第三話 さらば! 尾張の虎、織田信秀死す!

「これで――、わからなくなりましたなぁ」

 尾張・末森城――、織田家家臣・佐久間盛次さくまもりつぐが最初に口火くちびを切った。

不謹慎ふきんしんだぞ! 盛次」

 家老・佐久間盛重さくまもりしげいさめられても、その口は止まらない。


各方おのおのがたはらは同じでござろう。家督相続の件は織田弾正忠家だけの問題ではござらん。我ら家臣は戦場いくさばに於いて主君に命をかけておる。駿河するがの今川、甲斐かいの武田、今川に組する三河までが尾張に侵攻を開始でもすれば、総大将がうつけでは……」


 そこまで言われて「確かに」と同調し始める者が出てきた。

「ここは、今川と手を結んでは如何いかがか?」

「しかしそうなれば、今川は見返りを要求してこよう」

「信行さまが家督を継がれるまでの間じゃ。殿が亡くなられた今、今川はこれ幸いと攻めて参ろう。これを迎え撃つだけの戦力が、我々にござるか?」

 主君・織田信秀を失い、家臣が二つに割れているような状態では、今川・松平軍を相手に戦えるだろうか。

 確かに今川の侵攻を食い止めるには、和睦もやむを得なしだろう。


「――柴田どの、信行さまはなんと?」

 問いかけられて、柴田勝家は眉を寄せた。

「……ご自身の口からは言えまい。家督を継ぐ、などとは。まだ信長さまを慕われておられる」

 それはこの、二刻前ふたときまえのことだ。



 勝家は、信秀の正室・土田御前に呼ばれた。

 おそらく、今後のことだろう。

 部屋を訪ねると、信行が座っていた。

 

「――また、そのお話ですか?」

 信行は母・土田御前を前に嘆息たんそくした。

「信行、そなたはこの末森城の主。いえ、織田弾正忠家の主なのです」

「母上、那古野城の兄上こそ正当な跡継ぎです」

「信長では、家臣たちはまとめられません。アレがこれまでなにをしてきたか、そなたもわかっておりましょう。信行」

 相変わらず、信長には厳しい土田御前である。


 信長とて彼女にとっては実の子、ただ産んですぐに乳母に託され、母子として過ごしたのはほんの僅か、愛情が自分で育てた信行よりも薄いのは仕方ないだろう。

 さらに信長の素行の悪さが、彼女が信長に厳しい要因である。

「私は、兄上を差し置いて織田弾正忠家を継ぐつもりはございません!」

 温厚な信行が、苛立ちを露わに座敷を出ていく。


「――困った子だこと……」

 柳眉りゆうびを下げ嘆息する土田御前に、勝家は視線を戻した。

「お方さま」

「さぞ酷い母親だとお思いでしょう? 勝家どの。信長も信行も私が産んだ子、ですが母である前に妾は弾正忠家の人間。家のために、最善を尽くすのも妾の務めと思っております。ただ、信行は戦には不慣れ。頼れるのは勝家どのしかおりませぬ」

「この柴田権六郎勝家、ご期待に応えるべく某も最善を尽くしまする」

 勝家は、このときある予感がしていた。

 近い将来この家督相続問題が火種となって、尾張に戦の風が吹くのではないか――と。

 

                   ◆


 織田弾正忠家が尾張下四郡守護代・織田大和守家をしのぐまでになったのは、織田信秀が築き上げてきた力と財力だろう。


 天文七年、今川氏豊の居城であった那古野城を奪い取り、愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に勢力を拡大したという。


 天文八年には古渡城を築き、経済的基盤となる熱田を支配したらしい。

 さらに天文十七年には末森城を築いた。

信秀は、朝廷との縁にも積極的だったらしい。

 上洛して朝廷にも献金し、天文十年の嵐による内裏の建物倒壊に際しては、修理料として四千貫文を献上したという。

三河に勢力を伸ばし始めた信秀を、人は尾張の虎と呼んだという。


 この日の空は白一色に染められている。

 三月となっても風は冷たく、野兎のうさぎなどの獣は寒さにさぞ震えているだろう。


 ――信長さま……。


 恒興は彼の背を追いながら、野を馬で駆けていた。

 いつもなら城を抜け出す信長に一言二言文句を言っている恒興だが、この日は黙って従った。何処どこに向かうのかも聞かず、ただその背を追った。


 織田信秀、死す――。


 その報せは当然、那古野城内に激震が走らせた。

 これからこの尾張はどなるのか――、それは誰にもわからない。


 尾張守護・斯波家にもはやその力はなく、その守護代は尾張上四郡の織田伊勢守家と、下四郡の織田大和守家に分かれたままであり、織田弾正忠家では信秀亡きあとの家督相続でまため始めるだろう。

 そんなときに今川義元が攻めてくれば、どうなるか――。

 一致団結しなければこの尾張に先はない――、恒興はそう思う。なのになにゆえ、身内同士でいがみ合わねばならぬ。


「信長さま」

「ここは以前、父上と鷹狩りに来た場所でな」

 あたり一面の草原、膝丈ほどの草叢くさむらは野兎たちのかっこうの隠れ場所だろう。

「俺には獣が何処に潜んでいるかわからなかったが――、兎の方から頭を出した。だが父上はまだだという」


 ――戦も同じだ。相手を油断させ、充分引き付けてそこを狙う。


 信秀はそういったという。

 その後、信秀の放った鷹は見事兎を捕らえたらしい。

「まったく、何を考えているかわからん父だ。最期ぐらい、なにか言えばいいものを」


 僅か八歳にして那古野城の主にされたという信長は、父である信秀の背を追えなかったという。目標とすべき存在が、なにも語ってはくれない。普通なら、心が折れて当然である。


 はたして信秀は「うつけ」と呼ばれて傾奇者かぶきものとなった息子を、どう想っていたのだろうか。今となっては、その答えを聞くことはもうできない。

大殿おおとのは、信長さまのことを理解しておられてましたでしょう」

 確信はないが、そうだったと恒興は信じたかった。


「行くぞ! 勝三郎」

「帰城されますか?」

「いや……、萬松寺まんしようじに行く」

 そう決断する否や、信長は手綱たづなを引いた。


                     ◆◆◆


 天文二十一年、三月三日――、本来ならば桃の節句である。

 弾正忠家の菩提寺ぼだいじである萬末寺には織田家家臣が顔を揃え、喪主の登場を待っていた。

 この日は、織田信秀の葬儀だからだ。


 実は喪主を巡って、織田家家臣が揉めるという騒動があった。

 嫡男である信長が喪主であるべきという信長を弾正忠家当主に推す派と、温厚で真面目と言われる信行を弾正忠家当主に推す派がここでも対立した。

 結局、信行が「兄上こそ弾正忠家の当主になられる方」と言い切ったため、一旦は落ち着いたのだが、当の信長がまだ来ていない。


「――信長さまは、まだ来られぬのか」

「まったく、平手どのがお側にいながらどのような養育をされたのやら」

 末森城織田家家臣の嫌味に、老臣・平手政秀が一喝いつかつした。

「若殿を愚弄ぐろうするとは無礼ぞ!」

 再び啀み合い始める両者に、家臣の一人が信行に囁いてくる。

「信行さま、これ以上は待てませぬ」

「兄上はきっと来る……!」

 信行は、信長を信じていた。

 確かに昔から暴れていた兄だが、信行は嫌いではなかった。むしうらやましいくらいだ。

 誰にも束縛そくばくされず、好きに野を駆ける兄が。


 ――父上。あなたはどう思われておられたのですか?


 同じ城にいながら、父・信秀は多くは語らない人であった。

 荒れる信長を、周りに逆らうことなく真面目と言われる信行をどう見て、どう想っていたか。いや、答えは最初から出ていたのだろう。

 この尾張をたくすに相応ふさわしいのはどちらか――。


 家臣の半分が「うつけよ」と信長を軽んじ、母・土田御前でさえ背を向ける信長を、信秀は最初から跡取りとしての素質を見定めていたとしたら、彼が信長に対して何も言わなかった説明がつく。

 そう考えると、信長に対して嫉妬しつとも覚える信行であった。

 

「の、信長さま……っ!?」

 家臣の声に、信行は弾かれるように顔を上げ振り返った。

 そこには正装することなく、いつものかぶいた姿の兄がいた。

「兄……上……?」

 信長は前までやってくると、抹香まつこうを手にした。

 そして――。

「なっ……」

 それはあまりにも突然で、ありえない行動だった。

 なんと信長は、抹香を信秀の位牌に投げつけたのである。


「尾張のことは気にするな。だから安心して成仏しろ。クソ親父」


 不遜ふそんな態度に家臣たちが眉を寄せる中、信長だけが笑っていた。

 ――兄上、どうして……。

 信じていたかった。

 弾正忠家の跡取りとして、父・信秀の葬儀を立派に務めてくれると。

 しかし信長は、昔と少しも変わっていなかった。

 父・信秀とて、人を見抜けぬことがあるだろう。ゆえに、その判断が正しいとは限らない。

 しかしこのときはまだ、信行に織田弾正忠家を継ぐ意志はなかった。

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