第五話 暗躍する織田大和守、決裂した主従関係

 長雨ながあめ(※梅雨)が去り、尾張に白南風しらはえ(※梅雨明けに吹く南風)が吹く。

 これからの時期は厳しい日照りにさらされることになるが、武将たちが気になるのは敵の存在とその動向だろう。

 ただ――。


「末森城の信行さまだが……」

 那古野城内・馬屋――、やってきた織田家家臣・佐久間信盛さくましのぶもりが眉間にしわを寄せていた。

「信行さまが如何いかがされましたか? 佐久間さま」

 前田犬千代たち小姓たちと馬屋にいた恒興は、胡乱うろんに眉を寄せた。


弾正忠信勝だんじようちゆうのぶかつと名を改められたそうだ」

 武家で名が変わることは珍しくはなく、犬千代が首を傾げた。

「それが変なことなんですかぁ? 佐久間さま」

「弾正忠は官位なのだ」


 そもそも弾正忠とは律令時代の弾正台だんじようだいに発し、四つある位の一つだという。


 織田弾正忠家は当主が朝廷より弾正忠の官位を与えられたゆえで、家督かとくを継いだからと、弾正忠ではないらしい。つまり信行の『弾正忠』は自称である。

 ゆえに信長は弾正忠家の家督を継いでも、弾正忠とは名乗らずに上総介を自称している。

 二人の父・織田信秀は、朝廷に献金して支え、弾正忠と名乗ることを許されたという。

 ならば信行は、なぜ弾正忠を自称するのか。それは弾正忠を名乗ることで、自分が家督を継いだことを意味すると思ったのだろうか。


「信長さまが、家督を継がれたんじゃないんですか!? 池田さまっ」

 犬千代がものすごい勢いで恒興に迫ってきたが、自分に言われてもである。

「私に噛みつくな! 犬千代」

「これまで信行さまは、常に信長さまをたててこられた。聞くところによると、清須きよすの守護代さまが関わっているらしい」


 尾張下四郡守護代おわりしもよんぐんしゆごだいが信行の家督相続を推していることは、以前から知られていたことだ。


「再び口を出してきた……ということですか?」

「口を出すだけならばいいが、どうも嫌な予感がしてならぬ」

 織田大和守家は信秀の代にも一時対立関係にあり、更にその家臣・坂井大膳は信長を毒殺しようと企んだ。

 もし信行の背後に織田大和守家にいるとすると、恒興も胸が騒ぐ。

  


 この日――、信長を訪ねて那古野城にやってきた僧侶そうりよがいる。

 かつて信長の許育係であった、沢彦宗恩である。

「お元気そうでなによりでございます」

 城館の中庭で火縄銃たねがしまの射撃をしていた信長は、構えていた銃身を下げた。


「俺が凹んでいると思ったか?」

「いいえ。信長さまは、逆境こそ楽しまれる方。ですがあまりやりすぎますと、御味方も減りましょう」


 そう言って苦笑する宗恩に、信長は目を細めた。

 さすが父・信秀が信を於いたという僧侶である。信長の、隠された真の姿を見抜いているようだ。


「信行の事を言っているのか……」

「弟君はお優しい方。ですが、周りの影響を受けやすいのも確か」

 意味深な物言いに、信長は宗恩を睥睨へいげいした。

「何が言いたい?」

「清須の信友さまが、信行さまとよく会われている様子。弾正忠を名乗られたのは、おそらく信友さまの後押し。ですがそれは仮、朝廷からの正式な官位ではございませぬ。問題は、守護代さまが後ろ盾となり、兄君のあなたさまが変わらぬため、御自分が家督を継ぐべきだと決断されたことでしょう」


「…………」

「もうわかっておられる筈、信行さまといつか対立することになると。尾張をかつてのように一つにするには当然、信行さまと大和守家と対立しましょう」

「俺は信行と戦うつもりはない」

 信長は、的に向かって火縄銃たねがしまを撃つ。

「拙僧も実の兄弟が戦うなど、望んではおりませぬ。ですが、人は変わるもの」

 尾張を一つにする――、信長の夢の前に立ち塞がるのは、やはり大和守・伊勢守両守護代だろう。ただ信行とだけは、争いたくない信長であった。 

 

◆◆◆


 今川勢と清州城の織田大和守家の動向が気になる中、八月になった。

 蝉時雨せみしぐれに包まれる那古野城広間では主だった家臣が集まり、評議ひようぎが開かれていた。


成政なりまさ、今川に動きは?」

「義元公は未だ駿河より出ておらぬ様子」

 信長の問いに、佐々成政さつさなりまさが即答した。

「ふん。戦は先鋒せんぽうに任せて、自分はあとからゆっくりとやってくる算段か。尾張も舐められたものだな」


 上段の間にて立て膝で座っていた信長は、鼻で笑った。

 この頃になると信長はいつもの傾いた姿ではなく、小袖は蘇芳の色味で下は袴という出で立ちで、髪だけは緋色の紐でくくっていた。


「今川の総大将は太原雪斎という男。かの者の首を落とせば、義元公も動きましょう」

「その時は是非、私に首を取らせてくださいませ! 信長さま」

 意気揚々いきようようと発言したのは前田犬千代である。

「大した自信だな? 犬千代。初陣が嬉しいのはわかるが、相手は今川軍の総大将だぞ?」

やりの勝負なら負けませんって。今日まで特訓してきたんですからね」

 だが、今川勢もこちらの動きを探っているのか動きはなく、評議の話題も尽きようとしていた。


「申し上げます!」

 広間の敷居しきいにて、小者が片膝かたひざをついた。

「何事だ? 評議中だぞ」

「松葉城、深田城が清須方の襲撃を受けましてございます」

「なにゆえ守護代さまが……」

 家臣団に動揺が広がる中、恒興が信長を振り返った。


「殿! 深田城には、信次のぶつぐさまが――」

 深田城主・織田信次――、信秀の五番目の弟で、信長にとっては叔父である。

「出陣の用意だ!!」

 立ち上がった信長は、そう声を張り上げた。

「よぉしゃぁ!」

 犬千代が嬉々ききとして立ち上がる。

「後れを取るなよ? 犬千代」

「任せてくださいって」

 前田犬千代にとって、この戦いが初陣となる。

 

 

 天文二十一年八月十五日、尾張・松葉城とその並びにある深田城が襲撃された。

襲撃したのは守護代・織田信友大和守ではなく、その家臣・坂井大膳たちらしい。


 しかし家臣たちだけで動くはずがなく、この襲撃を信友は知っているだろう。

 聞けば松葉城主織田伊賀守と、深田城主織田信次は人質にされているという。

 これにより尾張下四郡守護代は、那古野城織田家の敵となることを示した。


 ――世にいう、萱津かやづの戦いである。



 末森城では、一通の書状が信行に届いた。

 送り主は守護代・織田信友である。

 末森城主となっていた信行は、書状を読み終えて嘆息たんそくした。

 尾張下四郡守護代が信長に対して敵対の意思を示し、戦をしかけたとのことである。

 信行はその守護代に推されて家督と弾正忠を継いだが、はっきりと継いだわけではない。 織田家家臣は未だ二つに分かれ、弾正忠の位も朝廷から直接賜ちよくせつたまわったものではない。

 しかも心の中には、信長を慕うもう一人の己がいる。


「殿――」

 廊で柴田勝家が膝を折る。

「守護代さまは、那古野城の兄上を倒すつもりらしい。深田城の叔父上を人質に、兄上を誘い出すようだ」

「殿のご決断は?」

 勝家は、守護代に味方して兄と戦うかと聞きたいのだろう。 

「いや。だがわたしにとっても深田城主は叔父。勝家、兄上の陣に加われ」

「まだご決断ができておりませぬか? 殿。亡き大殿の後を継がれることが」

「家臣のすべてが、わたしについているわけではない。どうして彼らが兄上に背を向けないと思う?」

「いえ、某には……」

「守護代さまがなにゆえ兄上を恐れるのか、わかる気がしてきた」


 いや、本当は薄々わかっていたのだ。

 父・信秀が存命の頃から。

 なぜ那古野城の家臣たちが兄に従うのか、うつけと呼ばれ、母でさえ背を向けた兄である。父・信秀の葬儀のときでさえ、信長の行為はありえないものだ。

 それなのに――。

「……っ」

「殿……」

 信行の中で、兄・信長への思慕と嫉妬がせめぎ合う。

 ただ織田家内の対立も、いつか戦へと向かうだろう。

 そんな予感がする、信行であった。

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