第一章 うつけ信長、我が道を行く!
尾張の大うつけ
天文十七年十一月――、尾張・
那古野城は尾張守護代、
この日は雲ひとつない青空で、麗らかな日差しが座敷の奥まで飛び込んでいる。
それでもいったん陽が雲に隠れてしまえば風は冷たく、まもなくこの尾張に
吹いている風はそれほど強くはないものの、枯れ葉が渦のようにばらばらと飛び回っていた。
部屋で書を開いていた若き織田家家臣・池田恒興は、晴れ渡る空を見上げ、思いに浸る。
池田家は恒興が生まれたときは既に織田弾正忠家・家臣だったが、彼の父・
さらに、恒興の母が織田弾正忠家当主・織田信秀が
その縁があってか恒興は、その吉法師の小姓となった。
池田恒興は僅か十歳、吉法師十二歳のことである。
そもそもこの那古野城は、
さらにかつて尾張は、守護大名・
斯波氏は両者を巧みに操縦していたが、やがて守護大名としての実力を失ったという。そんな大和守家から枝分かれした一族が、弾正忠家である。
当主・織田信秀はまだ元服前の吉法師に那古野城を譲り、
このとき吉法師は、まだ八歳だったという。
恒興が彼の小姓となるのはこの二年後だが、この吉法師の行動が恒興をはじめとする家臣たちを悩ませ始める。
天文十五年、吉法師は元服し名を変える。
織田三郎信長――と。
「恒興、ここにおったか」
恒興が書に視線を戻したとき、声をかけてきた人物がいる。
信長の傅役(戦国時代、武将の跡継ぎにつけられた教育係)、
政秀は信秀の代から弾正忠家に仕える重臣の一人で、次席家老を務めたという。さらに昨年には後見役として信長の初陣を滞りなくすませたらしい。
「如何されましたか? 平手さま」
今や白髪の交じった頭に、顔にも
政秀が眉間に皺を刻むときはたいてい厄介事が起きた場合で、さっそくなにか起きたようだ。
「若(※信長)を探しておるのだが、そなた一緒ではないのか?」
「申し訳ございません。今朝お部屋に伺ったのですがいらっしゃらず……」
恒興が
信長の部屋を訪ねてみればもぬけの殻で、そのときは
信長という青年は、城を抜け出すのは日常茶飯事なのだ。
「それっきり
政秀はそう言って
政秀の厄介事の多くは、その若殿――信長に原因があるらしい。
恒興自身も信長に振り回されているのは常だが、傅役である政秀の責任は恒興より重いようだ。
政秀の役目は信長を織田弾正忠家の跡取りとして、立派に養育することを旨としているという。
だがその信長といえば、することなすこと
政秀が眉間に皺を刻み、ため息をつくのは当然かも知れない。
このままでは、信長が織田弾正忠家当主となれるか非常に危うい。
世は下剋上、実力があるものが出世する世。
主君であれ、家臣によって首がすげ替えられるのは珍しくはないらしい。
故に主君筋である織田本家・大和守家は、弾正忠家がいつ守護代でもある自分たちを脅かすか戦々恐々らしい。
弾正忠家は大和守家に仕える三奉行だが、その力はその大和守家を凌ぐほどだという。
今や尾張守護大名・斯波氏に守護としての力はなく、周りは駿河の今川や
結束しなければならないという時期に、
「若は、なにを考えておられるか……」
政秀は、
それは恒興も同感で、信長がなにを考えているか本人に聞きたいところだ。
「平手さま……」
「恒興、以前わしが言ったことを覚えておるか?」
そう言われ、恒興は「
恒興が信長の小姓となって、少し経った頃のことだ。
――そなただけは、吉法師さまの御味方でいよ。
まだ十歳の子供である恒興に、政秀はそう言った。
ただそのときは、彼の言っている意味がわからなかったが。
この那古野城内でも、信長の素質を疑う家臣がいる。
信秀公の跡継ぎは、
末森城はこの年、東山丘陵の末端に織田信秀が築城した城で、三河国松平氏や駿河国今川氏などの侵攻に備えてのものらしい。
信秀は、これまでの居城であった古渡城を放棄し、末森城を居城としたのである。
そしてそこには信長の母にして信秀の正室・
信行の性格は、真面目で温厚という。
つまり織田弾正忠家の家臣たちもこの尾張同様に、次期主君となる当主を巡って、二つに分かれているのである。
信長を探すため書院を出た恒興は、
何かと視線を落とせば、落ちているのは柿である。
熟していれば頭が大変な事になっていたが、那古野城の門に柿の木などない。
不審に思って視線を上げて、恒興は思わず絶句した。
塀の上に、柿をかじる風変わりな少年がいた。
片肌脱ぎにした緋色と
「の、信長さまぁ!?」
「よぉ、勝三郎」
恒興のことを通称で呼ぶ彼は、塀の上で笑っていた。
ありえぬ主の登場の仕方に
「よぉ、ではありませぬ! そのような所でなにをされておられるのですか……!?」
「なにって、これから河へ行こうとしてだけだが?」
平然と答える信長に、政秀ではないが恒興もため息をつきたい心境である。
「信長さまはこの那古野城の主にございます」
本来ならば主君を
しかしである。
ここは諌めねばならない。
城主といえど、塀を越えて出入りするのは良くはない。
が――。
「お前、俺に大人しく城の中で座っていろと? 無理だな。
さすが信長も、家臣たちが自分をどう見ているかわかっているらしい。
「お立場が悪くなるだけでございます」
「お前、政秀の
「ちょうどいい。お前も付き合え! 勝三郎」
信長は、そういって親指を立ててこっちへ来いと促す。
「私まで塀を越えろと?」
「主の命令だ」
ずるいなと思いつつも、主の命令と言われると逆らえない。
ゆくは恒興も、織田家の武将として戦場に立つだろう。
だがその時彼の前にいる総大将は、末森城にいる織田信行ではない。織田三郎信長――、恒興はそう思っている。
――そなただけは、吉法師さまの御味方でいよ。
平手政秀に言われた言葉通り、自分は背を向けず、信長にどこまでも付き従おうと思う恒興であった。
◆◆◆
「尾張の虎め……」
書状に目を通し終えて、男はふんっと鼻を鳴らす。
男の名は
今や美濃国の大名だが、道三はかつては油売りであった。
当時名乗っていた名は庄五郎といい、武士になりたいと思った庄五郎は、美濃守護・
斎藤姓を名乗るようになったのは天文七年、美濃守護代の
道三が美濃の国主となる際、美濃守護大名・
尾張の虎と言われた、織田信秀である。
その織田信秀が大規模な稲葉山城攻めを仕掛けてきたのは今年のことたが、道三は籠城戦で織田軍を壊滅寸前にまで追い込んでいる。
書状は、なんとその信秀からである。
道三は、いちゃもんでもつけてきたかと思ったが、そうではなかった。書状を開けば、和睦したいという。
果たして本心かどうか――。
いまいち、相手の
道三は、目を細め疑念を抱く。
ついこの間まで、戦っていた相手である。
和睦と見せかけて襲うのは、この世では珍しいことではない。
「父上……」
呼ばれて視線を移動させると、衣擦れをさせて、一人の
「
帰蝶――、道三の娘である。
「尾張から書状が届いたと伺いました。また――、戦になるのでございますか?」
「最悪はそうなるだろうの。だがこの道三、噛み付いた相手は必ず仕留める。これまでそうしてきたのだ」
織田信秀が尾張の虎なら、道三は美濃の
主君の謀殺や乗っ取りなどの手法を用い、戦国大名にまで登り詰めたのが理由である。
「ですが草の者(※忍者)によれば、現在の尾張は纏まっていないとか」
尾張が一つでないことは、道三も知っていた。
「確かに攻め入るなら今であろうの。信秀も最近では病がちだと聞く。尾張で力があるのは信秀の織田弾正忠家。奴がくたばれば、目の前のたんこぶがなくなるが――」
道三はそう言って、視線を手元の書状に視線を戻す。
尾張の脅威が去ったとしても、別の脅威が木曽川を越えてくるだろう。
「なにか気にかかることが? 父上」
「帰蝶、お前にやってもらうことがある」
「――なんなりと。父上」
帰蝶はそう言って、頭を下げた。
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