第二章 父の夢は俺の夢

第一話 宿敵! 今川義元

 天文十八年三月――、那古野城城郭なごやじようじようかくから外へ伸びる梅の枝が小さなつぼみをつけた。

 雪を抱いていた尾張三山おわりさんざんも、まもなく雪解けとなるだろう。

 ただ一見平穏に見える尾張だが、内にも外にも火種ひだねくすぶっており、今川勢いまがわぜいが侵攻を開始したというしらせが届いた。


 ――合戦の日が近い。


 池田勝三郎恒興は歩むろうの途中で足を止め、口を引き結ぶ。

 駿河するがの今川義元は、尾張にとって宿敵である。

 信長の父にして織田弾正忠家当主・織田信秀の頃から対戦、本当の勝敗はどちらかが首を取られ、国が制圧されたときだろう。

 この日――、三河・安祥城あんじようじようから信長を訪ねてきた人物がいる。

 信長の異母兄いぼあに、織田信広である。

 なんでも安祥城近くまで、今川勢が侵攻してきたらしい。


 安祥城は元は三河国みかわのくに・松平氏の城だったが、天文九年に信秀が安祥城を攻撃し落城させ、このときに信広は安祥城城代(※城の管理・守衛をさせた者)となったらしい。

 それまで織田軍の相手は、三河国・松平広忠まつだいらひろただ(※徳川家康の父)だったのである。

 そんな松平広忠が頼ったのが、駿河の今川義元らしい。


 以後――、西三河の領有を巡り今川との睨み合いが始まったのである。

 信広は信秀の西三河進出に従って、若い頃から転戦したという。

 昨年の小豆坂あずきざかの戦いに於いて信広は先鋒を務めたそうで、小豆坂で今川勢と鉢合わせしたという。しばらく戦ったが劣勢を強いられ、父・信秀本陣があった付近までひとまず退いたという。

 本隊と合流して盛り返した織田勢は今川勢を小豆坂まで押し返したが、そこで伏兵に遭って再び苦戦。信秀はその後も攻撃を続けて二度撃退され、戦いは今川方の勝利となったらしい。


「もう一匹、しつこいへびがいたのを忘れていたな……」

 上段の間にて、信長は渋面になった。

 もう一匹の蛇とは、今川義元のことだろう。なら他に蛇とはそれは斎藤道三のことで、まむしの異名をもつ。

 しかし和睦が成立した現在、蝮が尾張に噛み付いてくることはないだろう。


「蛇といえば――、どうだったんだ?」

「は?」

 面白そうに口の端を吊り上げた異母兄に、信長が胡乱うろんに顔をしかめる。

「隠すなって。蝮の姫と婚礼をあげたからには、その夜にすることといえば一つしかないだろ? なぁ? 恒興」

 まさか話を振られるとは思っていなかった恒興は、ビクッと肩を踊られて視線を泳がせた。もちろん知らないわけではないが、当の本人を前にして言えるわけがない。

「えっ……、えーと……」

 案の定、目を据わらせた信長の視線とぶつかり、恒興はかかなくてもいい汗をかく羽目になった。

「ま、頑張れや」

 信広はそう言って立ち上がった。

異母兄上あにうえ、援軍要請の折にはこの信長、いつでも駆けつけまする」

「ああ」

 信長の言葉に信広はいつもと変わらぬ笑みを残し、那古野城広間を去っていった。


「信広さまは、大丈夫でございましょうか?」

 信広が去るのを見届け、恒興は信長を振り返った。

「父上とともに戦場いくさばを駆けた異母兄上のことだ。心配いらんさ」

 信長は膳から銚子ちようしを取り上げ、さかずきに酒を注いだ。

「ですが、相手は大殿も苦戦される今川義元。この時期に動いたのが気になります」

「三河の松平広忠まつだいらひろただが亡くなったのが、きっかけだろうな」

「なにゆえそのことを?」

 尾張から出たことがない信長が、三河のことを知り得るはずがない。

「竹千代(※のちの徳川家康)から聞いたのさ」

 竹千代と聞いて、恒興は嘆息たんそくした。

「また竹千代どのに会われたのでございますか? 

「遊びに誘うのが、何故いかん?」

「竹千代どのは、尾張に遊びに来ているわけではございません」

 松平竹千代は、いわば人質。

 本来ならば今川の人質だが、これも今川は面白くないらしい。


 信長が二杯目を口に運びかけ、その手を止める。

 衣擦れがしたのである。

「――申し訳ございませぬ。お取り込み中とは存じ上げず……」

 廊に、帰蝶が侍女を伴って立っていた。

「構わん」

「殿が柿をお好きと伺い、このようなものをお持ちいたしました。美濃の名物、干し柿にございます」

 侍女が膳を置くと、そこには皿に乗った干し柿があった。

「ほう、美味そうだな?」

 干し柿に手を伸ばす信長に、恒興は口を開きかけた。

「お前も食うか? 勝三郎」

「いえ……」

 信長の勧めに恒興は軽く頭を下げると、彼も広間を辞した。


◆◆◆


「私はまだ――、殿の命を隙あらば狙うものなのでございましょうか?」

 恒興が出ていくと、帰蝶がそう言って柳眉りゆうびを寄せた。

「誰かに、言われたか?」

「いいえ、そうではありませぬが……」


 恒興が何を言おうとしたのか、信長にはわかっていた。

 帰蝶が信長を殺そうとするのではないか、干し柿には毒があるのではないかと。

 主君を護るのは家臣の務め。主君が間違っていればいさめるのも家臣の務め。そのことは、うつけと言われている信長にも充分わかっている。

 和睦を結んだからと、斎藤道三が気を許したかどうかはわからない。ゆえに恒興は警戒したのだろう。さすが帰蝶も、恒興の態度を察したらしい。


「お前はどうなんだ? 帰蝶。今でも俺の首が欲しいか?」

「こちらに嫁ぐ以前、そう思っておりました。私は斎藤道三の娘、斎藤家のためならばと犠牲になるのもいとわぬと生きてまいりました。ただ、私は女。戦場で功績を挙げることは叶いませぬ」

 正直に肚を明かす帰蝶に、信長の帰蝶への警戒はない。

「道三のことが、好きなんだな」

「殿もお父上のことがお好きなのでございましょう?」

「よくわからん。幼い時にこの那古野城を譲られて、あとは放置だ。俺が暴れようが何も言わない。罵倒するでも諫めるでもない。せめて共に戦をすればその背を追えただろうが、おそらくそれはもう無理だろう」


 父・織田信秀――、幼くして分かれて暮らさねばならなくなった信長はある意味、異母兄・信広がうらやましかった。

 共に戦地を駆け、戦術などを学べたのだから。

 現在も、信秀の肚がわからない。


「殿……」

「あの夜も言ったが、俺はこの首をやるわけにはいかん。たとえお前が望んでも」

 婚礼の夜――、先に寝所で横になっていた信長は、背後で懐剣を抜く音を聞いた。

 しかし帰蝶は、信長を殺さなかった。

 万が一のときは殺せと道三に言われたという帰蝶は、その懐剣で自らの首を突こうとした。それを止めたのは信長自身だ。

「お前は蝮の娘だが、俺の妻だ。主に従うのが務めというならば、これからは俺に従え」

 帰蝶は「はい」と答えて、信長の腕に抱かれた。

 そう、信長にはやることがある。

 信長にとっても、今川義元は倒すべき相手。だがそれは、目的の一つである。

 

  

 その年の晩秋――。

「――異母兄上が今川勢に囚われただと!?」

 十一月九日、織田信広が守る安祥城に再び今川勢が攻めてきたという。

 信広に言った通り信長は那古野城を出陣、鳴海砦なるみとりでまでやってきていた。しかし既に、安祥城は落城、報せはそのあとに来た。


「今川は、松平竹千代との交換を要求している由」

「信長さま」

 恒興が信長を仰ぐ。

「父上は、なんと言っている?」

 安祥城落城の報は、末森城にも行ったらしい。

「要求を飲まれるご様子」

 以前の信秀ならすぐに押し返すべく出陣していただろうが、織田信秀が戦場に立つのは、小豆坂の戦いが最後となった。

 最近は末森城から動くことはなく、体調にも異変を生じているらしい。

 会いに行こうと思えば会えないわけではないが、信長は会いに行かなかった。自分を良く思わぬ末森城家臣や、母・土田御前の目に晒されるのは苦ではないが、弱った父の姿を見たくなかったのである。

 かくして、松平竹千代は尾張を去った。


――竹千代、いつか何処かで会おう。


 馬を飛ばし国境まできた信長は、三河国の方角に向かってそう心の中で呼びかける。

 再会したとき竹千代は織田の好敵手となっているかも知れないが、それでもともに河の水に浸かり、岩魚を齧った仲である。敵となったとしても、成長したその姿が楽しみな信長である。このとき織田信長、まだ十六歳であった。

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