第二話 前田犬千代、推参!
天文二十年、春――。
那古野城上空を、
大地を覆っていた雪はほとんど溶け、
信長は視線を手元に移す。
握られているのは弓矢だ。
――そういえば、勘十郎はもう元服したんだったな。
信長の二歳下の弟、
ゆくは末森城主となる弟とは、ここ何年か
「兄上――」
信長がまだ、吉法師と名乗っていた頃のことである。
「元気か? 勘十郎」
「お会いしとうございました」
屈託なく微笑む弟に、吉法師は救われる。
勘十郎こと織田勘十郎信行は、吉法師の二歳下の実弟である。
「来たかったんだが――」
近くにいた末森城家臣の男と目が合う。
正直な奴だ――と、吉法師は思った。
男は最初眉を寄せていたが、吉法師と目が合うと慌てて視線を逸したのだ。
「兄上……?」
「母上は――、お元気か?」
「はい。お会いになりますか? 兄上がお出でになったと聞けば喜ばれましょう」
「いや、いい……」
恐らく母・土田御前は、喜んではくれない。
吉法師は母の愛を知らない。抱かれた記憶もなかった。
乳母によって育てられた吉法師は母に甘えたくても、弾正忠家跡取りという立場上、それが許されなかった。
さらに「うつけ」となっていく吉法師を、土田御前は理解することなく厳しく当たり、母との距離をさらに遠くした。
「兄上、今度は弓の射方を教えてください」
兄と慕ってくる信行だけが、この末森城での中では唯一の吉法師の味方だった。
あれから数年――、信行との約束は未だ果たせていない。
そんな信行も今や、十五歳である。織田弾正忠家の中で家臣が二つに割れていることに気づくだろう。
織田弾正忠家の家督相続――、自分たちの次の主君が那古野城の信長か、それとも末森城の信行か。
信長が今もうつけと呼ばれ、身なりも
温厚で真面目な信行なら、織田弾正忠家当主として家臣たちに受け入れてもらえるだろう。だが、信行にはまだ合戦の経験がない。
尾張下四郡守護代・織田信友とはうまくやれても、今川と戦えるか否か。
いや、信行を操ろうとする者も出てくるかも知れない。
「如何なされましたか?」
不安が信長の表情に出ていたのか、控えていた恒興が見上げてくる。
「――父上の容態、芳しくないようだな……」
城館の庭先で弓を射っていた信長は、そう聞き返した。
織田信秀が病に伏したことにより、家督相続問題が再び騒がれ始めた。
ここ那古野城でも、一部のものが信行を推すべく動こうとしているという。
「お見舞いに行かれますか?」
信長の放った矢が、的の中心を射抜く。
「また厄介者がきたと言われるだけさ」
「素行を改められませれば、皆の目は変わりましょう」
「それでは面白くない」
信長は「うつけ」を改めるつもりはなかった。
まだ人を見定める必要があったからだ。
家臣といえど
疑心暗鬼にならざるを得ないのが、弱肉強食の戦国の世である。
裏切られるくらいなら――。
背を向ける家臣たちを幼くして見てきた彼は、真にこの尾張を想い、共に戦う者を求め続けた。
はたして、自分の側に何人残るだろうか。
「馬番でもなんでもしますから!」
突然聞こえてきた声に、信長の二の矢が逸れる。
「――何事だ……?」
「さぁ……?」
お互い眉を寄せ、二人は振り返った。
◆
「しつこいぞ! 小僧」
召し抱えてもらおうとやってきたのだが、文字通りの門前払いである。
「そう言わず、殿さまに取り次いでくれよ! 父上も織田家家臣なのに、なんで俺はだめなんだ?」
若すぎるのがいけないのかと思ったが、そうでもないらしい。
父が織田家家臣なのは本当だが。
「
「嘘じゃないよ。俺の父は尾張・
荒子城は利昌が織田家より荒子の地に築城したもので、その利昌は織田家家臣・林秀貞の与力であった。
「父親が家臣だろうが、無理なものは無理だ! ここを何処だと思っておる」
確かにいきなり城に押しかけて家臣にしろとは前代未聞だが、少年はなんのそのである。
「織田弾正忠家・織田三郎信長さまの城――、だろ? それに、俺は小僧じゃなくて、前田犬千代(※のちの前田利家)っていうんだ」
「この生意気な……っ」
帰らぬ犬千代に、城番の顔に青筋が浮かぶ。
「――本当にここで仕える気があるのか?」
「え……」
割って入ってきた人物に、犬千代の声も止まる。
犬千代もかなり
歳は十代後半、長い髪を緋色の紐で高く束ね、小袖は片肌脱ぎ、どう見ても家臣には見えない。
「ここの城主はうつけと評判だ。出世の見込みは薄いぞ? なぁ? 勝三郎」
勝三郎と呼ばれた男も若く、こちらは小袖に肩衣袴と普通だ。
「ええ。人を振り回すのがお得意ですので、苦労しますね。かなり」
「あのう……、だれ?」
混乱する犬千代に、男は告げた。
「お前が会いたいと言っているここの主だ」
◆◆◆
前田犬千代は、尾張生まれの尾張育ちである。
尾張は冬になると、
伊吹おろしとは、濃尾平野から渥美半島にかけての地域において、冬季に北西の方角から吹く季節風の呼び名である。
「いい天気だがや」
さすがにこの時期は、伊吹おろしは吹かないだろう。
彼は念願かなって、信長の小姓となった。
前田犬千代、このとき十四歳。
「気楽なもんだ。いつ戦になるかもしれんのに」
共に馬の世話をする小姓仲間にため息をつかれたが、織田家家臣となったからと性格まで変わるはずもない。
聞けば現在の尾張は外から今川に狙われ、内でも大変らしい。
「慌ててもしょうがにゃあだで。なぁ?」
馬の体を磨きながら、犬千代は馬に同意を求める。
彼の癖は、気が緩むと
――俺は変わっていると言われるが、ここの殿様もでら(※凄く)変わってるがや。
織田信長――、その身なりは片肌脱ぎにした小袖と簡単に括った頭髪、うつけと呼ばれて周りを
だが犬千代は、落胆することはなかった。
むしろ、面白そうだと思ったのだ。
「確かに、馬番に出陣の機会はないな」
「俺はこのまま、馬番で終わるつもりはないよ。手柄を立てて、城持ちになるんじゃ」
犬千代は近くにあった長棒を構え、えいっと前に突き出す。
まだ元服も初陣もしていないが、武将の家に生まれたからには戦で功績を挙げるのが家のため、自身のためと心得ている。
そんな犬千代の視界に、信長の姿が捉えられる。
「信長さまっ」
片膝をつく犬千代に、刀を腰に差した信長が命じる。
「犬千代、馬の用意だ」
「もう、準備はできております」
この刻限は、城下に向かうのが信長の日課だという。
だが――。
「信長さま!!」
「勝三郎、また説教か?」
駆け込んできたのは、信長の腹心だという池田恒興であった。
「そうではございません……。さきほど末森城から書状が……」
「――父上になにかあったか?」
恒興の表情は強張り、次の言葉が発せられるまで間が空いた。
「……
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