという気は失せていた。

 策略も、戦国の世を生きていくには必要である。


 ――この蝮の道三を、引っ掛けるとは……。


 完敗だ、と道三は思った。

 僅か十九の若造に、まんまとしてやられた――。

 悔しい反面、あっぱれと道三は笑った。

「道三どの?」

「さすが帰蝶が惚れた男よ! まさか、この蝮を飲み込むとはの」

 和睦破棄をいうつもりだった道三だが、信長が実はうつけなどではなく、敵に回せば恐ろしい男となるとわかった。

 彼ならば、やがて今川を倒す男となるだろう。

 ただ、自分の息子達はどうかと言えば……。


「婿殿。これからも我が美濃と尾張は、手を携えていこうぞ」

 それは、道三の本心である。

 

  ◆

 

 ――斎藤道三との会見後、那古野城ではある変化が起きた。

 家臣の間で信長に対する評価が、変わり始めたのである。

 それでも末森城の信行を推す者はいるようで、信長に傾いていく家臣仲間を苦々しく思っているらしい。

 この尾張での信長の戦いは、まだ終わらないだろう。

「恒興、出かけるぞ! 馬を引け!!」

 信長のよく通る声が、書院まで聞こえてくる。

 恒興は腰を上げ、書院を後にした。

 

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