第七話 無念! 伝わなかった想い

 雪が降っていた。

 みぞれ交じりの雪で、それがろうに吹き込み、またたく間に溶けて床を濡らした。

 清州城・織田大和守家――、尾張下四郡守護代・織田信友は一人、唇を噛んでいた。

 

 ――おのれ斯波義統め、大人しく傀儡かいらいになっておればいいものを……!

 

 尾張守護・斯波義統――、信友にとっては主君であったが、いまや義統に守護としての力はなく、信友の傀儡である。

 

 早々に義統を見限みかぎった信友は、尾張一国を手土産に、今川へ乗り換えようとしていた。

 うまくいけば、そのまま尾張を任せられるかも知れない。だが、それを阻んで来るとされるのが尾張三奉行の一つ、織田弾正忠家である。

 

 信秀亡きあとその勢力は落ちると思っていたが、やはり虎の子は虎である。

 信秀の子・信長はうつけなどではなかった。

 真にうつけならば戦で大敗をきつし、家臣たち全てに背を向けられていよう。だがこれまでの戦に於いて信長は勝っている。

 萱津戦では此方側の大敗である。


 こうなることを、信友は恐れていた。ゆえに、信長を殺そうと企てた。彼さえ消えれば、弾正忠家なぞ恐るに足らぬ。

 なのに、計画はまたも失敗した。

 斯波義統の手のものに信長暗殺計画が知られ、それをなんと信長に知らせたらしい。


 ――こうなれば……。

 

「誰かいるか?」

 信友の求めに、障子がすぅっと開く。

「お呼びにございますか? 殿」

「大膳を呼べ」

 

                  ◆


 天文二十二年――一月。

那古野城下は年明けということもあり、活気づいていた。小さな市が開かれ、野菜や魚、反物など所狭ところせましに並べられている。

 ごたごた続きの尾張国内だが、この雪である。

 国境くにざかいを越えて、尾張に侵攻しようなどとは、今川も思っていないらしい。


 第一、雪の中の合戦となれば足軽や騎馬の足が雪に取られ、手はかじかみ、判断もにぶろう。

この日――恒興は、信長に従って城下に来ていた。

 

 信長はこれまでのかぶいた身なりに衣を戻し、右肩に担いだ乗馬のむちがピンと寒天かんてん(※寒々とした冬の空)に伸びていた。

 そんな信長の斜め後ろにて、恒興はある男のことが気になっていた。

 

 

「今年も、積りそうじゃの」

書院の廊で空を見上げていた恒興の隣に、平手政秀が立った。

「平手さま」

「殿は今日も城下へ行かれたようだの? 恒興」

「はい……」


 平手政秀は信秀の代には家老を務め、信長の誕生後は、林秀貞らとともに信長の傅役となり、那古屋城の台所も預かったという。

 信長の元服を仕切り、彼の初陣を後見もしたという。

 

  聞けばその初陣は、信長勢およそ八百騎に対して敵の今川勢は二千騎だったという。

 政秀は兵力の差を心配して、他の家老たちと共に信長の無謀な攻撃に反対をしたという。

 だが、そんなことに聞く耳を持たないのが信長である。信長は自ら軍を指揮して出陣し、敵陣のあちこちに火を放ったらしい。そして、その日はそのまま野営して、翌日にはしれっと那古野城に帰陣してきたという。


 美濃との和睦に奔走ほんそうしたのも、今川との停戦を朝廷に働きかけたのも政秀である。

 だが――。

 

「亡き大殿おおとのはよく言われておられた。この尾張から争いをなくし、三奉行としての責任を果たしていくと。だが今となっては、それはもう叶わぬ。この目で大殿の夢が実現するを見届けたかったが、わしはもう年じゃ」

 疲れた顔で嘆息する政秀を、恒興はなだめた。

「そのようなことはございませぬ」

「わしにはもう、若殿が理解できぬ……」

「それは……」


 苦渋くじゆうの色を浮かべる政秀に、恒興は真の信長はこうであると言いかけ、やめた。

 それをいえば政秀の誤解は解けるだろうが、信長本人が胸の内を明かさぬ限り、それを家臣である自分が口にするのは烏滸おこがましいと思ったからだ。

「だが若殿こそ、織田弾正忠家の跡取り。恒興、しっかりお支え致せ」


 そう言って去っていく政秀の後ろ姿が、恒興には忘れられない。


   

「よぉ、そこの若い衆、餅はいらんかね?」

 物売りの青年が、そう恒興たちを呼び止めた。

繁盛はんじようしているようだな?」

「へい。ありがたいことで」

「なにか変わったことはないか?」

「今のところは何も。余所者が何人か国境くにざかいを越えてきたのは見ましたけどね」


 信長が城下を歩くのは、こうした情報を自ら得るためと、戦力の補充である。

 現に足軽の何人かは、農民などの下級層である。 

「その余所者、まさか武士だったんじゃないだろうな?」

「いや、ただの商人さ。これでも人は見る目があるんだぜ?」


 那古野城に帰城すると、佐久間信盛が心痛な顔で膝を折った。

「どうした? 信盛」

「――平手さまが……」

 信盛が、珍しく言い淀む。

「爺がどうかしたか?」

「お屋敷で……自害されたと……」

  


                 ◆◆◆


 平手政秀が死んだ――。

 

 昔から小うるさく言っている男であった。一方で、政秀だけが信長を諌め、時には褒めてくれた。

 父・信秀と別れて暮らす信長にとって、政秀は父にも等しい存在であった。


 ――お前が死ぬことはなかったんだ、爺。

 

 武将として生まれ育ったからには、戦にていつ死ぬかわからない。主君のため、国のため戦い、それで死ぬのは本望と本人が思うなら諦めもつくが、政秀は自ら死を選んだ。

 彼になんの非がある?

 

 ――理解ってくれると、俺は思っていたんだ。

 

 うつけなのは、味方を得るため。父・信秀がなし得なかった強い尾張を築くため、信長は周囲を欺いて生きてきた。

 もう政秀の説教は聞けない。もう――、褒めてくれる人間はいなくなった。

 南蛮渡来の品に囲まれた室内で、信長は唇を噛み締めた。

 昔から辛いことがあれば籠もったここは、元納戸というだけあって黴臭かびしゆうが取れず、慰めとなった品々はこのときはなんの慰めにはならなかった。


 ――父上も馬鹿野郎だが、お前も馬鹿野郎だ。


 手本も示さず怒りもせずに信長に無言を貫いた父・信秀、信長の素行を諌め続け、それでも背だけは向けなかった政秀。

 二人が望んだ尾張の姿を、もう見せてやることはできない。

 花頭窓(※上枠を火炎形に造った特殊な窓)の外は、銀世界である。

 雪が解ければ、おそらくまた戦が始まるだろう。

 

 そんな時、背後で物音がした。

 振り返ると、恒興がここまで登って来ていた。

 信長の趣味の部屋は、屋根裏といってもいい場所にあり、狭く急な梯子段を登って来なければならない。

 しかも片手に手燭を持ってとなると、足を踏み外せば下に真っ逆さまである。

 信長は難なく登ってきた恒興に、眉を寄せた。

 

「……なにか用か?」

「いえ、実にわかりやすい方だなと思いまして」

「は?」


 恒興もこの場所を知っているが、子供時代を境に登ってくることはなくなっていた。

「何年お側にいるとお思いですか? 子供の時から貴方に振り回されているのは、この私ですよ? ま、天邪鬼のあなたを扱えるのは、私くらいでしょうけど」

「言ってくれるじゃないか。勝三郎」

 公の場では「殿」「恒興」と呼び合うが、二人のときは昔ながらに戻る。

「ここでは主君、家臣としてではなく、乳兄弟として申し上げております」

「だから?」

「夢を諦めてないでください。この那古野城には、信長さまのために命をかけてもいい思う家臣団がおります。夢を諦めてしまわれたら、あなたは本当の大うつけです!」

 

 これからも、誰かが自分の側から離れていくかも知れない。

 だが誰かが、尾張を守らねばならぬ。


 ――爺、お前には悪いがもう少し、我慢してくれ。


 政秀の代わりに天が応えたか、花頭窓の向こうで星が流れた。

 そんな信長に、さらなる試練がこのあと待っていた。

 正室・帰蝶の父にして美濃のまむしと言われる斎藤道三が、信長に会いたいと言ってきたのである。

 

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