第四話 宣戦布告!
この頃――、尾張・織田軍と駿河・今川軍との間には停戦が結ばれていた。
これにはさすがの今川義元も、応じずにはいられないだろう。勅命に逆らえば、朝廷を敵に回すことになる。
二年前の天文十九年、鎌倉街道筋から今川軍が侵攻、五月頃には
鎌倉街道だけでない。岡崎から尾張の守山へつながる街道沿いでも
侵攻を止めるため、朝廷と繋がりをもつ平手政秀が動いたようだ。
十二月になると後奈良帝が
織田方にとっては、信秀を失い家督相続で揺れている中での停戦は幸いだったが、今川勢の触手はすぐそこまで伸びている。
――もう、今川には勝てない。
織田家家臣の半分は、そう見ているようだ。
それだけ、織田信秀の存在は大きく、失った衝撃も大きかった。
「まさに、蛇に睨まれた蛙だな」
信長は及び腰となっている彼らをそう
「信長さまは、今戦って勝てると思いますか?」
池田恒興は信長の隣に並び立ちながら、そう聞き返す。
「さぁな」
「ですが、これは明らかに喧嘩を売っていませんか?」
二人の前では、着々とあるものが築かれようとしていた。
尾張・
鎌倉街道を眺めるだけならいい場所だが、信長は
さらに、この頃より名を『三郎信長』改め『
今川義元も名乗っているという『上総介』を名乗ることは、今川への対抗意識もあるのかも知れない。
しかしこうした信長の徹底抗戦の考えは、生き延びる道を探っていた一部織田家家臣のさらなる不信を煽る形となったらしい。
さらに、である。
「鳴海城主・山口どのが、今川へ寝返りましてございます」
那古野城に戻った信長に、そんな報せが届く。
「殿……」
上段の間にて、信長の隣にいた正室・帰蝶が不安そうに信長を見た。
鳴海城主・山口――、正式名を
織田信秀に従い、小豆坂の戦いでは今川義元配下の軍勢と戦って戦功を挙げたという。
信秀に重用され、三河との国境の要地である鳴海城を任され尾張南東部の備えとなっていたその山口教継が、こともあろうに裏切ったというのである。
「やはり今川は、諦めていないようだな」
不敵に笑む信長に、恒興は眉を寄せた。
「――と言いますと?」
「この尾張が欲しいに決まっているだろ。和睦なんぞしてみろ。奴はこれ幸いと出張ってくる。なにしろ戦わずして尾張を手に入られるんだからな」
「つまり停戦は、今川に機会を与えたと?」
「こちらが充分に動揺するよう打撃を与えてな。案の定、その通りになった。そうだよなぁ? 信盛」
話を振られた上に睨まれた佐久間信盛は、その顔を強張らせた。
二年前の今川による尾張大侵攻は、確かに尾張に打撃を与えた。そこに朝廷からの停戦命令である。
今川義元が織田家が今川に屈する道を模索し始めると読んだがわからないが、一部は和睦を考えていたのは確かである。
「……殿がそこまでお考えとは知らず、この佐久間信盛、ここは腹を切りお詫び致しまする」
「やめろ信盛。そんな理由で腹を切ったりすれば、織田家家臣は全滅だ。俺の肚より、敵の肚は知っておくべきだ。違うか?」
「はっ」
信盛は深く低頭した。
「信長さま、こうなったら打って出ましょうよ!」
そういったのは、小姓の前田犬千代である。
「犬千代、子供のお前が口を出すでない!」
叱責する
「子供っていいますけどねぇ、佐々さま。一年もすれば元服だがや。派手な初陣を飾るがね」
「お前の尾張訛りを聞いていると、緊張感に欠ける」
一同に笑みが漏れ、信長は決断した。
「恒興、皆を集めろ。出陣だ!!」
天文二十一年四月――、皮肉にも鳴海城主となっていた元織田家家臣・山口教継の息子・教吉と、信長が率いる織田軍の戦いが
信長は兵八百を率いて那古野城を出陣、中根村から野並村を駆け抜け小鳴海に移動、砦を築いたあの三王山へ登った。
すると、山口教吉が三王山の東、鳴海から北にある赤塚に千五百の兵で出陣して来た。 信長も赤塚に進軍し、両者は先陣を繰り出して戦闘に突入した。
しかしあまりの接近戦のため首を取り合うこともなく、勝敗は引き分けとなった。
だが、今川への宣戦布告となったのは間違いないだろう。
帰城すると、平手政秀の険しい顔に出迎えられた。
停戦に際し、奔走したのは政秀である。
せっかく帝の停戦命令を得られたと言うのに、それを破ったのが養育した信長なのだから当然だろう。
――なにゆえ、わかってくださらぬ……。
政秀がそう呟いたのを、恒興は聞いている。
政秀の目には、うつけがますます酷くなったと見えるのであろうか。
――本当の信長さまは……。
恒興は何度「そうではない」と言いたかったか。
政秀自身からかつて「吉法師さまの御味方でいよ」と言われたからではないが、最も近くにいた恒興だからこそ、本当の信長が見える。
強い意志と自信、この尾張を変えるという恒興に語った言葉は嘘ではないと。
わかっていないのは、そんな信長に背を向ける家臣たちなのだ。
「まったく、いらぬことを……」
那古野城に残っていた家臣の一人がそういうのを、恒興は聞き逃さなかった。
向かって行こうとする彼を、信長が止めた。
「放っておけ」
「ですが……」
「俺は、こんな俺でもついてくる奴しかいらん。それがたとえ――、十人足らずでもな」
それはあまりにも過酷で、孤独な戦いである。
今川に怯えることなく強い尾張にするため、彼の戦いは吉法師と呼ばれていたころから既に始まっていたのだろう。
そしてそれは、亡き織田信秀の遺志。
信秀がなし得なかった強国・尾張の実現の夢は、間違いなく信長に引き継がれた。
――こうなればとことん貴方に付き合いましょう、信長さま。
城館へ戻っていく信長の背に向かい、恒興も決意を新たにしたのであった。
◆◆◆
「よく参られた、信行どの」
清州城広間にて、守護代・織田大和守信友に信行は出迎えられた。
「守護代・大和守さまにおかれましてはご挨拶が遅れ大変申し訳なくおもっておりまする」
「気にされるな。信秀どのが突然逝去されたのだ。まことに良き武将であった」
「そう言ってくださり、亡き父・信秀も喜ばれましょう」
「弾正忠家は我が守護代の臣下、なれど分家でもある。いわば親戚じゃ。諍いはあったが、これからは尾張のため、手を携えて行きたいと思っての」
そう言って目を細める信友に、信行は頭を下げた。
果たして守護代はなにゆえ自分を呼んだのか――、その真意が掴めずにいた信行だが、もし反抗する意思があると思われているなら誤解を解かねばならない。
「それは重々承知しております」
「さすがは、信行どのじゃ。弾正忠家の当主たる器ぞ。のう? 大膳」
「はっ。信行さまならばお務めをしかと励まれましょう」
「務め……?」
「弾正忠家は元々尾張三奉行じゃ。守護代を支えるのが務め。まさかよもや、尾張を手に入れようなど思ってはおるまい? 信行どの」
「そのようなことは……」
尾張三奉行とは尾張下四郡守護代・大和守家に仕える奉行三家のことで、因幡守家・藤左衛門家・弾正忠家の三家である。
下剋上の世となりつつあるが、信行に守護や守護代を差し置いて尾張の主になろうという意思はない。
「信長どのは、どう思っていよう?」
兄・信長の名を出され、信行は胡乱に眉を寄せた。
「兄上が……」
「せっかくこの尾張に平穏が戻ったと言うに、今川を刺激したと聞く。噂では、この尾張を手にいようとしているとか。それはつまり、守護・斯波さまや守護代の我に弓を引く行為ではないのか?」
「兄上がまさか……」
「このままでは、尾張にいらぬ戦が起きてしまう。信行どの、ここははっきりとさせられよ。弾正忠家当主は自分だと」
「それは……」
「ためらうことない。守護代の吾が貴殿を支持する。貴殿は胸を張って弾正忠を名乗られよ」
信長では自分が弾正忠家を継ぐ――、これまでそんなことは思っていなかったが、父の葬儀での振る舞いは、信行の心を揺さぶった。
信長に家臣たちを纏めることはもう無理であること、守護代までも信長に疑惑をだいていること、このままでは信友の言う通りこの尾張で戦になるかも知れない。
「殿……!」
廊を進んだところに、柴田勝家が寄ってくる。
「勝家……」
「大和守さまのお話は……」
「私が弾正忠家の跡取りだと言われた。ただ――」
まだ兄・信長を信じたいという思いが、信行を躊躇わせる。
「殿……?」
「那古野城の兄上は――、この尾張を手に入れたいのだろうか?」
「まさか……、あの信長さまが……」
勝家も、信じられないようだ。
「もしそうなら、兄上の暴挙は止めなくてはならない」
それは信行が、弾正忠家の跡取りとなる決意をした瞬間であった。
◆
「殿、あれで本当に良かったので?」
信行の気配が完全に消えるのを見計らい、坂井大膳は口を開く。
「信長が尾張を手に入れるために画策しているというアレか? でっち上げに決まっていよう。だが、信行は信じよう。さすがにあの男ももはや信長に対して心が揺れている様子、人の意見に流されやすい性格なのは誠のようだの。あれでは弾正忠家当主として心許ない。ま、力を削ぐにはよいが」
くくっと嗤う信友を、大膳は「馬鹿な男だ」と思っていた。
尾張守護・斯波氏は今や名ばかり、傀儡とし尾張の主となったと思っているのだろうが、その信友を操作しているは大膳である。
「手を携えるというのも方便にございますか」
「当たり前じゃ。これまで信秀に大きな顔をされてきたが、これからは違う。弾正忠家など滅んでしまえばよい。尾張は、この信友のものじゃ」
「そうなると……、信長が邪魔でございます。殿」
大膳に一国を支配しようという欲はないが、出る杭は打たれるのことわざどおり、下手に欲はかかないのが賢明である。
だが、裏方に回っているのも限界がきたようだ。
「策はあるのか? 大膳」
策を求めてくる信友の背を、大膳は押すことにした。
自分は、ある逃げ道を用意した上で――。
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