第五話 暗躍する織田大和守、決裂した主従関係
これからの時期は厳しい日照りに
ただ――。
「末森城の信行さまだが……」
那古野城内・馬屋――、やってきた織田家家臣・
「信行さまが
前田犬千代たち小姓たちと馬屋にいた恒興は、
「
武家で名が変わることは珍しくはなく、犬千代が首を傾げた。
「それが変なことなんですかぁ? 佐久間さま」
「弾正忠は官位なのだ」
そもそも弾正忠とは律令時代の
織田弾正忠家は当主が朝廷より弾正忠の官位を与えられたゆえで、
ゆえに信長は弾正忠家の家督を継いでも、弾正忠とは名乗らずに上総介を自称している。
二人の父・織田信秀は、朝廷に献金して支え、弾正忠と名乗ることを許されたという。
ならば信行は、なぜ弾正忠を自称するのか。それは弾正忠を名乗ることで、自分が家督を継いだことを意味すると思ったのだろうか。
「信長さまが、家督を継がれたんじゃないんですか!? 池田さまっ」
犬千代がものすごい勢いで恒興に迫ってきたが、自分に言われてもである。
「私に噛みつくな! 犬千代」
「これまで信行さまは、常に信長さまをたててこられた。聞くところによると、
「再び口を出してきた……ということですか?」
「口を出すだけならばいいが、どうも嫌な予感がしてならぬ」
織田大和守家は信秀の代にも一時対立関係にあり、更にその家臣・坂井大膳は信長を毒殺しようと企んだ。
もし信行の背後に織田大和守家にいるとすると、恒興も胸が騒ぐ。
◆
この日――、信長を訪ねて那古野城にやってきた
かつて信長の許育係であった、沢彦宗恩である。
「お元気そうでなによりでございます」
城館の中庭で
「俺が凹んでいると思ったか?」
「いいえ。信長さまは、逆境こそ楽しまれる方。ですがあまりやりすぎますと、御味方も減りましょう」
そう言って苦笑する宗恩に、信長は目を細めた。
さすが父・信秀が信を於いたという僧侶である。信長の、隠された真の姿を見抜いているようだ。
「信行の事を言っているのか……」
「弟君はお優しい方。ですが、周りの影響を受けやすいのも確か」
意味深な物言いに、信長は宗恩を
「何が言いたい?」
「清須の信友さまが、信行さまとよく会われている様子。弾正忠を名乗られたのは、おそらく信友さまの後押し。ですがそれは仮、朝廷からの正式な官位ではございませぬ。問題は、守護代さまが後ろ盾となり、兄君のあなたさまが変わらぬため、御自分が家督を継ぐべきだと決断されたことでしょう」
「…………」
「もうわかっておられる筈、信行さまといつか対立することになると。尾張をかつてのように一つにするには当然、信行さまと大和守家と対立しましょう」
「俺は信行と戦うつもりはない」
信長は、的に向かって
「拙僧も実の兄弟が戦うなど、望んではおりませぬ。ですが、人は変わるもの」
尾張を一つにする――、信長の夢の前に立ち塞がるのは、やはり大和守・伊勢守両守護代だろう。ただ信行とだけは、争いたくない信長であった。
◆◆◆
今川勢と清州城の織田大和守家の動向が気になる中、八月になった。
「
「義元公は未だ駿河より出ておらぬ様子」
信長の問いに、
「ふん。戦は
上段の間にて立て膝で座っていた信長は、鼻で笑った。
この頃になると信長はいつもの傾いた姿ではなく、小袖は蘇芳の色味で下は袴という出で立ちで、髪だけは緋色の紐で
「今川の総大将は太原雪斎という男。かの者の首を落とせば、義元公も動きましょう」
「その時は是非、私に首を取らせてくださいませ! 信長さま」
「大した自信だな? 犬千代。初陣が嬉しいのはわかるが、相手は今川軍の総大将だぞ?」
「
だが、今川勢もこちらの動きを探っているのか動きはなく、評議の話題も尽きようとしていた。
「申し上げます!」
広間の
「何事だ? 評議中だぞ」
「松葉城、深田城が清須方の襲撃を受けましてございます」
「なにゆえ守護代さまが……」
家臣団に動揺が広がる中、恒興が信長を振り返った。
「殿! 深田城には、
深田城主・織田信次――、信秀の五番目の弟で、信長にとっては叔父である。
「出陣の用意だ!!」
立ち上がった信長は、そう声を張り上げた。
「よぉしゃぁ!」
犬千代が
「後れを取るなよ? 犬千代」
「任せてくださいって」
前田犬千代にとって、この戦いが初陣となる。
天文二十一年八月十五日、尾張・松葉城とその並びにある深田城が襲撃された。
襲撃したのは守護代・織田信友大和守ではなく、その家臣・坂井大膳たちらしい。
しかし家臣たちだけで動くはずがなく、この襲撃を信友は知っているだろう。
聞けば松葉城主織田伊賀守と、深田城主織田信次は人質にされているという。
これにより尾張下四郡守護代は、那古野城織田家の敵となることを示した。
――世にいう、
◆
末森城では、一通の書状が信行に届いた。
送り主は守護代・織田信友である。
末森城主となっていた信行は、書状を読み終えて
尾張下四郡守護代が信長に対して敵対の意思を示し、戦をしかけたとのことである。
信行はその守護代に推されて家督と弾正忠を継いだが、はっきりと継いだわけではない。 織田家家臣は未だ二つに分かれ、弾正忠の位も朝廷から
しかも心の中には、信長を慕うもう一人の己がいる。
「殿――」
廊で柴田勝家が膝を折る。
「守護代さまは、那古野城の兄上を倒すつもりらしい。深田城の叔父上を人質に、兄上を誘い出すようだ」
「殿のご決断は?」
勝家は、守護代に味方して兄と戦うかと聞きたいのだろう。
「いや。だがわたしにとっても深田城主は叔父。勝家、兄上の陣に加われ」
「まだご決断ができておりませぬか? 殿。亡き大殿の後を継がれることが」
「家臣のすべてが、わたしについているわけではない。どうして彼らが兄上に背を向けないと思う?」
「いえ、某には……」
「守護代さまがなにゆえ兄上を恐れるのか、わかる気がしてきた」
いや、本当は薄々わかっていたのだ。
父・信秀が存命の頃から。
なぜ那古野城の家臣たちが兄に従うのか、うつけと呼ばれ、母でさえ背を向けた兄である。父・信秀の葬儀のときでさえ、信長の行為はありえないものだ。
それなのに――。
「……っ」
「殿……」
信行の中で、兄・信長への思慕と嫉妬がせめぎ合う。
ただ織田家内の対立も、いつか戦へと向かうだろう。
そんな予感がする、信行であった。
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